翌日、俺はミノリを車に乗せて、フォントネーにある、ルブールこと、エミール・ド・リラダンの屋敷へ赴いた。
ミノリの言っていることは、それなりの説得力があったし、ある意味雇用主のアドルフに影響を受けているような気がする、プロ根性や仕事への責任感は理解できるものではあった。
しかし、だからといってルブールが、犯罪者である可能性が高いことに変わりはなく、殺人を犯している可能性が、払拭できたというわけでない以上、やはりミノリを一人で行かせるわけにはいかなかった。
それとこれとは、話が別だ。
真昼の陽光に水飛沫を輝かせている、フォントネー教会前広場の噴水。
白亜の建築を背景にして、日蔭のベンチに腰掛けている、目の前にベビーカーを置いた主婦達が、夢中になってお喋りをしている。
丸い噴水へ入り込んで、水面を蹴飛ばしている、3、4歳ぐらいの幼児達は、彼女らの子供だろうか。
教会の塔に嵌めこまれた、クラッシックな文字盤の時計の針は、午後1時を回っている。
石畳を敷き詰めた小さな広場の前を通り過ぎ、鉄道駅から続く大きめの通りへ出ると丘の上を目指した。
中央分離帯のない片側二車線の道路は、途中から車線数が減少し、案内標識に従ってさらに細い道へと入っていく。
センターラインの引かれていない坂道はカーブを繰り返し、何度か住宅らしき建物が見えた他は、誰かの私有地と思われる、鉄柵で区切られたブナや楓の森が両側に続いていた。
ときおり途切れる茂みの隙間から、幾度か古い石造りの城壁が姿を垣間見せ、彼方に見下ろせるフォントネーの街並みが、駅前との標高差を教えてくれた。
さらに標識に従って、舗装されていない生活道路へ入っていく。
幸いと、クレ・ヴェルト通りに建物はひとつしかなく、ミノリの案内を待たずに目的地へ辿りつくことができた。
「コラムニストっていうのは、随分と景気が良い商売なんだな」
開放されていた門から敷地へ入って、広々とした庭で適当に駐車した俺は、車を降りて辺りを見渡した。
玄関前と思われる、舗装されたその場所には、他に十数台の車が停めてあった。
全てがルブールの車であるにしろ、そうでないにしろ、敷地内にこれだけの駐車スペースがあり、一見して部屋数が10を下らない屋敷を住居にしているここの主が、相当の金持ちであることは間違いがない。
「いいからおじさんは、この荷物を持って。入り口はあっちだから、ちゃんと付いて来てね」
そう言われて、ミノリから大きめの包みを渡される。
「はいはい・・・、ちゃんと先生に付いて行きますよ」
そう言いながら、咥えていた煙草を足元に落とし、靴底で踏みつけると、再び叱責が飛んでくる。
「ちょっと、ポイ捨て禁止! 行儀悪いよ」
キャンバス地の鞄を持っていない方の手で、平たくなった吸殻を摘まみあげて、小さなミノリの背中を追った。
そうしている間にも、次々と車は到着し、空いたスペースに駐車しては、訪問者達が建物の中へと入って行く。
「何かあるのか?」
「さあね。おじさん、こっちだよ」
訪問者達の顔触れは、一様に20歳前後の若者達ばかりだった。
彼らがルブールの親衛隊と言われている連中なのだろうかと、心当たりを付ける。
門からまっすぐに伸びている、両開きの大きな玄関口は開放されており、天井の高い玄関ホールにも若者達が溢れていて、皆、忙しなく何かの作業をしているようだった。
「これは河上先生、お越しになっていたんですね・・・・おや、そちらの方は」
玄関ホールに溢れる若者達と、見たところ変わりのない年頃の神経質そうな青年が、俺たちに気が付いて声をかけてきた。
「こんにちは。この人はあたしの助手。おじさんで、いいよ」
ミノリを先生と呼んで来た青年に対し、彼女が俺をそう紹介したから、慌てて俺は自分の名前を伝えた。
「ムッシュウ・ラスネール、はじめまして。僕はダミアン・デ・ゼルミーと申しまして、この家の使用人をしている者です。ルブール先生を呼んでまいりますので、そちらでお掛けになって、お待ちください。もしも時間がかかるようでしたら、先にお部屋へお通しして、茶を出させますので・・・あ、ポワトゥ、そのヒアシンスは祭壇に・・・」
ポワトゥと呼ばれた、まだ15、6歳ぐらいに見えるあどけない顔の少年は、両腕に一杯抱えたヒアシンスの花束と共に、目の前を通り過ぎていった。
辺りへ濃厚な甘い香りが、強烈に漂っている。
ところで、このダミアンという青年が、最初にミノリが頭を悩ませていた、”Cさん”だと、後になって判明した。
ミノリも、このときに初めて名前を明かされたのだと、本人は強行に言い張ったが、おそらくミノリのことだから、この言い訳は当てにならないだろう・・・俺やアドルフの名前を、正確に覚えているのかすらも、甚だ怪しいからだ。
初対面の相手に対して、おじさんでいい、はないだろう・・・全く失礼な。
「そろそろ夏になるってのに、ヒアシンスなんて、まだ残っているんだな・・・・まあ、花屋に行けば、年中手に入らない花なんて、最近はないのかもしれんが」
「あ、この匂い・・・」
ふと、ミノリが何かを思い出したように、目を見開いて言った。
「どうかしたのか? どうでもいいが、何で俺がお前の助手なんだ。しかも、ここの使用人に先生とか呼ばせてんのか、偉そうに」
俺は先ほどの使用人とのやりとりについて、呼称以上に気になっていた点をミノリに追及した。
「来なくていいって言ったのに、付いてきたのはおじさんの方じゃない。助手とでも伝えておかないと、連れて来ようがないでしょう? 絵に関しちゃ素人なのに、師匠なんて嘘ついたらすぐバレちゃうだろうし。・・・あの子の部屋でも、この香りがしていたんだよね。とっても強い香りだったから、芳香剤か何かだと思っていたんだけど、そういえば花が飾ってあったっけ・・・あれって、ヒアシンスだったんだ・・・」
何やら懐かしげに、記憶を巡らしているような柔らかい表情を作って、アーモンド形の目を細めながらミノリが微笑する。
「ヒアシンスは結構匂いがきついからな。・・・・その部屋っていうのは、例の死体の少年の部屋のことか? ところで、何か特別にヒアシンスの思い出でも持っているのか、妙に懐かしそうな顔をしているが」
もしも待たせるようなら、先に部屋へ通して茶を出す・・・などと、ご丁寧なことを言っていたわりに、ダミアンが玄関ホールを去ってから、時間が気になる程度の間、俺達の放置が続いていた。
無意識に煙草へ手が伸びそうになり、俺はさきほどの吸殻をまだ手に持っていてことを思い出す。
ちらちらと視線を巡らすが、灰皿らしきものを見つけられず、俺は諦めて再びジタンのケースをジャケットに仕舞った。
「小学校のときに、ヒアシンスの水栽培をやったんだよ。理科の実験で根っこの観察日記を付けていたの。日本の小学校では、たぶんどこでもやってるよ。教室の後ろにズラーッと並べて。・・・でも、こんな匂いしてたかなぁ。・・・もっと池みたいだったような、気がするんだけど」
「まあ匂いは好き好きだし、子供と大人になってからじゃ、好みも変わって来るだろうしなあ。しかし池とはどういう意味だ?」
「なんていうのかな・・・、透明プラスティックのポットに溜まった、緑の藻のあたりから、ドロッとしていて、雨の日の下水っぽい匂いが、してたんだよね。それが日に日に強くなってきて、段々授業にならなくなって、ある朝登校してみたら、教室からヒアシンスが全部撤去されていたの、・・・どこ行ったんだろうね。花もあんなに綺麗に咲いてなかったかも」
「堪りかねた先生が捨てたんだろうな。・・・・ところで、ヒアシンスに纏わるギリシャ神話を知っているか?」
要するに、ミノリを含めた全員が水栽培に失敗して、根を腐らせたということらしい。
何人いたのか知らないが、さぞかし壮絶な悪臭になっていたことだろう、・・・先生も気の毒に。
「ギリシャ神話?」
「ああ、ヒュアキントスという美少年の名前が、この花の名前の由来になっている。太陽神アポロンに愛され、二人は恋人になったんだが、西風の神であるゼピュロスの嫉妬を買った。あるとき二人が円盤投げをして遊んでいたのを見つけたゼピュロスは、そこへ強風を吹き付けた。その風に乗って円盤がヒュアキントスの頭の上に落ち、彼は血を流して死んでしまった。彼の死を悲しんだアポロンはその血から美しい花を作る。それがヒアシンスだと言われている」
「へぇ〜・・・そう考えると、なんか気持ち悪い花だね。池みたいな匂いだし」
「まあ神話にはこういう意地悪な話が多いからな。・・・どうでもいいが、ヒアシンスが臭かったのは、お前の育て方が悪かっただけだぞ。今のは池みたいな匂いじゃなかっただろうが。それにしても、その死体の少年の部屋に時期外れのヒアシンスとは・・・実に興味深いな」
さしずめ、ルブールはアポロン気取りということだろうか。
10分ほど待たされたのちに、ようやく俺達は部屋へ案内をされた。
玄関ホールへは、ルブール自ら迎えにやって来た。
「ほう、助手ねぇ・・・」
予め、ダミアンから俺の同行を説明されていたらしい彼は、俺を一瞥してそう呟き、暫しニヤニヤと笑っていた。

 03

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