注意して見ると、警備員と思われる訓練を受けた男の数はそれほど多くはなかった。
外から侵入を受けやすい門や、その近くの扉以外で監視をしているのは、基本的に教団の装束を着た男達であり、建物の裏手へ回ると、それはアドルフが昏倒させた、ほっそりとした少年ばかりになっていた。
なるほど、これなら俺でも倒せるかもしれない・・・迂闊にもそんなことを考えていたとき。
「ムッシュウ、失礼ですが、ここで何をなさっているんですか」
背後から声を掛けられて、俺は心臓が止まりそうになった。
振り返ると、真後ろに男が立っている。
よりにもよって、警備会社の人間だ。
「いや・・・その、道に迷っちゃって・・・」
こういうときに、もっと気の利いた言い訳ができる、立派な男になりたいと、俺は常々思っている。
「リラダン氏のお知り合いですか?」
距離を詰めて来る男は、俺からまったく視線を外さず、隙というものがなかった。
元警官・・・あるいは、軍経験があるのかもしれない。
「あ、ああ・・・そうなんだ。実は友人で・・・・」
「お友達の御訪問があるとは、伺っていないのですが」
警備員はさらに距離を詰めて来る。
気のせいか、その目が鋭く光ったように見えた。
完全に疑われている・・・まあ、どうみても確かに、俺は怪しいな。
「ああ、いや・・・違うんだ。その、だから俺の友人がここに来ていて、そいつはある絵描きで、最近までこの屋敷で仕事をしていたんだが、俺はその運転手をしていて、茂みで用を足している間に、どうやらはぐれちまったらしく・・・」
100パーセントの嘘より、ある程度の真実を交えたほうが、信憑性がある。
よりにもよって、ミノリを引き合いに出すとは情けなく、とても胸が痛んだが、ここで俺が警備員に捕まってしまっては、元も子もない。
侵入者の存在がわかれば警戒レベルが引き上げられ、ミノリもアドルフも捕まる可能性が高くなる。
俺は心でミノリに謝りつつ、なんとか逃げ出せる隙を伺ったが・・・。
「なるほど、その絵描きさんってのが、あなたの友達で、つまりお仲間がここにいると・・・」
「ああ・・・ええっと・・・」
逆に売る形になってしまったようだった。
最悪の展開である。
「ムッシュウ・・・」
警備員はそう言って、俺の腕に手をかけた
「つっ・・・・・!」
力強く、到底逃げられそうにない、逞しい手だった。
「そういうことは、早く言ってくださいよ」
「は、はい・・・うわっ。ちょ、ちょっと何を・・・」
警備はそのまま俺の腕を引っ張り、建物の中へとひっぱって行く。
「何って、こんなところで絵描き先生のお連れさんを、お待たせするわけにはいかないでょう。私がリラダン氏に怒られます。絵ってのは、あの祭壇画のことでしょう。初めて見た時は驚きましたよ。・・・いやね、私も今でこそ、こんな雇われ警備員なんて仕事で生活をしてますけどもね、これでも昔は本気で、画家を志したことがあるんですよ。イギリスのラファエル前派の画家で、エヴァレット・ミレイって人をご存知ですか? オフィーリアの絵が有名ですが、私は『ロンドン塔の王子達』が大好きでねぇ・・・いや、あのロンドン塔ってところは、恐ろしいところですよ。何人もの王侯貴族があそこに閉じ込められて、殺されてしまっているんですから、あんな場所を観光名所にして、しかも血塗られた歴史を寧ろ呼び物にして、金儲けしているイギリス人ってのは、やっぱり頭がどうかしているんでしょうね。本当に変な連中です。ところで、あの名画の王子たちは、そのロンドン塔に閉じ込められた、哀れなエドワード5世と弟のヨーク公なんですが、真っ暗な塔の中で小さな手を取り合って、細い身体を互いに寄せ合い、不安げに彷徨い歩く王子達の、可憐で美しいことといったら、あれに匹敵する絵は他にないぐらいですよ! ところが、絵描き先生の描かれた祭壇画を見た途端、私はなぜだかこの絵を思い出しましてね。虚ろに眠る様子は、どちらかっていうとオフィーリアの表情に近いんですが、少年の可憐な美しさは、まさにロンドン塔の王子そのものなんですよ。それを描かれているのが、日本人で、しかもモデルの少年と変わらないような、年端もいかないお嬢さんだっていうから、本当に驚きましたよ・・・」
「は、・・・はあ」
一方的に捲し立てながら、警備員は俺の腕をとって、廊下をどんどんと進んでいた。
その場で拘束され、閉じ込められるなり、警察へ引き渡されたりしなかったのは幸いだが、どっちにしろ逃げられる隙はなさそうだった。
これでは拘束されたのと、同じことである。
「ところで、するとあの絵描き先生は、今こちらにお越しなんですか?」
不意に警備員が聞いてきた。
どうやらミノリの来訪を知らず、俺を誘導しているらしい。
ということは、少なくともミノリは捕まっていないということだ。
「ええ、まあ・・・」
これなら隙を見つけ出せば、逃げられるかもしれない。
隙があるのなら、・・・の話だが。
「そうですか。それにしても変ですねぇ。・・・だったら、私達に連絡が入る筈なんですが」
「それはきっと、あれだな。俺達が急に来たからじゃないか?」
「急に、ですか・・・どうしてまた?」
「そりゃあ、忘れ物をしたのを思い出したからさ」
不意に警備員は足を止めた。
「忘れ物ですか。一体何をお忘れに?」
「ええと・・・だから、その。何て言ったかな、ほら、あれだ・・・」
ちらりと警備員の顔を見る。
警備員はじっと俺を見ている。
先ほどの興奮した様子は、もうすっかり鳴りを潜めて、口元こそは、まだ僅かに笑みを湛えていたが、灰色のその目は冷静に俺を見つめている。
少しでも不審な点があれば、逃がしはしないぞ、と・・・そう訴えながら。
「ほう、こんなところで会うとは」
突然、廊下の後ろの方からそんな台詞が聞こえて、俺達は振り向いた。
俺はその声に安心し、警備員は相手の顔を確認して、ギョッと目を見開いていた。
「ど、どうしてあんたが、ここに・・・・!」
「アドルフ・・・」
思わぬ助け舟の到来に、俺は少し安心していたが、アドルフはそのまままっすぐに近づいて、親しげに警備員の肩へ長い腕を乗せると。
「ところで先日はどうも。・・・聞きましたよ。 あなた、うちの大事なスタッフをロープで縛ってスパンキングしてくれたんですって?」
「い・・・いや、その、フルニレさん・・・それは、なんというか成り行きでして・・・」
話の方向に唖然としていると、不意にアドルフが俺と目を会わせて、顎をしゃくって見せた。
今のうちに、先を急げ・・・そういうことらしい。
「成り行きで、大事な商品をキズものにされては、困りますねえ。・・・ところで、今のお話を伺っていると、エヴァレット・ミレイのファンなんですって? うちにもございますよ、ミレイの絵が。そうだな、『ブライズ・メイド』とかどうです? それともやっぱり、美少年の方がお好みですか。オレスト・キプレンスキーの『若い庭師』って絵をご存じで? カラバッジオ風の艶やかな表情を浮かべながら、潤んだ黒い瞳でこちらを見つめている、陰影の濃い絵ですよ。1週間で納品できます」
いつのまにか商売の話を始めだしたアドルフに、警備員を任せて、俺は廊下を歩きだした。
「ああ、ちょっと・・・そちらのムッシュウ・・・!」
「ほう、あなたはサンジェルマン警備保障の方でしたか。ミレイとキプレンスキーのセットを100万フランで如何でしょうか」
「いや、ちょっと・・・もういいから放して下さいよ、あちらの旦那が・・・ちょっと、お待ちになってください、ムッシュウ・・・勝手に行かれたら・・・」
「わかりましたよ、80万です。あなたには参りました・・・80万で手をうちましょう。1週間後に会社へ納品ってことで、どうです?」
「勘弁してくださいよ・・・・、もう、何でも買いますから・・・」
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