アドルフの強引な交渉術に感心しながら、長い廊下を歩いていた俺は、前方から聞こえて来る話し声に、焦って手近な部屋へ飛び込んだ。
会話はやがて遠くなっていき、再び廊下へ出ようとして、何気なく自分が入っていた暗い部屋を振り返る。
俺はアッと声を上げかけて、慌てて息を呑み込んだ。
「階段室だと・・・?」
そこは非常灯らしき、小さな明かりだけを暗闇でぽつんと光らせ、上下に階段が伸びている、狭い階段室だった。
ということは、ここから地下へ行けるということである。
「まったく、暗いなあ・・・」
探せば照明のスイッチぐらいは見つかったのだろうが、まさか侵入者の立場で堂々と明かりを点けるわけにもいかず、俺は壁に手を添えながら、いささか埃臭いその階段を、慎重に降りていった。
踊り場のスペースで次の階段へ足を下ろし、最初は耳鳴りぐらいにしか感じられなかった空気の振動が、やがてはっきりと、ドラムの音だと聞き分けられるようになってくる。
屋敷の空気に染み付いたかのような甘い花の香りも、ここまでくれば、明らかに香を焚いたものだとわかってきた。
ウェイの話によると、この香りはハーブ系のドラッグによるものということだったが・・・最後の一段まで階段を降り切った。
ドンドンドン、ドンドンドン・・・・打ち鳴らされるドラムの音に混じり、聞こえて来るのは複数の人々の声。
音に耳を澄ませて歩みを進める。
何かが足に当たり、衝撃で少しだけそれが動いた。
「ここは・・・扉か?」
解放されていたその場所から、部屋と思しき場所へ入るが、そこもまた真の暗闇である。
甘い香りは、もはや息苦しい程になっていて、頭に霞がかかったように、ぼんやりとしてくるのを感じ始めていた。
いいだろう・・・ああ、もっと・・・次は俺だ・・・。
ざわめきの中から、そんな声を聞き分け、その合間に、喘ぐような息遣いが頻繁に混じり、ほんの近くで何が行われているのかは、見るまでもないと思った。
ああん、それっ・・・・ここか、ここがいいのか・・・ああ、ああっ・・・。
激しい情交のやりとり・・・ウェイの話は本当だった。
と、いうことは・・・ここで・・・。
・・・まだ、びくびくいっているぜ・・・おい、さっさと変われっ・・・うわっ、なんだこれ・・・・・・・とろとろじゃないか!
「ああ、糞っ・・・」
頭を振って、妙な気分を自分の身体から追い出そうとする。
目が見えない状況で、耳を塞ぐわけにもいかず、俺はなるべく聞こえてくる声を気にしないように努めていたが、思い浮かべるものは、胸を這いまわる掌の感触、口唇を貪る荒々しいキス、俺の口の中を舌先で擽る、じれったい動きと、開いたファスナーの間から侵入してくる手の動き・・・それが下着越しに俺の物を握りしめ、いつしか下着の中へ・・・。
やばい・・・、そう思った瞬間のことだ。
「うわっ・・・と、危な・・・」
突然何かに躓き、俺は平たいその場所へ手を突く。
ベッド・・・・?
「っていうか・・・痛ぇ・・・」
どうやら固い物へ足の小指をぶつけたらしく、暫く俺はその場で立ち止り、痛みが去るのをじっと待った。
お陰でいやらしい妄想は、完全に頭の中から吹き飛んでおり、歩けるようになった頃合いを見計らって、俺はふたたび慎重に足を進める。
暗がりの中、やがて柔らかい感触に手が触れた。
分厚い布・・・・カーテンだ。
ずっと聞こえ続けていた、荒々しい息遣いは、もはやすぐ間近で聞こえていた。
このカーテンの、すぐ向こう側である。
カーテンの端を探し、壁に突き当たる。
僅かに動かすと、天井から床までを覆う重厚な布が、その位置で一つの部屋の空間を完全に分断しているらしいことが判明した。
そして、初めてこの屋敷を訪れたときの記憶が蘇る。
煌々と炎が揺らめく、何本もの蝋燭の明かりが、カーテンの向こう側から細く差し込み、その光を頼りに、俺は今いる自分の場所を振り返った。
白っぽい壁・・・いや、蝋燭が作り出すオレンジの灯りで錯覚しているが、完全な白い壁なのだろう。
そしてぽつんと置かれた寝台と、突き当たりの扉。
ベッドの周りを覆い尽くしていた、見事なヒアシンスこそ、そこにはないが、間違いない。
初めてこの屋敷を訪れたとき、シャルルの遺体と対面した、あの白い部屋だった。
「うわ・・・ああっ・・・はっ・・・はあっ・・・」
耳へ飛び込んで来る、艶めかしい情交の声。
聞き間違えることはない。
それはルブールの物であり、反射的に振り返り、そこに広がる光景に、俺は衝撃を受けざるをえなかった。
「なんだ・・・これは・・・」
天井に揺れ動く、大きな影。
それは絡み合う二人の姿であり、紛れもない情事そのものであり、光源を探しだし、それが彼らのほんの近くに置かれた、蝋燭によるものであることを突き止めた。
「はあっ・・・シャ・・・シャルル・・・ああっ・・・」
性的興奮に高まったルブールの声が、その名前を呼び、今自分が立っているカーテンのすぐ裏で行われている、冒涜的な交わりを俺は理解した。
「う・・・ぐっ・・・」
込みあげて来た吐き気に、口元を強く押さえる。
狂っている。
ルブールも・・・ここの連中も、皆。
そのときだった。
「やめろっ・・・畜生っ、やめろぉおおおおおおお・・・」
異常な空気を切り裂く叫びが、満場に座した信者席の奥から聞こえ、祭壇と対面する扉が大きく開かれて、明るい外の照明が差し込んでいるのを、俺は発見する。
「畜生っ、畜生っ・・・・シャルルを放せっ、シャルルに触るなっ・・・放せよ、この野郎っ!」
「おい、やめろ・・・こいつを押さえろっ」
間違いない、あれはステファヌだ。
咄嗟にカーテンから飛び出した俺は、信者席へ飛び込み、扉のある方を目指して駆けだした。
「きゃあっ・・・」
「わ、悪い・・・」
ときおりぶつかり、俺に弾き飛ばされる信者達に、謝りながらフロアを進む。
何しろその殆どが、誰かと半裸か全裸で絡み合い、中にはセックスに及んでいる連中も少なくないのだ。
油断しているなんてものじゃないだろう。
ただし、どれほど愛らしく見えても、ここにいる連中は見事に男ばかりだった。
「痛い・・・」
「うわ・・・ごめんな・・・大丈夫か?」
白い上半身をはだけさせて蹲る華奢な少年に、手を貸して立たせてやり、俺はさらに走った。
次第に、祭壇の奥からやってきた、さらなる侵入者の存在に気が付いて、俺を止めようとする連中が出てくる。
「おい、だれかその男を止めろ! 不審者だ!」
「なんだと、不審者は正面入り口じゃないのか? どうして右翼席の方にいるんだ」
「右翼席もだ! 侵入者は二人いる」
そんな会話がまん中の方から聞こえ、体格の良い男達が、俺の方へ近づいてきた。
早くステファヌに追い付かないと。
ステファヌを助けないと。
「畜生、放せっ・・・シャルル! シャル・・・ぐっ 」
兄の名前を呼び続ける悲痛な叫びは、中途半端に途切れ、最後がうめき声になっていた。
そして断続的に聞こえ始める、低い叫びと乱暴な打撃音・・・、ステファヌは彼らに捕まり、手荒な扱いをされているのだ。
「おい、いたぞ・・・おっさん、どこから入って来た・・・・うわっ!」
伸びて来た手をすり抜け、ついでに足を出し、そのまま一気に蹴りあげる。
祭壇で揺れ動く蝋燭の明かりぐらいしか、ここには照明がなく、加えてこの混雑だ。
殆ど勘で動くしかなかったが、とりあえず足の甲を急所へ命中させることに、成功したようだった。
「そこまでだ、ムッシュウ」

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