「ちっ・・・」
しかし反対側から伸びて来た手が俺の肘を捉え、もう一方の手が脇の下から項へ伸びて、一瞬で俺の抵抗を封じていた。
「・・・随分と手を焼かせてくれたな。何者なのか名乗ってもらおうか・・・」
後ろで押さえ込まれた右手の指先が、相手のベルトへ当たる。
さらに肩の後ろに感じる、鍛え上げられた胸の筋肉の隆起・・・・どうやら礼拝堂の中にも警備員がいたようだった。
観念せざるを得ないか・・・そう思ったとき。
突然外から聞こえて来たのは、けたたましいベルの音。
騒然となる礼拝堂。
一瞬男の拘束が緩み、俺は力いっぱい左肘を後ろへ突き出すと、どうにか鳩尾に命中したのだろうか、低い呻きとともに、背後で男が屑折れるのを感じた。
俺は再び扉の方向へ駆け寄ろうとしたが、思いがけない警報音で、既に信者達はパニックを起こしており、動きは規則性を失われて、混乱を極めていた。
非常に危険な雰囲気だ。
「みなさん、落ち着いてください・・・危ないですから、そのままで・・・落ち着いて」
祭壇前へ出て来たダミアンが、マイクを使って必死に信者達へ呼びかけるが、彼らは我先にと扉へ詰めかけようとし、出口の辺りで人集りになっている。
見たところ、この会場には100人以上いるだろう・・・このままでは、事故になりかねない状況だ。
何より、あの場所にはステファヌがいる。
「退いてくれ・・・。頼むから、ここを・・・道を開けてくれ・・・」
信者達から暴行を受けていた、声や音を俺は聞いていた・・・。
「押すなよ、おっさん! 急いでいるのは、みんな同じなんだ!」
考えてみれば、ステファヌの声をはっきりと聞いたのは、これが初めてだったかもしれない。
「通して・・・お願いだから、ここを・・・ステファヌ! ステファヌ、いるなら返事をしてくれ!!」
それが、あんな悲痛な叫びだなんて・・・。
俺がそう思った瞬間だった。
「何をしている、お前も早く逃げろ!」
人垣から聞き慣れた声とともに、強い握力で肩を後ろから掴まれた。
「アドルフ・・・!」
「あの警報機はミノリが鳴らしたから心配はないが、ここでノロノロしていて連中に捕まったんじゃ、意味がない。急げ!」
耳元に口を寄せ、アドルフは低い声で素早くそう告げると、俺の手を引き、祭壇の方向を目指した。
俺はその手を引き返す。
「待ってくれ、あの混乱の中にステファヌがいるんだ・・・助けないと」
「ステファヌなら心配ない。今頃ミノリに合流している筈だ」
「そうなのか・・・どうして・・・アドルフお前、その怪我・・・」
「さすがに3人がかりで来られたときは、やられるかと思ったけどな・・・まあ、パンチの2発で済んだなら、上出来だろ。いいタイミングでミノリが警報機を鳴らしてくれたし・・・とにかく、わかったなら急ぐんだ」
そう言ってアドルフが再び俺の手をとるが、俺はそれをもう一度引き返す。
「少しだけ待ってくれ」
「ピエール、いい加減に・・・、おいお前、どこへ・・・」
俺はまっすぐに祭壇へ駆け上がると、そこに横たわる少年と、再び対面した。
眠るような表情は、やはり穏やかで、頬に差した赤みと、薄く開いた薔薇色の口唇は艶やかで、今なお、死んでいるとは信じられなかった。
着せられていた白衣は、僅かにウエストの辺りに帯だけを残し、大胆に開かれた脚の間からは、生殖器が剥き出しになって見えている。
不自然に曲げられたままの、ほっそりとした脚の向きと、辺りに点々と残された、水滴から立ち上る独特の匂いに、俺は顔を顰めた。
これだけの証拠を派手に残して、ルブールは既に姿を消していた。
「哀れだな」
いつのまにか隣に立っていたアドルフはそう言って、素早く十字を切る動きを見せる。
日頃は無神論者だと言い張るその仕草に、思わず呆然となって彼を見ていると、アドルフは静かに御遺体へ近づき、力なく横たわるシャルルの身体を抱えあげた。
「待ってくれ、アドルフ」
俺は足元に落ちていた、元々少年に着せられていたのであろう、白い衣を拾い上げ、上から小さな身体へ掛けてやる。
そして俺たちは来た道を逆行し、手近な扉から外へ出た。
途中で何人かの信者達と擦れ違ったが、どういうわけか誰も俺たちに注意を払う者はいなかった。
外へ出てみて、すぐにその理由が判明した。
ミノリとステファヌに手伝わせて、後部座席へシャルルの遺体を座らせると、俺達は近づいてくるサイレン音を聞きながら、急いでルブール邸から脱出した。
考えてみれば警報機を鳴らしたのだから、警察が飛んで来ないわけがないのだ。
「間一髪だな」
俺が言うと。
「だから急げと言ったんだ」
呆れるようにアドルフがそう応じた。

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