(エピローグ)

 

連絡通路で背もたれのないベンチに腰をおろし、ぼんやりと煙草を吸いながら、絶え間なく発着する白い機体を眺める。
アエロガール同士の移動は距離が長く、殆どのフライト客はシャトルバスを利用しているため、通路はひっそりとしたものだった。
その通路自体にも、長い長いエスカレーターが敷かれているため、こうしてベンチで足を止めて飛行機を眺めている気紛れな客など、皆無に近い。
「お・・・」
近所のゲートからエールフランス機がゆっくりと動きだし、滑走路へ向かってしばしのドライブを開始した。
モンペリエ行きと思われるその小型機が、パリの地を離れるまで見届けていようと思い、機内の少年を心に浮かべていると。
「ここは禁煙じゃなかったか?」
無粋な言葉で、細やかな感傷を邪魔された。
「まったく、近頃はこのパリでさえ、どこもかしこも禁煙、禁煙・・・こっちは余分に税金を納めているってのに、少しは優遇措置も考えろってんだ」
ぶつくさと文句を言いながら、ジーンズの後ろポケットから取り出した携帯灰皿に火種を押し付け、そのまま吸殻を中へ押し込む。
再び滑走路へ目を戻すと、既に機体は離陸を終えて、そろそろ夏空になってきたパリの上空で、鉄の機体をキラキラと輝かせていた。
せっかくの見送りが中途半端なものとなってしまった不機嫌に、暫く黙って通路を引き返す。
「空港まで送り届けてくれたんだってな」
すると、いつのまにか隣を歩いていたアドルフが、話しかけてきた。
「まあな・・・結局、気の利いた言葉ひとつ、かけてやれなかったけどな」
連絡はステファヌ・ゾラこと、ステファヌ・ヴァレリーの方から寄越してきた。
電話が鳴ったのは、昨日の夜10時過ぎ。
パッサージュ・ブラディーにあるカレー屋で、遅めの夕飯を食った俺は、その足でマゼンタ通りのマルシェに寄って買いだしを済ませてから、アパルトマンへ戻っていた。
ベルの音が外からでも聞こえ、少し慌てて受話器を取ってみると、相手はステファヌだった。
「遅くにすいません・・・」
礼儀正しい彼は、開口一番そう言ったが、切った後で、それがその夜、3回目の電話だったことを、留守番電話の録音件数で俺は知った。
翌朝、つまり今朝の8時に、俺はステファヌのアパルトマンを訪ね、すっかり蛻の殻となっていた彼の部屋から、スーツケースを車のトランクへ運び入れた。
引っ越し業者のトラックは、昨日の夕方のうちに来ていたらしく、備え付けのベッドはあるものの、テレビもカーテンもない閑散としたこんな部屋で、ステファヌが一晩過ごしたのかと思うと、なんだか居た堪れない気持ちになった。
空港へは凡そ40分間のドライブだったが、会話らしい会話はまったくなかった。
ときおり助手席のステファヌの顔を盗み見ると、窓枠に頬杖をついた綺麗な横顔は、ぼんやりと外の景色を眺めているだけだ。
正直に言ってステファヌという少年の印象は、殆どなかったことに、俺は改めて気が付いていた。
彼がパリに出て来たのが、大学入学と同時だとすると、約9か月ほど前ということになる。
アドルフの店で名前を聞くようになったのは、ここ半年弱の話だ。
挨拶ぐらいしか俺と口を聞いていない筈の彼が、なぜわざわざ連絡を寄越してきたのか、パリを離れて田舎へ引っ込む最後の日だと言う、こんな特別なときに、どうして、ぼったくりタクシー屋の俺になど、自分を送らせようと思ったのか・・・・それは、彼がとうとうパリを後にしてなお、謎のままだった。
碌に本人との思い出すら、俺には残していないステファヌは、この地を去ることになった原因であるあの事件の、最後の最後になって、強烈な印象を脳裏に刻みつけていった。
ルブールの屋敷の、あの地下礼拝堂で。
目の前で遺体となった兄の身体が、凌辱されている光景を目の当たりにして、複数の白衣を着た信者から、華奢なその身体を取り押さえられながら、悲痛な声で、何度も何度も兄の名前を泣き叫んでいた。
俺は彼を救出しようと、礼拝堂の入り口を目指したが、結局近づくことさえ出来ずにいた。
ステファヌを助けたのは、彼の雇い主であるアドルフだ。
そしてあの事件を収めるきっかけを作ったのは、同僚のミノリである。
俺はと言うと、真っ先に礼拝堂へ到着しながら、何も出来ずにあの場を後にしただけで、屋敷から引き返すその道すがらも、後部座席で兄の亡骸を抱きしめながら、声を殺して泣いているステファヌの姿を、ルームミラー越しに見ているだけだった。
「ありがとうな」
不意にアドルフが言った。
何に対する言葉か、誰に対して声をかけたのかすら、俺にはわからなかった。
「アドルフ・・・?」
問い返すと、額にかけていたサングラスを目の前に下ろし、表情を隠してから彼は続けた。
左側の目の縁に、まだ黒々とした痣が残っている。
・・・礼拝堂でステファヌを助け出した際に、複数の信者達から殴られたときのものだろう。
「ステファヌのこと・・・色々と世話をかけた。感謝している」
「やめてくれよ・・・俺なんか、・・・結局、何もしていない」
何もできなかった。
あれほどまでに傷ついた姿を見て、その叫びを聞いたというのに、俺は何も・・・。
「そう思っているのはお前だけだ。・・・あのとき、お前は取り押さえられて、暴行されていたステファヌに、誰よりも早く駆け寄ろうとしてくれた。警察に捕まる前にあの屋敷から出て行くことで、俺は頭がいっぱいだったのに、お前はシャルルの遺体さえ、ちゃんと連れ帰ろうとしてくれた。・・・そもそも、あそこにシャルルがいたから、俺達はあの屋敷へ行き、ミノリは肖像画の依頼を受け、ステファヌはシャルルを探し回って奔走していたっていうのにな。本当に酷い話だが、俺はあのとき、シャルルの遺体よりも、あの場からお前を連れ出すことしか、考えていなかったんだ」
「いや・・・それは俺がモタモタしていたからで、お前のせいってわけじゃ・・・。だいたい、実際にシャルルを連れて帰ってくれたのは、お前だろう」
ステファヌを助けたのも、シャルルを連れて出て来たのも、俺じゃなくてアドルフだ。
「だが、俺はあのとき、シャルルを置いて行こうとしていた。ステファヌに見限られても仕方がない」
「まさか」
ステファヌはそんなことを、少しも思ってはいないだろう。
ロビーから出ると、アドルフは一般駐車場ではなく、バスターミナルの方へ向かって歩こうとした。
まさかと思うが、シャトルバスで来たのだろうか。
仕方がないので、俺も後をついて歩くことにした。

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