『La boheme, la boheme <<cinq>>』上

広げたスケッチブックを抱え込み、一心不乱に鉛筆を走らせる少女は、鬼気迫る表情をしており、近寄りがたいとすら感じられた。
無地のTシャツの背中を汗で濡らし、膝の空いたジーンズの裾をふくらはぎまで折り曲げて、素足に運動靴を履いている彼女は、既に嫁いだ娘と同い年で22歳。
化粧っ気のない尖った顎の先端からは、絶え間なく汗が滴り落ちて、地面に濃い染みを印している。
身長150センチ程度しかない、この小柄な少女が、時の経つのも忘れて格闘している相手は、本人の10倍は背丈があるのではないかと思われる巨人3体だ。
見学者の腰丈ぐらいの高さがある、台座に乗った巨人たちは、やけに間延びした胴体に鳥肌を見せながら立っており、彼らの間からは、裾広がりのワンピースを着た、巨人の膝ぐらいの身長しかない小人が二人、こちらを覗き込んでいた。
ガイドブックによると、これは『ミイラ』とのことである。
見学者も疎らになった奇妙な『理想宮』のベンチに座り、俺は腕時計へ視線を下ろす。
アナログの黒い2本の針は、帰りどきをとうに過ぎている。
「ぼちぼち閉園時間だぞ、画家先生」
「さっき来たところなのに・・・!?」
後ろから俺が声をかけると、少女は鳶色の瞳を丸々と見せて、次に不満を顕わに眉の間を潜めつつ、世界の終末に直面したかのように悲嘆にくれながら、右手の鉛筆をぎしぎしと握りしめた。
いつまでも青々と晴れ渡っている夏空と、匂い立つような樹木の緑を背景に、世紀を跨いで誕生した怪建築が際立って見えている。
人気も少なくなったこの特異な観光名所は、夕方7時を目前にしていた。
「忘れ物ないだろうな」
助手席でシートベルトを閉めている彼女に声をかけ、俺は車を発進させる。
守衛が最後の見学者を呼びに来たのは、閉園時間を1時間近くも過ぎてからのこと。
年金暮らしのアルバイトにしか見えない、のんびり屋の老従業員に謝って、イーゼルやスケッチブックを適当に纏めながら振り返ると、呆れた画材の持ち主は、建造物の壁面に張り付いた、巨人や怪鳥、奇妙な植物などを模している石の彫刻を、未練がましく写真に収めているまっ最中だった。
「大丈夫・・・たぶん。ああ、これ今日中に現像へ出さないとなあ・・・おじさん、どこかで写真屋さんに寄ってくれる?」
「馬鹿言え。これからパリに戻ったら、順調に辿りついても日が変わるぞ。明日にしろ」
「途中で寄ってくれたらいいじゃない。まだ、お店開いてる時間だよ?」
「またオートリーヴまで写真をとりに来る気か?」
「そっか・・・・」
掌で包んだ日本製の真新しいカメラをジーンズの膝に乗せると、漸く納得したらしい彼女は顔を窓に向け、ガラスの向こう側で流れゆく、ひろびろとした景色を黙って追い始めた。
日の長い夏の夕暮れどきに、緑滴る田舎町へひときわ異彩を放つ怪奇趣味な理想宮が、パノラマの彼方で徐々に小さくなっていった。



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