隣でカメラを抱えたまま、いつの間にか寝息を立て始めた絵描きの少女、河上ミノリとともに、俺、ピエール・ラスネールが、リヨン近郊のマイナーな観光地、オートリーヴ行きを決めたのは、水曜の夜。
シャンゼリゼで贋作ギャラリーを営んでいる悪友、アドルフ・フルニレ宅の居間で、ミノリは俺とアドルフを相手に新しい仕事の話をしてくれた。
「フェルディナン・シュヴァルか・・・日本人は変な物に興味を持つんだな」
持ち手にラピスラズリが埋め込まれた銀のスプーンで、カップの底に沈殿していた砂糖を書き混ぜた俺は、渦巻いたキリマンジャロを口元へ運んでからそう言った。
既に幾つかの絵画コンクールで受賞していたミノリの腕前は、彼女の母国日本でもそれなりに知れ渡っているようであり、この度とある出版社から、新刊のカバーと挿絵の依頼を引き受けていた。
本の傾向としては、フランスの隠れた名所たる庭園や建築を紹介するテーマに沿って、我が国に造詣の深いライターやフランス通の有名人が、共著でペンを執るというもの。
要するに、ちょっと変わったガイド本というところである。
しかしミノリに言わせれば、この『隠れた』という部分が重要なのだそうであり、彼女の芸術魂が掻き立てられ、血が騒ぐのだそうだ。
庭園や建築といっても、それはけしてヴェルサイユ宮殿やチュイルリー公園、あるいはロワール渓谷内のシュノンソー城などといった、世界に名だたる史跡や景勝地を指すのではなく、拾い集めた陶器の欠片で一介の墓守が作りあげた、シャルトルのモザイク建築ピカシェットの家や、隠居老人が世界旅行の思い出を形にしようと、リヨン郊外の田舎町に作りあげたミニチュア庭園などのことであり、言い換えれば芸術家として名を馳せたことも、教皇や国王に庇護された名誉もなく、世界遺産登録とは無縁の建築や庭園のことだ。
それらとともに、オートリーヴの郵便配達人が仕事の合間に、あるいは仕事を終えて道端で拾い集めた石を積み上げ、思いのままに造形建築した怪奇神殿、このシュヴァルの理想宮も掲載して、それを是非表紙絵にという依頼だったらしい。
個性的極まりないオーダーだ。
「どうして? あれは傑作じゃない。建築家でもない市井の郵便配達人が、迸る芸術魂を30年以上の長きに亘って形にした、芸術中の芸術。名もなきアーティストが残したフランスの、いや、地球の宝だよ!」
「おい、机を叩くなといつも言っているだろう。アドルフ、ティッシュを・・・悪いな」
準備の良い悪友の白い手から、ヒラヒラとした柔らかい紙を受け取った俺は、マホガニー材に飛び散った飛沫をそこへ染み込ませた。
テーブルクロスの敷かれていない机の汚れを拭き取りつつ、何気なく視界に入った燻銀の灰皿に目を留める。
これもまた持ち手部分にラピスラズリを埋め込んだ、繊細でありつつどこか野性味の光る工芸品は、喫煙の習慣がない家主のアドルフがモントルイユの蚤の市で購入した、本人のお気に入りだったが、それこそ彼曰く『名もなきアーティストの傑作』らしかった。
もっとも、けして地球の宝とまでは絶賛しなかったが。
「たしか郵便配達人のシュヴァルについては、あのブルトンが『その印象は深く持続的』で、『霊媒的建築と彫刻の押しも押されぬ巨匠』と評価し、彼の為に詩まで残しているな・・・なんだ、突然思い出し笑いなんかしやがって」
物憂げな表情でカップを傾けていたアドルフが、不意に焦点が定まったような淡い瞳を俺に投げかけてきた。
「いや・・・なるほど。しかしアンドレ・ブルトンか・・・シュルレアリスムの詩人が表明した評価を引き合いに出すなんて、意外じゃないか。お前はどっちかっていうと、もっと夢みがちな幻想絵画が好みだろうに」
後世において、国を飛び越え、人類の世界を超越して、天体規模の称賛を浴びるとは・・・、恐らくは慎ましく謙虚な生涯を過ごしたことであろう、今は亡き郵便配達人も、終ぞ想像だにしなかったことであろう。
シュヴァルの個性が地上に二つと存在しない類のものであろうことは俺も認めるが、ミノリの評価は、直情的でいささか極端だ。
ブルトンが言っていることも、抽象的で凡人には捉えづらい・・・何が持続的なのか、よくわからない。
「俺が夢みがちかどうかはさておいて、シュルレアリスムの芸術性を否定した覚えは一度もないぞ。もちろん趣味ではないがな。・・・実際、理想宮には日本語のガイドが用意されているほど、日本人観光客が多いと聞く」
「おい、オートリーヴはリヨンから1時間も離れてるぞ。そして日本は地球の裏だ」
「年に何度かは、テレビ番組でタレントがレポーターとして訪ねて、紹介されたりしてると思うよ。バルベックほどじゃないと思うけど・・・、わりと有名なんじゃないかな」
「そんなに紹介されてるのかよ」
日本のテレビ局はフランス観光局か、文化省から賄賂を貰っていて、毎日5時間ぐらいはどのチャンネルもフランスの名所案内をしているのではないだろうかと疑った。
もしくは、ドローム県出身者が集まっている集落が、たまたまミノリの出身地域にあって、地元テレビ局としては、そういう番組構成に偏らざるを得ないのか。
「バルベックは架空のリゾート地だが、それを小説に書いたプルーストはやたらと比喩が多く、また大げさな表現を好む作家だ。つまり、『年に何度か』という言い回しもまた、大げさに言ってみただけだと俺は受けとったが・・・それにしても、日本人の目の付けどころは面白い。30か所を超える世界遺産の数は、世界で4番目の順位を誇るこの国において、まともな公共交通機関もない田舎町のオートリーヴへ足を運んで、芸術家での何でもない男が作りあげた、素人建築を見たがるんだからな」
恐らくは中継地点として使うであろう、リヨンやアヴィニヨンにも、見るべき場所がいくらでもあるだろうに、・・・確かに変わっている。
だが、考えようによっては、少々マニアックとすら言っても良いような、その五感と情熱、そして探究心が、かつては浮世絵や龍安寺のような庭園を作り出し、現代においては漫画やアニメなどのサブカルチャーを生み出して、同時にロボット産業で世界をリードしているのかもしれない。
アドルフの話にしみじみと頷いていると、カップを置いて唐突に立ち上がったミノリが、その場で凍りついた。
ドア付近では、たった今部屋へ入って来たところであるらしい、アドルフの愛猫モンブランが、ミノリに気が付いて同じようにその場で瞬間冷凍されている。
どうやら立ち上がったのは、この白いペルシャ猫を追いかけ回す為だったらしいが、その足をミノリが止めたのは、アドルフの発言に原因があるようだった。
「公共交通機関ってないの!?」
それまで頬さえ染めながら、興奮気味に話していたミノリの表情が曇り、声色もガラリと変わっていた。
「そうだな、リヨンから車で走ればそう遠い場所でもないが、車がなければリヨンからサン・バリエまで出て、そこからバスを乗り継ぐことになる。だが、田舎のことだからな・・・毎日走っているわけじゃないだろうし、確かあそこは午前中しか運行してないんじゃなかったかな」
「やって来ても、スクールバスで乗れませんでしたってなオチもありそうだな」
「何それ、何それ!?」
アドルフの話に俺が尾ひれを足してやると、面白いほどにミノリが首をブルブルと振りながら、混乱し始めた。
「そうなると、手段はタクシーってことになるんだろうが、リヨンやサン・バリエから出る分には、乗せてくれたタクシーがこういう悪党だったというリスクだけ我慢すれば、目的地への移動はなんとかなるだろう。・・・しかし、いざ見学を終えて帰るとなると、守衛や係員が先に帰っていたってな場合もあるかもしれんし、タクシーを呼んでもらうために立ち寄ったホテルが、時期によっては営業していないなんてことも考慮せんといかんだろうな」
「ちょっと、信じられない! フランス人サボりすぎ!」
「おいちょっと待て、今さりげなく俺を引き合いに出して、侮辱しなかったか? ・・・ミノリ、そもそも大丈夫なのかその出版社ってのは? 世の中にはこういう、金持ちの弱みに付け込んで財を巻き上げる、お日様に弱いヴァンパイアみたいなゲイの詐欺師もいるんだぞ。担当者の身元はちゃんと確かめたのか?」
「喩えばの話だ。俺はオートリーヴなんぞ行ったこともないから、よくは知らん。ただ、往々にして田舎に行けば、都会の常識では考えられないほど、マイペースに生きている人達がいるものだ。そして常識では考えられないような人々の親切に泣くという、都会ではできない経験をすることもある・・・・そういうものだろう。・・・ところでピエール。己の私怨を張らさんがため、俺が詐欺師であることを糾弾する目的で、俺がドラキュラだのゲイだのと、いちいちあげつらう必要はあったのか。・・・まあどっちも本当のことだから、別に構わんが」
「お前・・・ドラキュラだったのか」
20年以上付き合っていて、初めて明かされた事実だった。
道理で太陽に弱いはずである。
「身元は調べてないけど、その会社の新刊広告で宣伝されている本の話だったから、大丈夫だと思うよ。・・・それにお金を出すのはあっちだから、あたしが騙される理由なんてないし。・・・それにしても困ったなあ。レンタカー借りようにも、場所わかんないし、そんな田舎で迷ったりしたら、生きて帰れないかも知れないじゃん。ねえ、おじさんか、オーナーに連れて行って貰うわけに、いかないかなあ」
「そんなことわからないだろうが。正体はお前に金を払わないつもりで、その絵を売り飛ばそうとしている、ゲイのドラキュラかも知れんぞ。あるいは絵の仕事を依頼する目的で、ミーティングと称し、お前を人気の少ない場所に呼びだして・・・それはないな」
若い娘が男に騙されて人気のない場所へ連れ込まれると、どういう末路が待っているかを考えていた俺は、目の前にある化粧っ気のない、痩せっぽっちの存在を見て、突然自己完結していた。
「いつ行くつもりなんだ? 今日明日って話ならちょっと無理だが、週明けまで待ってくれれば都合が付かんこともない。・・・ピエール、お前を悪党運転手と皮肉ったことが気に入らないなら、素直に謝らせてもらう。別に本気で罵るつもりはなかったんだが、もう少しだけ自覚があると勝手に判断して、よもや軽い気持ちで言い放った悪党という俺の言葉の棘が、お前の柔らかな心臓に突き刺さり、発言するたびにそれをシクシクと意識して、俺を罵倒せずにはいられないほど、お前が心を痛めているとは思わなかったんだ」
「月曜にはラフデッサンを担当さんに出さないといけないから、できれば週末までには行きたいんだよね・・・。おじさんは? っていうか、さっきのはどういう意味? 人気のないところにあたしを呼びだして、どうのっていうのは・・・。なんか自分で言いかけて否定してたけど」
「いや、なんでもないから気にするな。俺ならいつでも構わんぞ。・・・しかしオートリーヴってのも、また久々の遠出になるな。後で道路地図見とくか。ところでお前はなんか用事か?」
「実は明日の早朝便でアヴィニヨンへ行くことになっている」
俺に話を振られたアドルフが、今後の予定を聞かせてくれた。
「バカンスにしては、ちょっと早くないか?」
「いや、週明けには戻る。・・・ちょっと従兄に厄介事を頼まれていてな。ずっと逃げていたんだが、そうもいかなくなった。・・・これを渡しておく」
そう言いながらアドルフは1枚のメモ用紙を寄越してきた。
「電話番号・・・ひょっとして、お前の従兄ん家か?」
そこには、たった今アドルフが青いペンで書きなぐっていた数字の羅列と、ギー・フルニレという彼の親類らしき男の名前が書いてある。
「なにぶん田舎のことだろうからな。困ったことがあったら、連絡してこい」

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