「いきなり殴ることはないだろうに、まったく乱暴な・・・いててて」
ヒリヒリと熱を放っている左頬を摩りつつ、俺は今夜の寝床であるドークル家の離れを目指して歩いていた。
こうして見ると、ロジェ・ドークルの父親は相当の遺産を息子へ残したことがよくわかる。
さきほど作業着を着た吸血鬼と遭遇した墓地ひとつとっても、かなりの広さがあった。
最初にドークル邸の近くから入った場所は、恐らく通用口のひとつでしかなかったようで、最終的に俺達が駆け抜けて来たアーチ型の壮麗なゲートには、両側に天使の彫像が何体も並んでおり、門の上には装飾過多な字体で『シャントルーヴ墓地』と書かれていた。
恐らくそこが正門だ。
正門からホテルまでは恐らく敷地外の公道を通って来たが、ホテルからは墓地がまったく見えず、建物の外は手入れをされた庭が広がっているばかりである。
ドークルの自宅も、まだ見えてこない。
「ん・・・なんだ、あれ」
ふとキラキラと光る、明るい場所を見つけた。
樹木の谷間から、月の光を反射させて、ほの白く輝くもの・・・恐らくは池でも作ってあるのかも知れないが、微かな夜風にのって運ばれてくるラヴェンダーの甘い香りへ吸い寄せられるように、そちらへ足を向ける。
近づくにつれ、ラヴェンダーの香りは五月蠅いほどに強くなる。
咲き頃を終え、すっかり花が萎びてしまったリラの木を越えた頃、俺は足を止めて息を呑んだ。
梅花藻の小さな白い花が浮かぶ水辺には、水面をぐるりと取り囲むように、勿忘草や蔓日々草といった花たちが群生している。
池の畔に二つ並べて置いてある、細長い白のベンチ椅子。
白く輝く月夜の下で、青い花弁が織りなす自然の冠を楽しんでいるのは、浮世離れした美しさを持つ5人の少年たちだ。
一見したところ男か女か見分けのつかない、12歳ごろの少年は、彼より少しだけ年長の少年と共に、手を繋いで並んでおり、もう少し年上の少年たち二人が、別の椅子に並んでキスをしている。
そしてひときわ目を引く美しい17歳ぐらいの少年が、水辺に脚を伸ばし、もう片方の膝を胸元へ引き寄せるようにして、青い花々に魅入られていた。
彼らは一様に明るい髪の色をしており、柔らかそうな巻き毛を夜風に揺らし、夢みるような明るい瞳と、薔薇色の頬、品の良い口元には微笑を浮かべている。
年代は少しずつ異なるが、あきらかに兄弟か何かだろうと察せられた。
ただし、生きていればの話だが。
「人形・・・だな。けれど、どうしてこんなところに」
まるで本物の人間のように見える、精巧な人形。
それはマネキンなどよりも、極めて人類に近く、目を引く美しさは芸術の域を超え、最早魔術か神業だろうと思った。
もう少し近くで見てみたいという欲求と、近づき難いそら恐ろしさ。
確かにここは個人の私有地ではあるが、ホテルという公共施設でもある敷地の庭で、実物大の5体の人形が並んでいるという理解し難い光景。
そして、それ以上に嫌悪を感じさせる原因は、恐らく精巧すぎる人形の作りと、それらが誰か特定のモデルを、その人物の成長を追って模したものとしか考えられない、互いによく似た人形たちのせいだろう。
嫌悪・・・・言い知れぬ不気味な悍ましさから、俺は思わず後退りした。
「見事でしょう」
そのとき、すぐ後ろから聞き覚えのある声がそう話しかけてきて、俺は振り向いた。
「ドークル・・・さん」
「こんばんは、ムッシュウ・ラスネール。今日はいつまで経っても、明るい月夜ですね。お散歩ですか? お部屋へ伺ってもお見えにならないので、少し心配致しました」
いつのまにそこまで近づかれていたのか・・・完璧な笑顔を作って、俺の真後ろにドークルが突っ立っていた。
手には例のブリーフケースを持っている。
俺は反射的に、1メートルほど彼から離れた。
「ああ・・・ええっと。ミノリを・・・一緒にいた東洋人の女の子をホテルへ送って行ったんだが、少し迷ってしまって。部屋に・・・いらしてたんですか」
「はい。今日はお疲れになっているでしょうから、ローズヒップティーをお持ちしました。お部屋の入口においてありますので、よろしければ召し上がってください。きっと疲れが癒されますよ」
「そりゃ・・・どうもありがとう」
何と言ってよいかわからず、結局彼から目を逸らす。
寝床がない俺の為に自宅の離れを使わせてくれた上に、夕食にまで招待してもらい、挙句の果てにここまで繊細な気遣いをされては、感謝の言葉もないぐらいだ。
だが、このときの俺には、ホテルの従業員や自宅の使用人の目も、そうそう届かないであろう、離れという空間に、あるいは俺がすでに寝ていたかも知れないタイミングで彼が訪ねて来ていたことのほうが不気味だった。
「ラブドール」
「え・・・」
不意にドークルが呟いた言葉が理解できず、反射的に訊き返す。
「日本人の技術やセンスは、実に繊細で洗練されいますね・・・そうは思いませんか」
「はあ・・・まあ、そうかもな」
ミノリのことを言っているのかと思い、確かに彼女の描く絵画の数々を知っていた俺は肯定したが、よく考えてみればドークルはまだミノリがプロの絵描きだということを知らない。
だとすれば、彼は別のものを思い浮かべていることになる。
それが何を指すのかと考えながら、俺を見ていると思っていたドークルの目が、その後ろへ向けられていることに漸く気が付いた。
人形だ。
「あれを作ったのは日本の人形会社なんですよ」
「そうなのか?」
ドークルに教えられて、俺も再び池を振り返る。
ベンチに二人ずつ腰掛けている少年達と、彼らの中で一番年長に見える、地面に片膝を立てて座っている少年。
それぞれの年代に合った衣装を着ているからだけではなく、パッと見では本物の少年と区別が付かないほど精巧に出来た人形たち。
彼らが人形だとわかるのは、ひととき眺め、瞬きをしていないことに気付いた瞬間だけだろう。
あるいは、直にその肌へ触れ、温度がないことを知ったときか。
「どこもかしこも、人間そっくりです」
ドークルは言った。
「まさか、肌も柔らかいのか?」
「シリコン製ですから・・・・値段は張りましたけどね」
「その・・・服の中も、精巧に出来ていたりするのか?」
口にしたとたんに、言い過ぎたかと思ったが。
「喋らない以外は、本物の人間と寸分違わず・・・まあ、いささか大げさに言えばですが」
あっさりと肯定して、ドークルが不気味に微笑んだ。
一体何の目的で作らせたものやら。
さすがに気味が悪くなり、俺は適当に話を打ち切って離れ屋へ戻った。
そして中から部屋の鍵を掛けて、ベッドへ入ったが、いつまでも目が冴えてしまい、睡魔がやってこなかった。
部屋の入り口あたりに置いてある、古いチェストを見る。
柔らかな光を放つランプの隣には、銀トレーに並べてある透明ガラスのポットと、持ち手が曲がりくねったガラスのティーカップ。
恐らくはこれもまた、シャントルーヴ・ガラスなのだろう、数々の工芸品はいずれも美しく感嘆の息さえ漏れたが、その中身にはさすがに手を付ける気にはならなかった。
あの少年達が誰なのかはわからない。
だが、間違いなく実在のモデルを模したあの人形たちは、ドークルの不気味な欲望を果たす為に作られた物だろう。
肌も柔らかく、喋らない以外は、本物の人間と寸分違わぬ人形。
男の欲望を受け止める為に存在するそういう人形が、世界中に存在する・・・いわゆるセックスドールというやつだ。
それにしても、あの中には12歳ぐらいの少年もいた。
いくら人形相手とはいえ、そんなものを作らせるドークルの神経に吐き気がする。
「何のためにあんなところへ・・・」
月夜に浮かぶ、ほの白い人形たちの肌と、それを眺めるうっとりとしたような、ドークルの鳶色の瞳。
夜気に立ちこめる、噎せ返るようなラヴェンダーの香り。
現実感のない狂った世界が、ぐるぐると頭の中で渦を巻き、俺は何度も寝返りを打った。

 09

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