白いモスリンを揺らしながら入ってくる、少し湿った夏の風。
テーブルに置かれた飲みかけのキリマンジャロと、素肌に触る、柔らかで、冷たい髪の感触。
好きだ、ピエール・・・。
はるか昔に脳裏へ刻まれ、長い間鍵を掛けておいた記憶の断片。
真摯な眼差しは、淡いブルーの瞳に俺を映し、薄い唇が接吻をする為に降りてくる。
「アドルフ・・・」
自分から彼へ口唇を合わせにいくと、途端にキスは深くなり、呼吸ができなくなるほど舌を吸われる。
「んん・・・ふん・・・アド・・・ルフ・・・」
カウンターに背中を預けるような姿勢で仰け反り、忙しなく身体を這いまわる掌の感触を俺は官能的に感じていた。
アイツには触らせて、俺はダメなのか・・・?
嫉妬の入り混じる低い声で尋ねられて、胸の高鳴りを抑えられない。
「アドルフ・・・」
そうじゃない、そんなことはない。
ただ、俺達は・・・。
伝えたいのに、ちゃんと伝えられない。
もどかしさを抱えたまま、それでも身体の快感だけは止めようもなく高まってゆく。
バーの片隅で互いの身体を慰め合う、いい年をした男が二人。
非難するような目で、あるいはニヤニヤと意味ありげに蔑んだ笑いを滲ませて、俺達を見ているバーテンダーや酔客。
ピエール・・・お前が好きだ。
俺もだ・・・アドルフ。
柔らかな粘膜に含まれた己の昂りが、勢いよく精を吐きだすのを感じる。
頭が沸騰するような快感に全身が震え、俺に覆い被さっている相手の顔を見た。
「ラブ・・・ドール・・・?」
月明かりに白い肌を輝かせ、片膝を立てながら、梅花藻が花咲かせる池の水面を眺めていたラブドールの少年。
その人形が、なぜかこの部屋に入って、俺に覆い被さっていた。
夢みるような明るい色の瞳と、蒸気している薔薇色の頬、上品でいながらふっくらとした口唇は、まるで紅を指したように赤く充血していて、一層色っぽく・・・。
「気持ち良かったでしょう?」
なのに、それらの美貌を台無しにするかのような、醜い大きな傷が、白い額へギザギザと斜めに刻み込まれていた。
まだ声変わりしきっていないような、少しだけ掠れた声を聞かせて、少年はニッコリと微笑む。
「なんで・・・っ?」
なぜ人形が動いているのか。
どうしてこの部屋に忍び込み、俺の身体に跨っているのか。
それらの疑問をこの少年へぶつける前に、俺はさらなるショックを目の当たりにしていた。
どうしてあの男がそこにいる!?
「もう一回だけしてあげる」
ラブドールはそう言うと、もぞもぞと身じろぎして、ねっとりとした温い感触が股間を包む。
「んっ・・・ああっ・・・」
その瞬間、情けないことに思考は閉ざされ、俺は不気味な快感の渦へと飲み込まれてしまったのだ。
気が付くと電話が鳴っていた。
どことなく気だるい身体をベッドから引きはがし、戸口の受話器を俺は取りあげる。
離れ専用の回線が引いてあるのか、それとも母屋からの転送だったのかよくわからないが、電話の相手は既に出勤しているらしいドークルだった。
簡潔に内容だけを伝える通話を間もなく終えて受話器を下ろすと、俺はベッドに目を向けた。
乱れたままのシーツやカバー。
モスリンのカーテンが掛かった、大きな窓はきっちりと閉まっている。
「夢・・・か?」
その考えは、洗面所へ入り、鏡の前へ立った瞬間に打ち破られた。
昨夜ドークルが言った言葉を思い出す。
喋らない以外は、本物の人間と寸分違わず・・・。
「そんな馬鹿な」
それにあの少年は喋っていたではないか。
ならば、あの少年に襲われたというのが夢であり、実際は違う人間にされていたのだろうか。
だとすると、ドークル・・・?
いや、さすがにそれはないだろう。
あの瞬間、俺は確かに起きていた。
そして少年が話す声を聞き、窓辺にいた男も・・・。
「そういえば・・・、なんであの男が、あの場所に立っていたんだ」
俺は確かに見たのだ。
少年の愛撫を受ける俺を、睨みつけるようにしてじっと眺めていた、鷹の黒い瞳。
あれは紛れもなく吸血鬼・・・昨夜墓場で出会った、作業服の青年。
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