「遅かったじゃないか」
既に朝食サービスが始まっていたホテルのレストランで、俺を出迎えてくれたのはアドルフだった。
昨夜俺の連絡を受けたアドルフは、夜明けとともにタクシーを走らせて、1時間ほど前にホテルへ到着したという。
ドークルの連絡とは、彼の来訪を告げるものだったのだ。
荷物を見るとどうやらこのままパリへ帰るつもりらしく、足元に大きなボストン・バッグが置いてあった。
テーブルにはトーストとオムレツ、紅茶のメニュー。
どうやらアヴィニヨンからは、朝食も食べずに出て来たようだった。
「おじさん、おはよー!」
騒々しくレストランへ入って来たのはミノリだ。
装いは極めて身軽・・・つまり手ぶらである。
「お前、荷物はどうしたんだよ。飯食ったらチェックアウトして帰るぞ?」
時間は既に9時を回っている。
ここのチェックアウトは10時だから、のんびりとはしていられない。
「荷物ならそこに置いてあるよ。写真屋さんに行ってたの! ドークルさんの話だと近そうだったのに、中庭通ったら迷って遅くなっちゃった! でもラヴェンダーがいっぱい咲いてて、凄く綺麗かったよ! 写真撮りたかったなぁ。あ〜お腹空いた、あたしも・・・・っていうか、おじさんその傷みたいなのどうしたの? それってまるで・・・」
「ん、なんだ・・・」
一方的に捲し立てたと思えば、突然ミノリが黙りこくってしまった。
小さな顔が、なんとなく頬を染めているように見える。
「そうだな、俺も気になっていた。おい、ピエール・・・・どこの馬の骨とも知らない行きずりの男を部屋に引き摺りこんで、身を任せるような破廉恥な真似を、お前は一体いつからするようになったんだ」
「てめえの論理で話を進めるな!」
つまり二人は、俺が朝になって髭を剃るときに鏡で見付けた、首筋よりやや鎖骨寄りに付いている、赤い痕を見つけていたということだ。
それから俺はアドルフとミノリに、昨夜自分が遭遇した不思議な体験について説明をした。
といっても、アドルフの夢については、さすがに言えなかったが。
ひとしきり話を聞いた二人は。
「それってさあ、つまり・・・」
「要するにだな、お前は・・・・」
それきり口を閉じてしまった
「何だよ、気になるじゃないか。どうして黙るんだ」
「いや、つまりおじさんって、随分前に奥さんと別れてから、ずっと一人身なわけでしょう? オーナーみたいに、とっかえひっかえ男の子と付き合っているわけじゃないし」
やや顔を赤らめたまま、余計なお世話、且つ、アドルフにとっては非常に失礼な暴言をミノリが吐いた。
まあ、事実なのだが。
「べつにとっかえひっかえ、付き合ってなどいない。俺は仕事のために、ゲイバーへ足を運ばざるを得ないだけの話だ。それはともかくだな、いくら強がっていても、溜まるものは溜まる。悲しいことだが、男とはそういう生き物だ。何も恥ずかしいことはないぞ、ピエール」
「欲求不満じゃねえ! だから、この痕見ろよ、キスマーク付いてるだろうが!」
「ちょっと・・・、おじさん!」
「大声でセクシーポーズをとるな。誘うならもっと相応しい場所で、ムードを作ってからにしろ。さすがにこれだけ公共の場で白眼視されては、いくらお前が相手でもそういう気分にはなれない。・・・冗談だ、その熱々のコーヒーポットを机に下ろしてくれ。いや、他のお客様の御迷惑になるから、カウンターへ戻して来い。・・・・戻って来たな。お前のその体験が、夢ではなく現実に起きたことだと仮定して、こういう話がある。
1960年代のアメリカでオドンネル博士が医学誌に発表したことだが、18歳の娘が色情霊に襲われた。娘の母親は夜中に部屋から聞こえて来る喘ぎ声に気付き、部屋を覗いてみると、裸になった娘が、男に抱きかかえられているような姿勢で悶えている。娘の声は快感にうち震え、そのポーズは到底一人では身体を支えきれない性行為中の格好だ。仰天した母親が叫ぶと、途端に娘の身体は力を失ったようにベッドへ崩れ落ちる。しかしその身体には、行為中についたとしか思えないキスマークが残されており、さらにシーツには男の精液のようなものまで落ちていたらしい」
「ああ・・・そういや、そういう内容の映画も作られてたな。あれはエロかった・・・」
映画のラストにもっともらしく、それが実際に起きた事件が元になっていると解説されており、当時は荒唐無稽だと一笑にふしていたものだが、現実に自分が似たような体験をしてしまうと、色っぽいエピソードや良く出来たフィクションだと笑い飛ばせなくなってしまう。
本当に色情霊に襲われたのだろうか。
あるいは取り憑かれたのだろうか。
だがそうなると、あの庭で見た人形のモデルになったのであろう少年が、既に死んでいるということになる。
そしてドークルは彼と、どういう関係があるというのだろうか。
もっと理解できないことがある。
なぜその最中を、あの作業員が見ていたのだ・・・それもあのような、憎々しげな目付きで。
「まあ、そう深刻になるな」
不意に肘のあたりを叩かれて、顔を上げる。
よほど俺がシリアスに悩んでいるのように見えたのだろうか、そこにはいつになく労わるような優しいアドルフの瞳がこちらを見つめていた。
「ああ・・・すまん。ちょっと、色々考え込んでしまった」
「解決策がないわけでもない。・・・こういう状況のときは、きちんとした信頼のおけるパートナーを早く見つけるに限る」
「そういう・・・もんなのか」
不意に頭の中で、あの夏の夕方が蘇ってくる。
好きだ・・・ピエール。
だが、それはもう過ぎ去りし日の、一度は封印してしまった思い出だ。
あの時と今とでは、時間も状況も変わりすぎている。
「そりゃあそうだろう。そういう相手と毎日セックスをしていたら、変な夢を見ることもなくなるんじゃないか?」
「だから淫夢じゃねえって言ってるだろう!」
「行きずりの男を連れ込むなんて、危険な真似をしやがって・・・そういうことなら、俺がいつでも相手になるのに」
「連れ込んでもいねえ、つうか余計なお世話だ!」
「もういい加減にしてよね、朝っぱらから!」
ミノリが顔を真っ赤にしながら拳でドンと机を叩いた。
さすがに話題がマナー違反だったと反省し、俺とアドルフが彼女に詫びると、居づらくなったところで場所を変え、カフェへと移動した。
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