「ねえ、あれじゃない?」
後ろを歩くミノリが、俺のTシャツの裾をクイクイと引っ張りながら言ったので、彼女の視線を追いかける。
鬱蒼とした茂みを背景に、古びた石造りの重厚な建造物が、漆喰の剥がれ落ちたベージュの壁面も露わに、そこに建っていた。
正門まで、あと10メートルという地点でのことだ。
「なるほど・・・昨夜はこいつを、あのガラスモザイク小屋と勘違いしたんだな」
その直後に、例の不気味な作業員から大声で咎められ、ミノリが怖がって逃げ出してしまったのだ。
確かに、崩れかけたその建物は、緑滴る爽やかな夏空の下で見てすらも、不気味なことこのうえなかった。
幸い昨日の男は近くに見当たらず、建物へ近づいて良く見てみる。
入り口が2、3段の階段になっている、黒っぽい木製の扉が付いた、天井のまるい玄関の両側に、同じような形状の窓が作ってある。
ファサードの上部には、リボンで囲んだ丸い円の中で、二匹の犬が向かい合って鍵を守っているような紋章が描かれていた。
シャントルーヴ村の紋章か、それともこの土地の所有者だと言う、ドークル家のものだろうか。
紋章の下には朽ちかけた浮き彫りで、『Columbarium』と綴られている。
「納骨堂らしいな・・・」
フランスでは今もなお土葬が主流だが、それでも経済的事情や環境問題の観点から、火葬を選ぶ遺族が徐々に増えつつある状況にある。
こんな田舎町においてすらも、それは同じことであろう。
だが、見たところこの納骨堂はほとんど使われている様子がなく、作っては見たものの、当初期待したほどの需要がなかったのかもしれない。
納骨堂を迂回するように、さらに日蔭の方へと細い道が伸びており、その周りには土に埋もれたかかった、夥しい数の無縁墓石と、それらの奥に、これもまた崩れかけた古い木造の小屋がひっそりと建っている・・・、これは物置か何かであろうか。
ということは、昨日ドークルの自宅からこの墓地へ入って来た通用口がこの近くにあるのかもしれない。
壮麗な正門近くの、日差しを燦々と浴びて並んでいる白い天使たちに、通路の反対側に折り重なる、美しい立派な十字架や、故人へのメッセージを彫り込んだ石碑、百合やカーネーション、グラジオラスなどの鮮やかな花々と、そして墓石の前で故人の思い出を語る人々。
彼らにはこの朽ちかけた納骨堂も、その向こうに続く埋没しそうな古い墓石たちも見えていないような気がする。
うち捨てられた一角・・・・そんな印象だった。
ふと、一本のマロニエの木の下で目を留める。
この墓地が作られるよりも前から、ここに立っているような、どっしりと育った落葉広葉樹の木の根元に、太い幹へ背を凭れさせるようにして蹲っている、白髪の老婆が一人いた。
しかし、通りを挟んでその向こう側には、誰も座っていない木製の白いベンチがある。
「マダム、ベンチが空いていますよ」
俺は老婆へ声をかけた。
熟す前に誰かに落とされてしまったのだろうか・・・、彼女は気の早い栃の実を二つ見つけて、歪な皮を付けたままの果実を掌で転がしていたが、一人遊びを止めると、俺を振り返る。
「最近は暑さが堪えてね、こっちの方が気持ちがいいのですよ。ありがとう、親切な方」
そう言って弱々しく微笑み、坂の上を見上げて、残念そうに溜息を吐く・・・・、そしてふたたび、木の実を弄び始めた。
あるいは、亡き夫か、早くになくしてしまった子供との思い出に浸っているのだろう。
その栃の実にも、それなりの意味があるのかもしれない。
俺は彼女が一瞬見上げた坂の上へ、視線を向けてみた。
そこにはちょうど、夏の日差しを乱反射させている、ガラスの塊が見えていた。
なるほど、あのモザイク小屋がもう少し綺麗に手入れをされていたなら、老人たちの良い休憩場所になったであろう。
その時、小学生ぐらいのやんちゃな子供が、サッカーボールでも追いかけているようなスピードで、目の前の通路を正門に向けて駆けていった。
その後ろをもう少し年上の、麦わら帽子を被った女の子が、弟の行儀の悪さを非難しながら、同じように追い掛けてゆく。
弟は聖ミカエルの前で立ち止まると、大声でブランマンジェが食べたいと叫び、後から来る母親を恥ずかしがらせていた。
間もなく墓参りを終えた両親らしきカップルとともに、4人の家族連れは黒いゲートから出ると、『アスタルテ』の方向へ歩いていった。
恐らくは、冷房の効いたホテルのレストランかカフェで、これから冷たいデザートを楽しむのだろう。
こんな暑い日には賢明な選択だ。
少しでも長く故人とともに過ごしたいという、この老人のような痛切な思いが、それほどないのだとしたら。
14
欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る