正門をぬけると、『アスタルテ』の正面玄関はすぐそこだ。
その間には、隙間だらけの時刻表を貼り付けているバス停がある。
次のシャントルーヴ駅行きが来るまでは、まだ2時間あった。
自家用車がないと墓参りも楽ではない。
その代わりに、冷房が効いたホテルのレストランは、良い商売になることだろう。
正面玄関前をぐるりと回って、アスファルトを敷いた一角へ出てみる。
そこで俺は茫然と立ち尽くしてしまった。
「何これ・・・酷い」
一足先に到着していたミノリも、顔を強張らせて立っている。
車を4台しか停められない駐車場を利用していたのは、俺一人。
それをよいことに、この憎むべき実行犯は、正面玄関からはさほど離れていないこのアスファルトの一角で、前輪のタイヤをパンクさせ、フロントガラスを粉々にしてくれていた。
「畜生っ・・・」
悪戯にしては度が過ぎている。
しかし腹は立っても、警察へ届けるわけにはいかない。
それが俺の生き方のツケなのだから、誰を恨んでも仕方のないことだ。
とはいえ、このまま帰ることもできない。
被害に合ったのは、4つのうち1本のタイヤだけだから、トランクの予備タイヤを履かせれば何とかなる。
だがこのフロントガラスで公道は走れない。
周囲に散らばったガラスの破片も、そのままには出来なかった。
仕方がなく、俺はホテル側へ相談するため、再びロビーへ戻る。
正面玄関で遭遇したアドルフに事情を話し、3人でフロントへ向かうと、そこには昨夜に続いてドークルが立っていた。
事のあらましを聞いた彼は、開口一番、俺に詫びてくれた。
自分のホテルで宿泊客が被害に遭ったことに、責任を感じているようだった。
「私の友人に整備工場を営んでいた者がおります。今は不況で廃業してしまいましたが、工場はそのままで、おそらく工具もまだ揃っているでしょう。今から彼に連絡してみます。ただ、今日中に出来るかどうかはわかりませんが・・・」
そう言いながら、同時にドークルが電話を架け始めた。
どうやら、すぐに修理屋へ連絡をしてくれたようである。
しかし廃業しているなら、フロントガラスを業者から取り寄せる可能性の方が高いだろう。
そうなると、それだけで週明けまで待たされるかもしれないということだ。
アドルフ達と先に公共交通機関で帰り、修理完了後に搬送してもらうことになるだろうか。
補償額の範囲内であれば費用は保険でなんとかなるだろうが、修理中に代車を借りても、人の車で仕事をするわけにもいかない。
そう考えると、先に戻る意味もあまりないように思えてきた。
「ったく、頭にくる悪戯野郎だぜ・・・」
俺が毒づくと。
「犯罪だ」
アドルフがそう言った。
ここまでくると、確かに犯罪なのだろう。
だが、俺も巻き込まれたアドルフもそれを警察へ訴えるわけにはいかないのだから、こうして腹を立てているより他にしようがない。
「連絡がとれました。すぐに来てくれるそうです。それにお客様の車種でしたら、ガラスも準備できるそうで、すぐに取り掛かれるようです。ただ、ガラスを安定させるために、どうしても一晩かかるようでして、仕上がりは明日になりますが、如何なさいますか?」
ドークルが受話器を押さえたまま、声をかけてきた。
「本当か? だったら、すぐに頼む」
朗報だった。
ドークルはその内容を相手に伝えて、間もなく通話を終えた。
修理屋は30分以内に到着するということだ。
「延泊決定だな」
アドルフは、どことなく不本意そうな顔をしてそう言った。
「お前らは帰ればいいだろう。修理屋がくれば、俺は適当にホテルを見つけてもう一泊して帰る」
昨夜は高速の事故による渋滞で、どこも満室だったが、日が変われば状況も異なる筈だ。
そこへ、少しホッとしたような顔をしたドークルが、会話に口を挟んできた。
「その件ですが・・・今朝は何組かのお客様が既にチェックアウトなさっています。お連れ様のお部屋ももちろん空いておりますし、改めて当ホテルで3名様のお部屋を用意させて頂くわけにはいきませんでしょうか。もちろん、お連れ様のご都合次第ではありますが。当然費用は、お車の修理代金も含めまして、私どもで負担させて頂きますし、このような事態を招いて、お客様にご迷惑をおかけした責任として、誠心誠意サービスをさせて頂くつもりです」
「それって、もう一度タダであのお部屋に泊めてくれるってこと?」
これまで黙っていたミノリが、急に目を輝かせて身を乗りだした。
「もちろん、仰る通りでございます。レストランでのお食事も準備させていただきます。・・・昨夜は私の、お恥ずかしい男料理でございましたから」
そう言うとドークルは、やや頬を赤らめて笑った。
本人も謙遜して言っただけであろうが、昨日の夕食も、素人の男が家で作ったにしてはなかなかのものだった。
「だったら、あたしも残るよ! ねえ、おじさんそうしよう? あの部屋、すっごく可愛いんだよ! 寝室と居室の間仕切りにステンドグラスが入っていて、フットライトを点けると向こうの壁にカラフルなお花模様が浮かび上がって見えるの。ソファに横になって眺めているあいだに、そのまま寝ちゃった」
「お前な・・・寝るときには、ちゃんと電気を消して寝ろ。すいません、本当に・・・」
無駄な光熱費を浪費したことが発覚し、俺はミノリに代ってドークルへ謝った。
「いえ、そうなさるお客様は多いようですから、代金のうちです。それよりも、手前どもの部屋を気に入って頂けたことが、何よりの喜びですから」
「まったく申し訳ない・・・」
代金のうちというのはもちろん冗談だろう。
しかしホテルの客室にも、シャントルーヴ・ガラスによる創意工夫が、色々と凝らされているようで、俺も徐々に興味を掻きたてられていた。
しかし。
「お気遣いは無用ですよ、修理費用は勿論もって頂きますが、ホテルは我々で探します。どうやら修理屋が到着したようだ。ピエール、ミノリ、行くぞ」
冷ややかな声でアドルフが勝手に断り、先に玄関へ向かってしまった。
確かにそれが最も妥当な選択であろうし、俺達もあまりドークルへ甘えるわけにはいかない。
とはいえ、あからさまに失礼だったアドルフの態度を詫びると、俺とミノリも『アスタルテ』に別れを告げて彼を追いかけた。
「おい、一体何をカリカリしているんだ」
「別にカリカリなどしておらん。俺は常識的な判断をしたまでだ。お前こそ、田舎で羽根を伸ばして、感覚がどうかしてしまったんじゃないのか。たった一晩しか経っていないというのに、影響を受けるのが早すぎるぞ。それとも、まだ色情霊に取り憑かれたままで、あの男を誘惑でもしたいのか?」
「あのなあ、言いがかりもほどほどにしろよ、まったく。・・・いや、お前の判断が間違っているとは思ってないし、ドークルにこれ以上甘えるのが厚かましいというのは、俺もわかるんだが、もう少し言い方ってもんが・・・」
「それが、どうかしていると言っているんだ。一部屋しか空いていなかったとはいえ、客を自宅へ宿泊させ、その晩に妙な男からお前は襲われた。夜が明けてみると、駐車場にたった1台停めていたお前の車が壊され、延泊を余儀なくされた。そこへあれだけの過剰なサービスの申し出だ。これが怪しまずにいられるとは、お前らしくもないお人好しぶりだぞ。それとも自分のことだと、盲になってしまうのか」
「お前まさか、ドークルがやったっていうのか」
「そこまでは言っていない。だが、たった一晩で宿泊中に寝込みを襲われ、車が壊されるホテルなんて、普通じゃないだろう」
「けれど、俺を襲った奴は少なくともドークルじゃないぞ。今朝も言ったが、あれは中庭にいた人形の少年で・・・いや、人形が人を襲ったっていうのも、確かに妙な話なんだが・・・」
こうして言葉にしてみると、荒唐無稽極まりない。
欲求不満で妙な夢を見たと言われても仕方がないだろう。
「その中庭でドークルに会って、人形も彼のコレクションだと聞いたのだろう? だったら、なんらかの形で関係があると考えるのが普通だろう」
そう言ってアドルフが玄関前の段差を、2段飛ばして降りてゆく。
玄関前には、荷台部分に『カレ・カーサービス』と書かれた、車式の古い軽トラックが停まっており、背中に同じロゴが入った青い繋ぎの男が、運転席から降りてきた。
男は俺達を見つけると、どこで依頼主だと見分けたものか知らないが、被っていた鳥打帽をヒョイと上げて挨拶してくれた。
赤い髪の色や、貧相な頬から顎にかけて覆われた髭のせいかもしれないが、人の良さそうなその笑顔が、なんとなく同業の悪友、アヴリル・デエイェを思い出させた。
「あんたがラスネールさんだよな。いい年して、娘でも奥さんでもない女と、見るからに怪しい人形みたいな男連れてるから、すぐにわかったぜ。で、昨夜はそっちのお嬢ちゃんと良いことしたのかい? それともあんたはちょっと綺麗な顔してるから、こっちの男のナニだったりしてな、ハッハッハ! しかし、こっちの兄さん、夏だってのに黒尽くめで真っ白な顔してやがる。まるで吸血鬼だな。このへんは吸血鬼伝説があるから、そんな恰好でウロウロしてると、気の荒い若いのに農具で襲われかねないから気を付けなよ」
ぼったくりタクシー運転手のアヴリルも大概礼儀を弁えないが、男はそれ以上だった。
確かこの元修理屋は廃業しているとドークルから聞いていたが、原因は不景気だけではあるまい。
「その前に生き血を吸い尽くしてやるから平気だ」
真面目な顔をしてアドルフが言った。
「マジかよ、そいつあ頼もしいじゃねえか! しかし、あんたこんなギラギラした日の下歩いてて平気なのかい? 溶けたり、灰になったりしないのか?」
元修理屋は少々頭もイカれてるらしい。
俺は愛車の行く先が不安になってきた。
それにしても、あの上品なドークルの友人とは思えない無礼な男だった。
どういう馴れ初めで知り合ったのだろうかと、好奇心が刺激された。
「確かにあまり太陽は好きじゃないが、少しくらいなら平気だ。それよりもさっさとしてくれないか。俺は苛々すると、作業着の男を殺したくなる癖があるんだ」
元修理屋は髭面の目を丸くして、くるりとアドルフに背を向けると、駆け足で駐車場へ向かった。
従って俺たちも、駆け足で男を追いかける。

 15

欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る