夜更けすぎ、ガラスを叩く激しい雨音で目を覚ました。
「こりゃあ、寝てられないな」
ベッドに身を起こし、枕元に置いた時計を掴んで五月蠅い窓辺へ行った。
20センチほど隙間が空いていたカーテンの傍で、どこからか差し込んでいる薄い灯りに翳しながら時間を見る。
12時過ぎだ。
足元へ伸びた黒い影が動いてドキリとした。
カーテンをもう少し開けて外を見ると、窓の向こうに長身の男が立っており、俺は目を擦った。
すると相手と目が合い、軽くウィンクを送られる。
「人の部屋覗いてんじゃねえよ」
勢いよく窓を開けて、その場に立ちはだかり、男を非難する。
「眠りの浅い奴だな、俺が夜這いに行くまで寝てくれていれば良いものを」
「そんなびしょ濡れで、ベッドに潜り込まれちゃ俺にもホテルにも迷惑だ。・・・っていうか、ワイン両手に夜這いって、どういう目出度い組み合わせだそれは」
バスローブ姿でバルコニーに立っていたアドルフは、左手に750mlのワインボトル、右手にグラスに注いだワインを持って大雨に打たれていた。
「雨脚が激しくなってから、まだ1分も経過していないから、そんなに濡れていない筈だぞ。・・・実のところ、俺も寝酒を呑んでいたら、急に雨が降り始め、あっという間に激しくなったので、びっくりして出てきただけなんだ」
「なんだ、そうなのか。・・・いや、わざわざ雨に濡れに出てくるって可笑しいだろ。頭でも冷やしたかったのか? その割にワイン持参というのは、なんのつもりだ。だいたいそのワインはどうした。この安ホテルの客室には、ミネラルウォーターぐらいしか用意されていないだろ。」
少なくとも俺の部屋のドリンクバーには、シャトーラトゥールなんてなかった。
「ワインならただのルームサービスだ。なあに、雨が激しくなって窓に近づいてみたら、このバルコニーが隣に続いていることを発見し、思わず出て来たというだけのことだ。雨に濡れてしまったのは、ただ単に巡り合わせの問題なんだ」
「なるほど・・・いや、違うだろ。隣に続いていたら、なぜ飛び出してくる。その思考展開は、空き巣か強姦魔ぐらいしかしないものだろう。・・・ルームサービスなんてあったか?」
1泊450フランの安ホテルで、シャトーラトゥールのルームサービスとは驚いた。
「週明けルドンを納品予定のクライアントへ、搬入が遅れる旨をFAXしようとフロントへ行ったら、たまたまうちの上得意がそこに立っていたんだ。旅先はどうも生活リズムが狂って困ると話したら、10分後にこの酒がボトルで届けられた。・・・隣にお前が寝ているから出てきたに決まっているだろう」
「要するに、さりげなく脅迫したんだな」
職場で自分の性癖の詳細情報を握る男がやってきたのだ。
そりゃあ、1962年シャトーラトゥールの1本や2本届くだろう。
「脅迫などしていないぞ、失礼な。・・・それよりピエール、俺が雨に打たれているのを見ている筈なのに、いつまでここに立たせておく気だ。そろそろ部屋へ入れてやろうとは思わないのか? このままだと、どんどんシャトーラトゥールが薄くなってしまう」
「好きなだけ薄めてろ」
俺は目の前で窓をぴしゃりと閉めると、錠を下ろし、隙間なくカーテンを敷いてからベッドへ戻った。

 



翌朝7時過ぎにカレから、修理が終わったと連絡があった。
朝食のために階下のカフェへ下りてみると、昨日に続いて早起きなアドルフが、呑みかけのコーヒーを傍らに置いて『アートヒストリー』誌を読んでいた。
世間一般常識において朝に起きて夜に寝るというのは、ごく普通のことなのだが、アドルフが朝日を浴びている姿というのは結構レアだ。
あれからシャトーラトゥールを一人で飲み干してすぐに寝たのだろうか。
「ミノリはまだか?」
向かいの椅子を引き、ほぼ同時にやって来たウェイターへ俺もコーヒーを注文する。
「いや、先に降りて来て、ここで鯵の南蛮漬けを食べていたが、突然引換券がないと叫び始め、騒ぎを起こしていた」
「鯵の・・・・何だって? いや、それはいい。騒ぎっていうのは、どのぐらいのものなんだ」
「鯵の南蛮漬けだ。元からここにいた日本人が、持ちこんでいたものを、いじましく指をくわえながら見ていたら、食べて良いと許可が出たらしい。騒ぎと言うのは、その日本人を含めて、厨房とフロントからざっと10名ばかり出て来た程度の規模だ」
「大騒ぎじゃねえか! 一体何の引換券を失くしたか知らないが、見知らぬ通りすがりの同胞を巻き込む前に、部屋を探せばいいだろう。おまけに、横から意地汚く、オイルサーディンなんか、分けて貰いやがって・・・・というより、その日本人も、そんなものを、レストランに持ちこんじゃいけないだろう。日本人というのは、どういう教育を受けているんだ。違うな、俺の知っている日本人のイメージは、もう少しマナーがあるぞ」
「俺の知っている日本人も、もう少し洗練されている。ミノリという特異例を引き合いに出して、日本人を定義するのは、日本人にもミノリにも失礼だからやめるべきだな。ミノリが何物にも拘束されない自由奔放な天才野生児ということは、俺よりもお前がよく知っているだろう。通りすがりの日本人が何故、鯵の南蛮漬けを持ちこんでいたかは、本人に聞いてみないと理由がわからない。一事をもって日本人という民族そのものを、不当に評価するのは良くない事だ。引換券というのは、恐らく写真屋の預かり証のことだろう。オイルサーディンじゃない。鯵の南蛮漬けだ。小骨は少々気になったが、なかなか美味かったぞ」
「ああ、そうか・・・あいつ、『アスタルテ』の近所の写真屋に、現像出していたんだっけ・・・というか、お前も食ってたのかよ!」
「ミノリが美味い、美味いと宣伝して回るから、皆で少しずつ頂いた。シェフが本人からレシピを聞いていたから、ここで出す気かも知れない。朝食サービスしか営業してないこの小さなレストランで、トーストやオムレツ、フルーツジュースとともに、いきなり鯵の南蛮漬けだぞ。ゆゆしき問題だな。とにかく、引換券に関しては、あんな田舎の写真屋で日本人客というのも珍しいだろうから、行けばわかるだろうと助言してやったら、すぐに出て行った。もう店へ着いている頃なんじゃないのか?」
「相変わらず、行動が衝動的な奴だな。俺と一緒に行けばいいものを」
「修理屋から連絡があったのか」
「ああ。というわけで、このあとレンタカーを返して、車を取りに行って来る。・・・チェックアウトして行くつもりだったが、ミノリがいないんじゃ、そういうわけにもいかんな。一旦こっちへ戻るから、お前もミノリが帰ってきたら捕まえておいてくれ」
アドルフに留守番を頼むと、俺も朝食を済ませてホテルを出発した。
レンタカー屋へ車を返却し、駅前ロータリーでタクシーを捕まえて『アスタルテ』を目指す。
そちらの方が近いのか、途中から運転手は裏通りに入っていた。
しかし目的地が近付くにつれ、辺りは異様な雰囲気に包まれていった。
「・・・ええと、何かあったんですかね?」
何気なく運転手に声をかけてみた。
昨日はあれほど閑散としていたシャントルーヴ村が、急に賑やかになっていたのだ。
裏通りへ入ったはずなのに車の通りが多く、結局さきほどから、何度もタクシーが停止を繰り返している。
祭りだろうかとも思ったが、それにしては通りを行きかう人々の表情が、どことなく険しい。
「やっぱりな・・・ありゃ、自警団だ。靴屋のサロモンに、バテん家の息子がいるから間違いない。また吸血鬼でも出たんじゃないかね。・・・お客さん、引き返した方がいいんじゃないかい?」
『バテの酒屋』という看板の前に、集まっている男たちを見て、運転手が言った。
見たところ30代〜60代前半ぐらいの男たちが10名ほど。
そのうち、どれがサロモンであり、バテの息子なのかはわからないが、一様に真剣な顔をして何事かを話し合っていた。
彼らがシャントルーヴ村の自警団なのだろう。
「いや、そういうわけにもいかないんだ・・・。すまない、そこの角でおろしてくれ」
『バテの酒屋』から2ブロックほど先にある交差点でタクシーを降りると、俺はその先に見える茂みを目指した。
間もなく見覚えのある古びた納骨堂が傍らに見えて、そこがシャントルーヴ墓地の近くだとわかる。
ということは、すでに『アスタルテ』の敷地に入っている可能性が高かった。
俺はそのまま茂みを進み、カレとの待ち合わせ場所である、ホテルのロビーを目指して歩く。
辺りへ立ちこめているラヴェンターの香りに、例の中庭が近いことを覚り、我知れず足が早くなった。
そういえば、あの夜・・・なぜドークルはあの庭にいたのだろう。
俺の部屋に来たと言っていたが、いなかったから探し回っていたのか・・・あるいは、あのセックスドール達を使うために来ていたのか。
どちらにしても不気味な話だ。
ゾクリとした嫌な感覚が背筋を襲い、庭を急ぎ足で突き進もうとしたところ、走り掛けていた足を、俺は思わず止めた。
茂みを掻き分けるときの、葉が擦れ合うよう音が、やや左後方から聞こえて来て俺は思わずその場にしゃがみ込むと、音が聞こえる方向へ注意を集中した。
「モーベール・・・?」
10メートルほど離れた場所を、自分と同じ進行方向へ向かって歩いて行く、黒っぽい作業着姿の大きな後ろ姿は、間違いなく、あの夜シャントルーヴ墓地で見た管理人・・・確か、レオン・モーベールといっただろうか。
モーベールは例によって、麻布のような分厚い大きな袋を提げて、大股で歩いていた。
そういえば人形の少年に寝込みを襲われた夜、あの男は俺の部屋を覗いていたのだ。
人の部屋を覗いていること自体異常だが、あの男がカレが言うところの墓地管理人で間違いないのであれば、ドークル家とも『アスタルテ』とも無関係の筈。
いくら管理している墓地が隣接していて、その敷地の一部をドークルの父親に買い取られたといっても、なぜ従業員でもない彼が、ホテルの庭を頻繁に歩いているのだろう。
せめてカレのように、口は悪くとも陽気な男であれば、作業着姿でもいくらか容認もできようが、こういっては失礼だが、あのモーベールは陰気であり、醸し出す雰囲気がどうにも不気味で仕方がない。
深夜の墓地だったとはいえ、ミノリが悲鳴を上げて逃げ出すのも無理はなかった。
こうして日中に見てもあまり、感じの良い男ではなさそうだ。
モーベールが通り過ぎるのを待って、俺もその後を追いかけるように、ホテルの建物を目指そうとした。
「おっと・・・あれは?」
両側にラヴェンターの群生が咲き乱れる小路を進みかけて、何気なく背後を振り返ると、午前中の明るい日差しを受けてキラキラと輝く水面を見つける。
例の池だった。
どうしようか少し迷い、このままホテルを目指せば、どこかでモーベールと出くわす可能性を考慮する。
何が目的だったかはわからないが、要するにあの男には、俺が少年と性行為をしていたところを見られたわけだ。
そう考えると少々気不味く、できるなら二度と顔を合わせずパリへ戻ってしまいたかった。
俺は行き先を変え、池を目指す。
そして数歩近づいたところで異変に気が付いた。
「蛻の殻じゃねえか・・・」
立ちこめるラヴェンダーの甘い香り、勿忘草と蔓日々草が織りなす青い冠と、夏の日差しを眩く照りかえしている水面へ浮かぶ、梅花藻の小さな浮島・・・それを眺めるための白い二つのベンチ。
間違いなくあの池だが、しかし。

『見事でしょう・・・・』

あの夜、それを作らせた日本の業者の技術の高さを、熱に浮かされたような声で、惜しみなく絶賛したドークル自慢のコレクション・・・5体のラブドール達が、きれいさっぱりこの池の畔から消えていた。
「どういうことだ・・・」

『La boheme, la boheme <<cinq>>』中

欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る