『La boheme, la boheme <<cinq>>』中
『アスタルテ』のロビーへ入ると、既に来ていたカレが立ち上がって手を振ってきた。
「よう、案外早かったじゃないか」
「これでも結構道草を食っていたつもりなんだが」
時計を見ると、すでに10時を回っている。
混雑を含め、片道小一時間かかったとはいえ、連絡を受けてから3時間以上経過している。
その間、カレはずっとここで待ってくれていたのだろう。
「いやいや、検問にひかかってたらもっとかかっただろうよ。運が良かったな。車は駐車場に停めてあるぜ」
カレがS560の鍵だけを渡してくれながら言った。
「検問だって? 何があったんだ。・・・請求書は?」
ここへ来る時にも、自警団がいるとタクシーの運転手が言っていたことを思い出した。
それがわかっていたから、あの運転手は途中から裏通りに入っていたのだろう。
俺は何気なくロビーを見渡す。
フロントの男と目があったが、ドークルではなかった。
「ゴミ集積所で、バラバラ死体が見つかったんだよ。朝っぱらから村中大騒ぎだぜ。それと代金なら昨日のうちにロジェから徴収済みだから気にすんな」
そう言ってカレが似合わないウィンクをしてみせる。
「死体だと・・・!?」
そのとき、フロントから俺の名前が呼ばれた。
俺は話を中断し、フロントへ向かう。
「おはようございます、ムッシュウ・ラスネール。・・・こちらをお連れ様にお返しいただけませんか?」
そう言って、男が差し出してきたのは、表面こそつるりとした光沢があったが、安っぽい紙質の『バタイユ写真館』の預かり証だった。
宛て名はミノリになっている。
アドルフから聞いていた、彼女の紛失物だった。
どうやらここに忘れていたらしかった。
「すいません、部屋に忘れてましたか」
受け取りながら俺が言うと。
「いえ、それが中庭へ落ちていたらしく、親切な方が届けて下さいました」
そう言って従業員は、感じの良い笑顔でにっこりと笑った。
そうすると目の下の濃い隈が、より一層深く刻まれて、少し痛々しく感じられた。
随分と疲れが溜まっているようだった。
それにしても中庭に落ちていたとは。
少し考え、そういえば昨日の朝ミノリが、既にチェックアウトをするつもりで部屋を出て来てから、荷物をレストランへ置いて写真館へ行っていた事を思い出す。
その帰りに確か、近道をするつもりで中庭を通ったら、却って迷子になったと言っていた。
おそらくその時に、預かり証を落としたのだろう。
「ほう、それバタイユんとこのか? そんな紙きれ、わざわざ届けにくるなんて、どこのお節介野郎だ」
隣でしっかり盗み聞きしていたカレが、横から口を挟んできた。
相変わらずの口の悪さだが、言われて見れば確かにその通りだ。
中庭に落ちていたから、宿泊者の物だという推測が立つにしても、貴重品や大きな荷物とでもいうならともかく、たかが写真の預かり証など、普通はいちいちいホテル側へ届けたりするだろうか。
「それがその・・・警察の方でしたので。おそらく持ち主の人が困っているだろうからと」
「警察・・・だって?」
不意打ちのように耳へ飛び込んで来たその言葉のせいで、俺は声が震えてしまった。
「なあ・・・さっきから気になってんだが、あんたは夜勤当番の筈だよな。この時間だといつもはロジェがここに立ってんだが、今日はどうしたんだい」
「それが、その・・・」
カレが質問した途端、その従業員の顔に困惑が走る。
その時である。
「ピエール!」
玄関から名前を呼ばれて振り返ると、大股の足取りで入って来たアドルフが、こちらへ近づいて来るところだった。
彼の後ろには、乗って来たのであろうタクシーと、どこかで拾ったらしいミノリが立っておりこちらを見ている。
「おい、ホテルで待ってろって・・・」
「いいから急げ、帰るぞ」
言いかけた俺の言葉を遮るようにそう言うと、アドルフは俺の腕を掴み、問答無用で『アスタルテ』のロビーから引き摺りだした。
02
欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る