「一体何事だ。・・・そうだ、ミノリこれ・・・っていうか、もういらねえな」
二日ぶりで愛車の運転席へ収まった俺は、さきほど『アスタルテ』の従業員から預かった写真館の預かり証を渡そうとしたが、隣に乗って来たミノリが、手に持っている『バタイユ写真館』の紙袋を確認すると、そのまま紙片を握りつぶした。
「ロジェ・ドークルが死体で見つかった。間もなくこの辺り一帯、警察だらけになるだろうから、妙なことを聞かれないうちに脱出した方がいいだろう。さっさとホテルを引きあげて、パリへ戻るぞ」
後部座席に乗り込んだアドルフが教えてくれた。
「なんだと!? ・・・そうか、だから夜勤の男がフロントにそのまま立っていたってわけか」
俺は駐車場を出るところで一瞬迷い、駅へ真っ直ぐに繋がっている国道に向かう右側ではなく、左に指示を出して反対側へ向かう事にした。
そのまま、さきほど来る時にタクシー運転手が使っていた、裏通りへ入る。
「何の話だ・・・おい、道を間違えているんじゃないのか?」
「大きな道は多分すでに検問が立っているだろう。迂回しながらなるべく駅前を目指す。・・・この紙屑を取っておいてくれた男だ。ドークルが来ないせいで交替ができず、そのまま昨夜からフロントに立たされている気の毒な若者のことだよ。ったくどうなっているんだ。一晩でゴミ集積場にバラバラ死体が捨てられるわ、ドークルは殺されるわ・・・って、おいまさか、そのバラバラ死体っていうのが、ドークルのことじゃないだろうな!?」
「なるほどそんな事件もあったのか・・・どうりで村全体が急に物々しくなるわけだ。確かに一晩でそんな事件が二つも起きるというのは、これほどの田舎で考え難いことだが、どうやら別件らしいな。ドークルが殺されたのは、ゴミ集積場ではなくホテルの中庭で、手足もちゃんと付いている。刃物で斬られてはいるがな。・・・その預かり証はホテルに忘れられていたのか?」
「それこそ中庭に落ちていたらしい」
「なんだと。それなら遺留品じゃないのか・・・そうかミノリ、貴様が・・・」
サングラスの目を胡散臭そうに細めて、後ろからアドルフが助手席のミノリを見る。
「馬鹿なこと言わないで! なんで、あたしが容疑者になるのよ!」
物騒な会話にも加わらず、呑気に出来あがった写真を眺めて鼻歌を歌っていたミノリだったが、さすがに手を止めて、アドルフへ怒鳴りかえした。
「まあ、中庭といってもあれだけの敷地だからな・・・。それにその預かり証は、他ならぬ警官が従業員へ渡してくれたらしいぞ。そういう意味ではお墨付きだろうから、ミノリが疑われる心配はないだろう。安心していいぞ」
「あたりまえでしょう! あたしはずっと、おじさん達と一緒にいたんだから」
「部屋に入ってからのことなど、俺は知らんぞ。ピエールのことなら、ずっと一緒だったから知っているが。・・・珍しいなこの伝票。客の名前が水性ボールペンで書かれているぞ。お前が飛ばした唾のせいで、カワカミの、最初のKの文字が滲んでいる」
いつのまにか手にしていた預かり証を広げながら、アドルフが言った。
「え、そうなの・・・ああ、そうか。・・・・っていうか、返してよ。オーナーに持たれていたら、気持ち悪い」
ミノリがアドルフを侮辱しながら、骨ばった白い手から預かり証を奪い返した。
「おい、知っているってどういう意味だ? 確かにお前は雨に打たれながら俺の部屋を窺っていたが、それまでは部屋で一人酒を飲んでいた筈だろう。その直後も、俺がカーテンを引いたから、知らない筈だし・・・っていうか、なぜミノリはそこで納得する? いや、ちょっと待てよ・・・あれ、何か可笑しいな」
自分で言いながら、どこか釈然としないものがあった。
「とにかく、あたしは潔白だよ」
今のところ、もっともアリバイのないミノリが、重ねて自己弁護をしながら、小さな手で預かり証の皺を伸ばしていた。
たしかに、貰ったときには何ともなかったKの字が、少しだけ水滴で滲んでいる。
「ピエールのアリバイは俺が証明してやる」
アドルフが心強い表明をしてくれた。
俺は薄気味悪くてしかたがない。
どういう意味なのだ、一体。
「おじさん・・・危ない!」
不意にミノリから指摘され、俺は前を見ると、自分の目を疑った。
「えっ・・・っと、うわあ!」
「きゃああああ!」
慌ててブレーキを踏む。
時速40キロ程度で走っていたS560は路上で急停車したが、俺を慌てさせ、ミノリに悲鳴を上げさせた原因は車の前で倒れている。
「おい、大丈夫か・・・!」
シートベルトを外し、俺は車外へ飛び出した。
そこにはほっそりとした、華奢な少年が倒れている。
車にぶつかった感覚はなかったから、轢いたわけではないだろうが、少なくとも轢かれそうになって、この少年は転んだわけだ。
すなわち、怪我をさせた責任は俺にある。
もっともドライヴァーとしては、安全確認もせずふらふらと車道へ飛び出さないでくれと、歩行者に言いたいが・・・・それで、俺の不注意が糾弾されないわけではない。
「おじさん轢いちゃったの・・・?」
「死んだのか」
無茶苦茶なことを言いながら、同乗者達も後ろから出て来た。
「そういうわけではないが・・・おい、しっかりしろ。立てるか・・・って、お前・・・」
「う・・・・ん・・・」
肩を起こしてやると、軽いうめき声を上げながら、力なく俺に凭れかかって来る少年の小さな顔を見て、俺は息が止まりそうになった。
日の下で見ると、思っていたよりもずっと明るく、柔らかそうな栗色の巻き毛と、俺を見上げてくる夢見るような翡翠色の瞳、ほんのりと薔薇色に色付いた瑞々しい頬、どことなくドークルに似た、形の良い上品な口唇・・・。
見間違える筈もない、そこにいたのは、あの晩、俺の寝込みを襲ってきた少年・・・。
月明かりの中に座り、梅花藻の浮かぶ池の水面を眺めていた、あの人形の少年だった。

 03

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