「ほれ、安ホテルだからこんなもんしかないけど、飲めよ。それともシャトー・ラトゥールの方がいいか? だったらすぐに持ってこさせるが」
「・・・いいえ、これで。ありがとうございます」
グラスに注いだ水を渡してやると、少年・・・・エリファ・ジョアネは、少女のようにほっそりとした指先を冷たいグラスに絡みつかせて受け取った。
誰の物なのか、身体に合わない大きな白いシャツの、ボタンを二つ開けた襟元から覗く白い喉が、流れ落ちる水のリズムに従って、ごくりごくりと動く。
その様子が、やけに艶めかしかった。
あの夜、この少年は俺のものも、こうして・・・。
「どうかしたのか?」
思わず頭を振ると、窓際に立っていた鋭いアドルフに質問されて、返答に窮する。
「いや・・・・、本当にどこも怪我はしていないんだな? 一応病院ぐらいなら、連れて行ってやるぞ」
「大丈夫だって・・・こちらこそごめんなさい。ちょっとぼうっとしていて・・・これ、ありがとう」
「そりゃ、構わんが・・・・しかし、家がわからんって・・・そりゃあ、どう考えても不味いだろう。俺達に家を知られたくないっていうだけだったら、とりあえず近くまで連れて行ってやるぞ。・・・っていうか、お前あの辺に住んでいるんだろう、その・・・」
「なぜそうだと言い切る。歩いていたからといって、近所の住人とは限らないだろう。攫われてこの辺りで降ろされただけなのかもしれんし」
「ああ、いやまあ・・・そうなんだが」
アドルフに追究されて俺は困った。
たしかに例の夜の話は彼に明かしたが、その犯人である少年が目の前にいるとは、さすがに言えない。
突然車の前に飛び出してきた少年、エリファを連れて、俺たちは駅前のホテル『スリーズ』にある、まだチェックアウトしていない俺の部屋へ戻って来ていた。
人身事故を起こせば警察へ報告をするのが鉄則ではあるものの、それは勘弁願いたい俺は、少なくとも少年を病院へ連れて行こうとした。
しかしエリファは大した怪我はしていないと言い、確かに転んで少し肘を擦り剥いてはいたものの、骨が折れているわけでも、歩けないわけでもなさそうだった。
それなら家に送ってやろうとアドルフが質問したところで、様子が可笑しくなっていったのだ。
途端に視線が宙を彷徨い始め、口から出て来る言葉は要領を得ず、しまいに翡翠色のエリファの瞳は潤みだして、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
何ともないと言いつつも、実は頭を打っており、記憶障害が起きているのかも知れないと判断し、やはり病院へ連れて行くつもりでエリファを車に乗せるが、今度は車内で、何ともない、病院は嫌だと騒ぎだす。
当人にそこまで言われては無理に行くことも出来ず、だからといって、まさか放っておくわけにもいかずに、仕方がなくここへ連れて来たというわけだった。
「ごめんなさい、心配かけて」
エリファはすまなそうに俺を見上げる。
その視線の角度が、あの夜を思い出させ、俺はどうにもソワソワしてしまう。
「いや・・・とりあえずまあ、気分は落ち着いたみたいだな。・・・帰りたくない理由があるっていうんなら、一晩ぐらいここへ泊めてやるぞ。・・・その、まあちゃんと部屋をとってやるって意味だが」
俺は立ち上がり、机に置きっぱなしにしていた煙草を取って火を点けながら言った。
「親切にしてくれて、本当にありがとう。でも・・・大丈夫だよ。すぐに帰るから」
「記憶が戻ったのか」
「最初から記憶はあるよ・・・ただ、ちょっと帰りたくなかっただけで」
「親と喧嘩でもしたか」
アドルフが重ねて聞いた。
「ええと・・・どこから言ったらいいのかな。確かに家出中ではあるんだけど、他にも帰るところはあるんだ」
「なるほど、男のところか」
自分の論理で話を解釈するアドルフに呆れたが、エリファがあの夜俺にしたことを思えば、女とは確かに考えられない。
・・・となると、俺はその男に見つかったら、ただじゃすまない気がしてきた。
エリファは苦笑する。
「たしかに・・・男の人に匿ってもらってはいるんだけどね」
「匿ってもらってる? ・・・逃げているのか。何をした?」
「おいアドルフいい加減にしろ」
質問がきつかったのか、エリファの表情は強張っていた。
確かに事情はあるのだろうが、初対面の俺達がそこまで踏み込んでよい筋合いはない。
「あの・・・ちょっとお父さんと上手くいってなくて」
「そうだったのか・・・」
この年代の少年なら、よくある話だ。
「その額の傷も親父がやったのか」
「おい、アドルフ・・・」
だが、無神経なほどのこの質問に、エリファは素直に答えようとした。
「違います。これは兄が・・・」
「へえ、お兄さんがいるんだ」
俺のベッドにのびのびと横になって、写真整理を始めていたミノリは、不意に顔をあげてのんびりと言った。
「つまり、親父と兄貴から逃げるために、家出中ってわけか。ひでえ話だな」
だが、エリファは再び返答に困ったように苦笑いした。
「それもちょっと違うというか・・・あの、兄はとても真面目で大人しい人でしたから」
「大人しい人間が突然豹変するって、よくあるよね。日本でもそういう事件多いよ。近所でも評判の真面目なご主人だったのに、まさか・・・・って」
変な芝居を付けながらミノリが言ったが、けして茶化しているつもりはないようだった。
「じゃあ、なんだ。やっぱり喧嘩か? でもお前も見たところ暴力的には見えんっていうか、むしろ多分、弱いだろ? そんな怪我負っちまうような、大喧嘩がお前と、その大人しい兄貴の間に起きちまうってのが、どうも想像できんな」
見たところ怪我は結構古い。
古傷でしかないものが、醜く残っているということは、かなり深い傷だった筈だ。
治るのに時間もかかったことだろう。
「これはその・・・心の狭かった僕が悪いから・・・兄さんを理解してあげられなかった、僕のせいで・・・。優しい人だったのに・・・」
そう言うとエリファは俯いてしまう。
「さっきから、ずっと過去形だな。ん・・・どうした?」
アドルフが言って、俺は彼を振り返る。
「ねえ、ひょっとして泣いてるの・・・?」
ベッドからモソモソと降りてくると、ミノリはエリファの前にしゃがみこみ、顔を覗きこんだ。
「うん・・・大丈夫だから」
洗面所からタオルを取ってくると、エリファに渡してやる。
涙に濡れた翡翠色の瞳が俺を見上げ、タオルを受け取って顔を拭った。
「そろそろ、ちゃんと話してくれないか。お前、一体何者なんだ。何があった?」
月明かりを浴びて梅花藻が浮かぶ池の水面を眺めていたラブドール達。
その夜、ドークル家の離れに泊まっていた俺の部屋へ潜り込み、性交渉を求めて来たエリファ。
カレの話では、ドークルには年が離れた腹違いの弟がいた筈だ。
改めて整理してみると、浮かび上がってくる事実はただひとつ。
「僕の兄は、今朝がた死体で発見された、ロジェ・ドークルです」
予想通りの返答が返ってきた。
04
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