『スリーズ』へ入るなり、突進してきたミノリを躱す。
背後で派手に転んだ音がしたかと思うと、そのまま立ち上がって玄関から出て行こうとした首根っこをむんずと掴んだ。
「おい、何事もなかったかのように立ち去ろうとするな」
「放しておじさん、お店閉まっちゃう!」
鳶色の瞳を持つ大きな目を、いっそう丸く見開きながら、わりと真剣な顔をしてミノリがのたまった。
「落ち付け。いくら田舎と言ったって、こんな日が高いうちに閉まる店なんてあるものか。何を買いに行くんだ?」
「象さん」
真剣な顔のままミノリが応えた。
真剣らしい。
「そうか。象を買ってどうする気だ? ペットにするのか? モンマルトルのアパルトマンでは、ちょっと難しいと思うぞ。確かお前の部屋は3階だったな。床が抜けちまうんじゃないか? だいたいお前は、象が何を食べるか知っているのか? それとペットショップでは買えないだろうから、アフリカのサバンナにでも狩りに行かないと」
「象を飼ったりするわけないじゃん、動物園じゃあるまいし」
ごく常識的な回答が返ってきた。
その程度の知識は持ち合わせていたと知れて、ひとまず安心できたが、ミノリに言いかえされたことは、なぜだか腹立たしかった。
「そうだったな。ところで、象を買って何をする気だ」
「ヴァンパイア退治」
俺はミノリの襟首を放した。
「邪魔して悪かったな」
水色の運動靴を履いた小さな足が、小気味の良い足音を立てて、炎天下のアスファルトへと駆けだしていった。
ロビーへ入ると、午前中しか営業していない筈のレストランに客がおり、呑気に新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
アドルフである。
どうやら飯も済ませたらしく、テーブルに珍しい調味料のボトルが出しっぱなしになっている。
ラベルの文字を見る限り、中華か日本食でも出させていたのだろうか。
しかし店の前には、ちゃんとクローズの札が立っている。
「おい、何様のつもり・・何かあったのか?」
呆れながら近づいてみると、向かいの椅子には東洋人の少年が後ろを向いて座っており、その少年と対峙するように、ウェイターやフロントの従業員が並んでいる。
「どうやら吸血鬼が彼の魔法のランプを盗んで行ったらしいが・・・会話が先ほどまでは日本語、現在は片言の英語につき、詳細はよくわからん」
「また吸血鬼か・・・っていうか魔法の、・・・何だって?」
「魔法のランプだ。パッサージュ・ブラディの雑貨屋で50万フラン出して購入した、彼の宝物らしいぞ。話し合った結果、盗んだのは吸血鬼だろうという結論に達したらしいが、それならヒンドゥーの神様に守ってもらえということになり、今しがたミノリが飛び出して行った」
「言ってる意味がさっぱりわからないのだが、それはミノリが象を買いに行ったことと何か関係があるのか」
「・・・・なるほど、ガネーシャを連れてくるつもりなのかあいつは。ところでさきほどからその少年がえらく熱っぽい目でお前を見ている気がするのだが、知り合いか?」
アドルフに指摘されて向かいの席に視線を送ると、たしかに鳶色の瞳と目が合った。
「・・・・・・・」
「何だって?」
少年が聞き慣れぬ言語で何か言ったが、残念ながらさっぱりわからない。
今まで、おそらくミノリが通訳に入って日本語で話していたというので、この少年も日本人だろうか。
するとアドルフが英語で話しかけ、その後で俺に伝えてくれる。
「どこかでお前に会ったことがあると言っているぞ」
「いや、そんな筈はないんだが・・・」
そう思いつつ、もう一度少年の顔をよく見る。
年の頃は10代後半といったところだろうか・・・いや、東洋人は若く見えるので、あるいはミノリと同年代かもしれない。
染めていない、癖のない黒髪は、まん中で分けている少し長めの前髪以外を、邪魔にならない程度の長さに切り揃え、大きな瞳は少女のような可愛らしい印象を与えてくれる。
服装は白いシャツにダークグレーのスラックスで、全体的におっとりとしていて上品な印象だ。
おそらくアドルフ好みのタイプだろうと思うが、少年はさきほどから訴えかけるように俺ばかりを見つめている。
「さては、純朴そうな顔をして、お前の寝込みを襲った夢魔とやらが、この少年か」
「それも違うが・・・」
いや、俺はこの少年と本当に会ったことはないのだろうか。
そもそも、俺は自分が対面したことのある相手を、全て記憶しているだろうか。
それは俺の職業を考えれば、ほぼ不可能に近い。
逆に俺の記憶に残らずとも、相手は俺を印象的に記憶している可能性が近く、それも寧ろ悪い意味においてだ。
なぜなら、俺の仕事は・・・そこまで考えた時、不意に隣で椅子をひく音が聞こえた。
「だとするなら・・・そろそろ退散したほうがいいんじゃないのか?」
「そうしてくれるとありがたい」
相手が俺を明確に思い出さないうちに。
先にレストランを出て行くアドルフに続き、俺は彼の背中を足早に追った。
出て行く時にふたたび後ろを振り返ったが、少年はずっと俺に熱い視線を送り続けていた。
その視線は少しだけ俺に疑問を抱かせる。
仮に彼が俺の客の一人だったとして・・・本来であれば、金を返せと掴みかかられたり、彼のように言葉が不自由であったならば、言いたいことも言えず、目に滲ませた怒りや非難を、突き刺すような視線に込めて、俺にぶつけていても可笑しくはない。
稀に近くに警官の姿があるなどの事情があって、正規料金しか請求しなかった客も、たまにはいるが、あるいはそういう中の一人だったのだろうか。
それにしても。
「ガネーシャか・・・」
レストランを出てロビーを歩きながら、さきほどアドルフが言っていたことを思い出していた。
「象の頭を持つ、ヒンドゥーの神様だな。シヴァの息子で妻であるパールヴァーティーが自分の垢から作り出したが、シヴァに首を切り落とされ、代わりに象の頭を載せられたと言われている。一般的には財をもたらすとして、とりわけ人気がある神様だ」
なかなか強烈な由来をアドルフが聞かせてくれる。
「そいつがいると、吸血鬼も退治してくれるのか?」
「吸血鬼なんているわけがないでしょう」
エレベーターホールで擦れ違った男が、うんざりした調子で言った。

 07

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