『アスタルテ』の中庭には、未だ日の長い夏の暑気が立ちこめていた。
「一緒に来なくてもよかったのに」
「一人で行かせるわけにはいかん」
誰に伝えるともなく呟いた言葉に、前を歩く黒尽くめの長身痩躯から明確な返答がくる。
『スリーズ』1階のエレベーターホールで、植木屋から詳しい話を聞いた俺とアドルフは、ひとまず宿泊階のフロアへ上がり、ときおりミノリが戻っていないか確かめつつ、話を整理した。
夕刊紙やホテルの従業員からも仕入れた情報を総合すると、事件が発生したのは『アスタルテ』とシャントルーヴ墓地の間にある中庭。
例の池へ続く小路と、ホテルのレストランへ向かう通路が交わっている地点の石畳に、うつぶせになってドークルの遺体は倒れていた。
遺体には致命傷となったのであろう大きな傷が2箇所と、他にも細かい咬み傷が10箇所以上もあった。
大きな傷は、ともに後ろから斬りつけられたものがふたつ。
ひとつは右の肩甲骨あたりから背中を斜めに抉り、左脇腹まで続いている長いもの。
もうひとつは顎の左下から僧帽筋まで、首筋を回り込んでいるもの。
ともに傷は深く、首筋の傷は頸動脈を切って脛骨が見えていたという。
さらに細かい”咬み傷”だが、これは犬や狼などの犬歯を持つ動物によって付けられており、遺体がうつぶせに倒れていた肩や膝などにも付いていることから、恐らく殺害直前に野犬などに襲われた可能性が高い。
ドークルの殺人に吸血鬼伝説の影が付き纏うのは、これが原因のようだった。
遺体は明け方ホテルの従業員によって発見され、すぐに警察へ連絡された。
頸動脈を切られていた遺体の状態は当然出血が多かったにも拘わらず、殆どの血は衣類に吸い込まれ、さらに雨に流されて、あまり現場の地面に残っていない状態だった。
着ていたスーツも、降り注ぐ雨に濡れて遺体に張り付いていたという。
そう、事件当夜は深夜近くになって突然豪雨の悪天になり、明け方近くまで雨が降っていたのだ。
現場の状態も地面が湿り、方角的には西側にあたる中庭には朝日が当たらず、夜が明けてもまだ地面が濡れていた状態だった。
遺体の周辺には、アドルフが教えてくれたとおりに、ドークルがいつも持ち歩いているあのブリーフケース、さらに少し離れた場所にはドークルの血で汚れたシャントルーヴ墓地の鍵束が落ちていたという。
シャントルーヴ墓地の鍵束を管理しているのは、もちろん管理人であるレオン・モーベールだ。
この事件にモーベールが関わっていることは間違いない。
普通に考えれば、モーベールがドークルを襲い、揉み合った際にドークルがモーベールから鍵束を奪って、現場に落ちたのだろう・・・・離れた場所に落ちていたということは、あるいはモーベールがそちらの方向へ逃げたのかも知れない。
凶器は鉈のような、刃渡りが大きく重い刃物と見られている点も、モーベールがもっとも疑わしい。
彼が日頃持ち歩いている作業道具に、それらしき刃物があったのを俺は見ている。
恐らく墓地の除草作業などに使用しているのだろう。
あるいは、ゴミ集積場で発見されたというドークルの人形たちも、その刃物で手足を切断したのかもしれない・・・・目的は不明だが。
ただ、どうしても腑に落ちない点がひとつだけあった。
事件当夜、シャントルーヴは明け方まで激しい雨が降っていた。
だが、今朝がた俺が『アスタルテ』の従業員から受け取った、『バタイユ写真館』の預かり証はまったく濡れていなかった。
あの預かり証は、『アスタルテ』の中庭に落ちていたと従業員が言っていた筈だ。
もちろん落ちていた場所にもよるだろうが、現場の検証をしていたのであろう警察官が届けてくれたということは、少なくとも殺人事件現場周辺で拾得されたのであろうし、そのうえで関係がないことが明白だと判断されて、ホテルへ届けられたのであろう。
しかしながら屋外に落ちていた預かり証が、あれほど激しい雨の中、なぜ水性インクで書かれたミノリの名前も滲まず、つるりとした表面の光沢を持つ紙質の変化もないまま、発行されたときと変わらぬ状態で届けられたのであろうか。
俺とアドルフは、レストラン側からホテルへ入り、フロントへ向かった。
幸いというか気の毒なことに、フロントには今朝がた俺に預かり証を渡してくれた従業員がまだ立っていた。
何時間仕事を続けているのか、彼はさらに憔悴しているように見えた。
彼に声をかけて、俺は単刀直入に用件を切り出す。
「預かり証が落ちていた場所ですか・・・それでしたら、おそらくブリーフケースの下かと思います」
「ブリーフケースって・・・まさか、遺体近くに落ちていたっていう、あの鞄のことか・・・ドークルが持っている、ジュラルミンの・・・」
なるほど、あのケースに守られていたならば鉄壁だろう。
「ええ、警察の方がそう仰っておられましたから、間違いないかと」
何でもないことのように、若い従業員は言った。
「しかし、それなら普通は遺留品として、警察が押収すると思うのだが」
それとも何か明確な理由があるのだろうか・・・たとえば、アドルフではないが、本気でミノリを疑っていて、わざと遺留品を持ち主の手に渡るように仕向けて、容疑者河上ミノリが現場へ戻って来るのを待っているとか?
今すぐ一人でパリへ逃げるように、伝えた方がいいのだろうか・・・と言っても、当の本人がサバンナへ象を探しに出掛けたきり、戻って来ないのでは、国際指名手配でもしない限り、俺も、おそらく警察も捕まえようがないが。
やれやれと俺が、内心溜息を吐くと。
「警察が恐らく、すぐにレオン・モーベールを容疑者として捜査を始めたからだと思います・・・新聞にも発表されましたが、現場近くにオーナーの血液を付着させた、モーベールの所持品が残されていましたから」
「鍵束のことか。で、モーベールは今どうしているんだ? 今日は、墓地は閉園か?」
「いいえ、鍵は役所にも保管されておりますから、おそらく朝早くそれを取りに行ったのでしょう。通常通り8時から開いています。といっても、墓地自体は一部地元民の生活道路となっている場所もありますから、24時間出入り自由ですけれど。鍵束は恐らく、休憩所や納骨堂、倉庫のものかと」
そういえば、『アスタルテ』へ宿泊した当夜、俺とミノリがシャントルーヴ墓地に入ったのは、深夜近い時間帯だった。
「生活道路にもなっているのか?」
アドルフが再度確認した。
「はい、もともとシャントルーヴ墓地と当ホテルは、それぞれが独立した敷地でありましたが、かつての都市化計画の際にドークル家がシャントルーヴ墓地の土地の権利を買い取りました。元々ホテルと墓地の間を通っていた道路もあったため、かつてはその道路も私道として墓地の開園時間外は封鎖していたようですが、住民の反対に遭いまして、以降は墓地の門が閉められることはなくなったようです・・・すいません、お客様ですので」
従業員はそう言って俺達に断ると、少し離れたところにイライラとした顔で立っているカップルの元へ行ってしまった。
俺達はホテルを出ると、シャントルーヴ墓地へ向かうため中庭を通ることにした。
漸く日が傾きかけた石畳には、良く見ると所々に赤茶けた染みが残っている。
事件当夜に倒れていたドークルのものであろう・・・ここで彼は息絶えたのであり、さらにその朝、ミノリが『バタイユ写真館』から近道をするために通ったのであろう場所だ。
ここから茂みの方へも細い小路が伸びており、道の両側にはラヴェンダーの群生が見え、さらにその奥へ行くと、例の池の畔へ出る筈だった。
ここでミノリが落とした写真の預かり証は、ドークルのブリーフケースに守られて、豪雨の難を逃れていた。
言いかえると、ドークルがブリーフケースを落とした時間には、まだあの雨が降っていないということになる。
ここで遭遇した、あるいはここへドークルを連れ込んだモーベールは、所持していた鉈で背後からドークルに斬りつけ、さらに跪いたところで頭部を押さえこんで仰向かせ、グルリと頸部の肉を切って殺害したのだろうか。
「なんだこれ・・・兎か」
ふとアドルフがしゃがみ込み、木の根元から何かを拾い上げる。
「兎だと? 絆創膏だろ、どう見ても」
俺のツッコミを無視してアドルフは、ガーゼ面に血の付着した絆創膏をしげしげと眺めている。
そして俺の足元へも視線を下ろすと。
「誰かがここで、貼り付けていた絆創膏を捨てたのか? お前の足元にも落ちているぞ」
言われて自分の足を見ると、さらに血に染まったような汚れた絆創膏を、俺は確かに踏んでいた。
「知るかよそんなこと・・・っていうか、お前よくそういうものを平気で拾うな。気持ち悪くないのか?」
俺が足を退けるなり、アドルフがそこへも手を伸ばした。
「無論気味は悪いが、ゴミを放置しておけば、美観を損ねる・・・こっちは何だかわからない・・・ああ、キリンか」
そういうと血に染まった絆創膏をもうひとつ拾い、それも暫く眺めている。
どうやら兎だのキリンだのというのは、絆創膏にプリントされた絵柄のことだったようだ。
キリンは患部から染み込んだ血液がガーゼを超えてテープにまで達していたらしく、よく見ないとわからない。
大方怪我をしていた子供が捨てて行ったのだろう。
アドルフはそれらを手に持ったまま、俺とともにシャントルーヴ墓地へ入った。
幸いにも入り口近くにゴミ箱を見つけることができて、そこへ捨てる。
「マナーの悪い宿泊客にも困ったものだな、要らないなら要らないで、ちゃんと然るべき場所へ捨てるべきだろう」
俺がそう言うと。
「もっともだが、要らなくなったのかどうかは、わからんだろう。必要だったが、何かの理由があって剥がれ落ちてしまっただけかもしれん」
「それはそうだが・・・しかし、それでも放置はよくない」
「そうだな。・・・今、何時だ?」
「8時過ぎだ。・・・いいかげん、ミノリがサバンナから戻っているかもしれんな。たしかあいつ、明日はパリで日本の出版社と約束している筈だが、何時か聞いているか?」
これからパリへ戻ったとしても、到着するのは明け方以降になるだろう。
「サバンナへ行ったかどうかは知らんが、約束の詳細について俺は何も聞いていない。・・・この時間に墓参り客というのも奇妙じゃあないか? ということは、彼女があの従業員が言うところの、生活道路としての利用者かもしれんな」
アドルフに注意を促されて、彼の視線を追ってみると、確かに中年の女性がリードで繋いだ犬を連れて歩いていた。
どう見ても墓参りの恰好ではない。
俺とアドルフは女の方へ近づいてみた。
途端に子犬が吠えだし、女が慌てる。



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