「ほら、静かにしなさいバロン! ごめんなさいね、この子男の人が苦手で」
「いや・・・悪い、俺達のせいで・・・っていうか、お前が原因じゃないのか?」
良く見るとバロンは、しきりにアドルフに向かって吠えていた。
「そうらしいな」
そう言うとアドルフは溜息を吐いて、犬から数歩下がった。
あるいはモンブランの飼い主であるアドルフから、猫の匂いを嗅ぎ当てたせいかもしれない。
バロンが落ち着いた頃を見計らって、俺は女に聞いてみる。
「ご近所の方ですか?」
「そうよ。あの坂の向こうに住んでいるの。旦那に先立たれてからだから、もう10年になるかしらねえ」
女が指さした坂の頂きには、傾きかけた日にキラキラとガラスが輝いているモザイク小屋と、その向こうには小さな林。
木立を越えたところに、5階建ての大きな建物が並んでいた。
アパルトマンだろう。
「毎日ここを散歩しているんですか?」
「そうよ・・・なあに? あんた達ひょっとして刑事かい? 言うべきことは、すでに警察に何度も証言したけど、あたしが散歩しているのは、シャントルーヴ公園から家までで、ホテルの庭なんて通ったりしてないし、それに不審者なんて言われても、ここはしょっちゅう、あんた達みたいに余所の人間やホテルの宿泊客が通るから、いちいち覚えてやしないわよ」
「いや、警察じゃない・・・それじゃあ、昨夜は何も変わったことはなかった? その・・・たとえばレオン・モーベールが鉈を持って歩いていたとか」
「刑事でもないんだったら、なんでそんなこと聞くんだい。レオンが鉈持って歩いてるのは、いつものことだろうに。あの子の作業道具に入ってるだろうさ。昨夜だって遅くまで仕事してたよ、雨具に長靴履いて、大きな作業袋を抱えてさ・・・可哀相に。帰って来たときにはもう1時過ぎだよ?」
「ひょっとしてモーベールも同じアパルトマン?」
「そうさ。といっても真向かいで一階下だから、うちからはよく見えるんだよ。この墓地のこともね。・・・もういいかい?」
そう言って女は犬を連れて、坂を登って行ってしまった。
俺とアドルフは反対歩行へ進む。
「どう思う?」
「バロンがお前を男と看做していなかったことか?」
「何の話だ・・・、まあいい。つまり昨日深夜遅くまでレオン・モーベールはどこかへ出かけていたということだろう。作業道具を持って出ていたということは、そこに凶器の鉈が入っていた可能性だってある」
女性の証言は、やはりレオン・モーベールがロジェ・ドークルを殺害した容疑を高めているように、俺には感じられた。
「さあな・・・俺にはそこまでの証拠が揃っていないように感じられるが、お前は結局何をしたくてここへ来たんだ? 真犯人を捕まえたいのか」
「そういうわけじゃないが・・・ただ、このままだとエリファが」
「しゃぶらせたら、情が移ったか?」
俺は息を飲みながらアドルフを見た。
「なんで・・・お前・・・まさか、あいつに聞いたのか?」
「当たりか・・・やれやれ」
「アド・・・っ!」
不意に口元を塞がれ、アドルフの顔が迫る。
「静かにしろ・・・」
次の瞬間顎を掴まれて、彼の口唇が降りて来た。
「・・・・・・・」
何の前触れもない、理由のわからない口付け。
しかし背後で砂利を踏みしめる足音が近づいてきて、途中でその歩行が止まった。
俺達の存在に気付いて足を止めたと、音だけでわかる気配だった。
当然だろう。
暮色の迫る墓地の通路で、男二人がキスをしていたら。
顔を見られる前に、空気を察して立ち去ってくれと願ってみても、その足音は中々そこから動こうとしなかった。
根を上げたのはアドルフの方だ。
俺から顔を放すと、背後に向かって彼は言った。
「まだそこで覗いているつもりか? 悪いが3Pは趣味じゃないんだ。他を当たってくれないか・・・といってもこんなところで、そう見つかるとも思えないが」
即座に俺は違うと否定したくなるような追い払い方だったが、ここはぐっと我慢だろう。
振り返ったりして、相手に俺の顔を見られてゲイの烙印を押されるよりはましだ。
まあこんなところで、誤解されても、俺の知っている顔がそうそうあるわけでなし、べつに気にする必要もないのだろうが。
だが相手の声を聞いた俺は、自分で自分に科した制止を自ら破らずにいられなかった。
「そういうわけにもいかないんだ・・・・とっくに閉園時間は過ぎている。だいいち、死者の魂が眠る場所で逢引とは、趣味が悪い。不謹慎じゃないか?」
「モーベール・・・」
思わず振り返ったその場所に立っていたのは、いつもの繫ぎを着て麻袋を提げたレオン・モーベールだった。
相手も俺を見て一瞬驚いたような顔を見せたが、その表情はすぐに軽蔑の眼差しに変わった。
「なるほど・・・見境なしか」
「何言って・・・違う、そうじゃなくて・・・」
よくよく考えてみればモーベールには、俺とエリファの行為を覗き見されていた。
そしてモーベールはエリファの恋人でもあるわけで、俺がアドルフとキスをしていたとなると、この反応は無理もないかもしれない。
しかし。
「別に門が閉まるわけでもないんだろう? だったら見逃してくれないか。御覧の通り、人目を忍ぶ仲なんで、どこでもかしこでもデートするってわけにはいかないんだ」
そういうとアドルフは再び俺の顎を捉え、口唇を塞いで来る。
上下の口唇を交互に啄ばまれ、舌先で口唇の合わせ目や歯列を舐められたが、俺はその侵入を頑として許さなかった。
そして一瞬苦笑するような吐息がアドルフから感じられたと思うと、次の瞬間には顎の関節を強く掴まれ、強引に開けた口の中へ舌を入れながら、深く口づけてきた。
「む・・・ん・・・ふんんっ・・・」
上顎を擽られ、歯列を舐められ、舌を絡められ・・・意識もしないのに、喘ぎが漏れてしまう。
深い口付けに頭がぼんやりとして、気が付けば俺は彼の首の後ろへ腕を回して、なされるがままに任せていた。
どのぐらいそうしていたのか。
長い口付けを終えた直後に、何かに気付いたように親指で口唇の端を擦られて、アドルフが身を放した。
「色っぽい顔をしているぞ」
俺も慌ててアドルフから身体を放す。
「やりすぎだろ、馬鹿野郎・・・えっと、モーベールは?」
「知らん。呆れて帰ったんじゃないのか? まあ、あれ以上眺めていたら、仲間に入りたいとしか思えんが」
「誰でも彼でも、自分と同じ基準で考えるな」
俺は頭を振って歩き始めた。
「違うぞそれは。俺はさっきも言ったが、3Pは趣味ではない」
「つまり、したことがあるんだな」
趣味ではないということは、やってみた結果、性に合わなかったということじゃないのか。
「なんだ気になるのか?」
「・・・てめえなあ」
俺は睨みつけようと、傍らのアドルフを振り返ったが、当の本人は数歩後ろで立ち止り、茂みの向こうを眺めていた。
いきりたっていた気力が身体から抜け落ちる。
「なあ・・・ひょっとしてお前は、あそこへ行こうとしていたんじゃないのか?」
10
欧州モノ:『La boheme, la boheme』シリーズへ戻る