「窓の格子は細く乾燥した木材だし、ガラスも相当に薄い・・・破ろうと思えばいくらでも破れそうなんだが」
暗い坂道が見えている窓ガラスを、人差し指の先でトントンと叩きながら俺は言う。
いかにも安っぽそうな反響が返ってきた。
部屋に置いてある椅子や机を叩きつけるまでもなく、拳一つでいくらでも壊して出て行けそうだった。
「では、やってみるか? 誰が飛んでくるかわからんし、昨夜の今日だ。まだ刑事もウロウロしているところだろう」
机に頬杖を突きながら、アドルフが言下に諦めろと促してくる。
俺は溜息を吐くと、彼の向かいのベンチを引いた。
俺も本気でそんなことが出来ると思っていたわけではない。
今夜はここで過ごすより仕方がないだろう。
「まったく、何をしにきたんだか」
ここで時間を無駄にしている間にも、エリファがモーベールに殺されるかもしれないというのに、間抜けぶりに我ながら腹が立つ。
無意識にジーンズのポケットをさぐり、煙草を忘れて来たことに気が付いて、思わず舌打ちした。
「苛々しても始まらんぞ、まあ落ち付け」
「ああ・・・悪い」
これではまるでアドルフに当たっているみたいだと気が付き、俺は素直に謝罪した。
確かに苛々したところで、少なくともここを脱出できるまでは何もできないのだ。
『アスタルテ』の従業員の話では、8時開園だと言っていたから、まだ10時間以上もある。
「・・・ってことは、このまま朝までここで過ごすことになるのか? 畜生・・・晩飯抜きだなこりゃ」
頭を抱え込むと。
「まあ、一晩ぐらい食わなくとも死にはせん。諦めるしかあるまい。・・・俺は昼飯も食ってなかったがな」
思わずアドルフをまじまじと見る。
「マジかよ・・・だって、俺がエリファを送っている間に、『スリーズ』のレストランで食っていたんじゃないのか?」
「あのレストランは午前中で営業終了だと言っただろ」
「いやだって、お前コーヒー飲んでたし」
「あれはフロントの従業員が気を利かせて持って来てくれたものだ。おそらく従業員休憩室用のものだろう。それに飲んでいたのは俺ではなくミノリだ。例の日本人の通訳を買って出てくれたから、お礼のつもりだったんだろう」
「わけのわからん調味料はなんだ。テーブルに置いてあったじゃないか」
「柚子唐辛子のことか。あれは日本人の私物だ。魔法のランプがないと騒いでいたから、鞄をちゃんと確かめろと言ったときに、中から出てきた」
日本人少年がらみの話は、聞けば聞くほど、頭が可笑しくなりそうだと判明した。
「もういい、わかった。・・・それにしてもミノリが心配しているんじゃないか。いちおうフロントへメモを預けて出てきたが、ちゃんと伝わっているかどうか。そもそもミノリはもう帰っているんだろうな・・・もしや、帰り道がわからなくなって・・・なんだ?」
見るとアドルフがクスクスと笑っていた。
その表情は可笑しそうというより、半分呆れているように感じられた。
「お前は肝心なことをいつも忘れているな。もう今更父親気どりをするなとは言わんが、ミノリはああ見えても10代の子供じゃないぞ」
「そんなこたあわかっている」
「だったら、過保護はその辺にしておけ」
「いや、だがあいつはあの通り、中身も見た目通りのガキで、いつもわけのわからんことを言って突っ走るし、さっきだって象を買いに行くとか言いだして・・・」
「象というのはミノリ流の記号見たいなもので、本人の頭のなかではちゃんとガネーシャだと認識されている筈だ。シャントルーヴ駅を挟んだ反対側の通りに、インド人が経営している雑貨屋があるらしい。ミノリはきっとそこへ行ったんだと思うぞ。そこでガネーシャの置物か何かを買ってくるつもりだったんだろう。・・・もっともそれが本当に吸血鬼退治に有効かどうかまでは俺も知らんがな」
「まあ、効かんだろうし・・・そもそも吸血鬼が魔法のランプを盗んだという前提からして俺には理解できんが。なんにしろ、それじゃあ取り敢えず、当て所もなく飛び出したわけではなかったんだな」
それだけ聞いて、一先ず安心をした。
「例の日本人を安心させるためだったんだろう、きっと。やたらあのホテルの従業員達が、吸血鬼、吸血鬼と騒ぐものだからすっかり怖がっていた。ガネーシャはその魔法のランプとやらに入っていたお守りらしくて、それを聞いた従業員達が、ガネーシャが吸血鬼を追い払ってくれると理解をし、ミノリがガネーシャを買いに行ったというわけだ」
「途中からまたわからなくなった・・・なぜガネーシャが吸血鬼を退治することになるんだ」
「まあ、その辺の曲解は仕方がないだろう。何しろ日本語、英語、フランス語が入り乱れての会話だったからな。・・・とにかく俺に言わせれば、事件とはほぼ関わりなく、安全な場所にいるミノリよりも、自ら現場へ乗り込み、殺人犯に近づこうとしているお前のほうが、放ってはおけない」
不意にアドルフと目が合い、俺は慌てて視線を逸らすと、もう一度窓際へ戻った。
よく見ると、窓の施錠は2重ロックになっていて、門にあるような上から下ろすタイプの錠に、しっかりと南京錠が掛けられている。
これでは、鍵を持っているモーベール以外に、ここを開けることは出来まい。
仮に扉が無理でも、あるいは窓であれば、気まぐれな深夜の散歩者に声をかけて、開けてもらうこともできるのではないかと望みを抱いたが、もう朝まで観念するしかあるまい。
そして今更ながら、窓枠に張り巡らされたガラスモザイクに気付く。
色とりどりの硝子の破片は、明るい月光を受けて眩しい程にキラキラと輝いていた。
「凄いな・・・実はこの小屋って、こういった月の明るい夜が、もっとも美しいんじゃないか・・・っ、アドルフ!?」
「確かに、このシャントルーヴ・ガラスの輝きは素晴らしいが・・・逃げ口上には乗らないぞ」
耳元で低く囁かれ、俺は首を竦める。
だが、逃がすものかと耳へ口づけられた。
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