「随分と可愛らしい絆創膏ですね。子供が多いんですか?」
俺は中指の関節に巻かれた、兎の絆創膏をしげしげと眺めながらドクターへ感想を述べる。
いつのまにかどこかで擦っていたらしく、放っておけば夕方には治っていそうな掠り傷だったが、患部を見るなりドクターは「炎症してますね」と言って、丁寧に消毒をして、仕上げに動物絆創膏を巻いてくれたのだ。
そしてドクターは薬品棚の中から、市販ののど飴を取り出すと、俺にもひとつわけてくれる。
「よかったらどうぞ。・・・いえ、私の趣味なんです。こう言う物に囲まれていると、ちょっと楽しい気分になるでしょう? もちろん子供に出してあげると、喜ばれるのは確かですが・・・よければあなたもどうですか?」
そう言って彼は俺にくれた薬草入りののど飴を、アドルフにもひとつ勧めたが、無言で首を振って断られていた。
アドルフはあまり甘い物を好まない。
俺はメジャーな菓子メーカーのロゴをプリントされた包みを解き、水色のキャンディーを口へ放り込んだ。
薬草独特のきつい香りと、レモンの酸味が口に広がる。
「こういうものまで揃えているんですね。喉が痛かったので助かりました・・・。それにしても、大きなホテルでもないのに医務室は珍しいですよね。常駐されているんですか?」
「キャンディーはただの気分転換ですよ。もちろん、喉が痛いという患者さんや従業員の方に頼まれれば分けて差し上げますけれど、処方するときは当然トローチです。・・・そちらの方がよければ出しますよ」
「ああ、いえ・・・それほどではないので、これで充分です」
「そうですか。・・・日頃はシャントルーヴ病院に勤務しているんですよ。ここへは私を含む3名の医師が日替わりで来ておりまして、一応24時間誰かがいるようにはなっております。どうしても空いてしまうときにはフロントから直接非番の医師へ連絡が入り、すぐに駆け付ける決まりです」
シャントルーヴ病院とは、ドークルから聞いた都市化開発の際に作られたという大きな病院のことだろう。
彼はそこのドクターということだ。
「大ホテルでもないのに、素晴らしい体制ですね。それはやはり、ドークル氏が村の権力者だからですか?」
アドルフが皮肉った。
「そういう側面もなくはないですが、寧ろ逆というか・・・当時、私はまだ子供でパリに住んでおりましたから、よくは存じ上げないのですが、その昔シャントルーヴにはちゃんとした医療施設がなかった時代、このホテルの医務室が救急医療の役割を担っていたのだそうです。もちろん手術が必要な病気や大怪我には対応できませんが、それでも村の人々はひとまずホテルへやってくれば常駐ドクターに診てもらえ、そこから大きな病院へ搬送してもらうこともできたわけです。そういう意味では、このホテルの存在意義は、今とは比べ物にならないほど、大きなものだったことでしょう。もちろん今は最新の医療設備を揃えるシャントルーヴ病院がありますから、住民の皆さんのみならず、宿泊中のお客様にも、より安心して頂けているとは存じますが。いずれにしろ、村にとってはシャントルーヴ病院よりも、ここの医務室のほうがよほど馴染み深い筈で、勤務していて信頼を置いて頂いている実感もございます」
「ということは、ここの利用者は従業員や宿泊客だけではなく、一般住民も来ると言う事?」
俺が聞くと。
「ええ。外来の診療時間中は、定期的に見えられる患者さんも少なくないですよ・・・といっても、シャントルーヴ病院ほどではございませんが。夜間も飛び込んで来られる方が、ときどきおられます」
「基本的には、ここの医務室には誰かいるんですよね・・・たとえば、一昨日の深夜12時前後はいかがですか?」
アドルフが質問すると、ドクターの表情が一瞬引き攣ったように見えた。
なるほど。
夜勤ドクターがいたとすれば、何かに気付いているかもしれないが、こういうことは恐らくさんざん刑事に確認されたあとだろう。
警戒されて当然だ。
「土曜から日曜にかけて・・・ですね。私がおりましたよ」
意外なことに、あっさりとドクターは白状した。
「その晩、誰かにこの動物絆創膏を出されたんじゃないですか?」
「アドルフ、お前何を・・・」
言いかけて、漸く合点がいく。
あの中庭には、血に染まったこの動物絆創膏が落ちていた。
正確には、恐らくもっと沢山落ちていて、既に警察の鑑識が拾って行った後だったのだろうが、恐らくやや離れた場所に落ちていたか、あるいは木の根の陰に落ちていて気付かなかった物が、昨日アドルフが拾った兎とキリンの絆創膏ということだ。
もちろん、事件とは無関係かもしれないが、少なくともドークルが巻いていた可能性はあるのだ。
ドークルの遺体には、致命傷となった首や肩の裂傷の他に、沢山の咬み傷があったという。
もしもその咬み傷が先に負ったものだとしたら、ドークルは当然、ホテルの医務室へ向かうだろう。
「はい、土曜の11時半過ぎにオーナーを処置いたしました。その際、確かに私はこの動物絆創膏をお出ししましたよ。なんでしたらカルテを確認して、詳しい診療内容をご説明いたしますが・・・」
立ち上がろうとしたドクターを俺は慌てて止めた。
「いや、それは結構です・・・・その、すいません。不躾ついでによければお伺いしたいのですが、村の人々はみんな、ドークルさんが、吸血鬼に襲われたと言っています。その・・・診られた傷についてですが・・・」
俺が言い終わる前に、ドクターは声を立てて笑った。
「・・・失礼。確かにこの村には古くから吸血鬼伝説がありますが、申し訳ありませんが医者の立場でそういう迷信話に同調するわけにはいきませんので。あれは、オーナーが飼っている犬ですよ」
「犬って・・・その、確かモーベールの・・・いや、モーベールさんの御母上が面倒見られているっていう・・・」
「随分色々とご存じのようですね・・・なぜ事件を探っておられるのか、気になるところではありますが、いいでしょう。いくらでも教えてさしあげますよ。こちらに、疚しい点があるとは思えませんので。・・・一昨晩の11時半ごろ、階段で足を挫かれたという患者さんを処置していたときのことでした。外から突然犬の声が聞こえましてね。続いて犬の名前を呼んで叱っているレオン君の声が聞こえ、11時40分頃に二人揃って医務室へ現れました」
「二人・・・レオン・モーベールもここへやって来たということですか?」
「はい。オーナーは勿論傷の処置のため。レオン君はその付き添いですよ。恐らく新聞を読んでご存じとは思いますが、オーナーは肩や膝、腕や足首などを咬まれていて、出血も多い状態でしたので、私はすぐに処置へ取りかかりました。小さな傷にはこの絆創膏を張りましたが、もちろん傷の深い場所は止血して包帯を巻いてあります。警察の方は当然ご存じでしょう。レオン君も怪我をしていましたから、あとから処置をするつもりで待っているようにと言ったのですが、仕事が残っているからと、すぐに出て行ってしまいました」
「もしや、それはモザイク小屋のこと?」
アドルフが尋ねる。
「ええ。木曜の晩に嵐があったとき、雨漏りが発覚して、利用者の方から修繕を頼まれていたらしいんですよ。材料を買い揃えたりしていて、すぐにはできなかったらしいのですが、土曜の天気予報で、夜半過ぎに崩れることがわかっていたので、これから取りかからないといけないと言っていました。残念ながら間もなく激しい雨が降っていましたから、作業に間に合ったかどうかはわかりませんけれどね」
「じゃあドークルは・・・失礼、ドークル氏はいつここを・・・」
11時半に犬に襲われ、11時40分にモーベールとともに医務室へ連れて来られ、その足でモーベールはモザイク小屋へ行った。
そこから1時間あまりあとの深夜1時ごろには、バロンの飼い主に、雨具を着て作業具を抱えて帰宅しているところを見られているということは、作業中に一旦中断して雨装備をして出直したか、あるいは雲行きの怪しさに気付いて医務室からそのまま帰宅し、雨具を着こんで墓地へ向かったということだろう。
一方ドークルはここで処置をしてから雨が降りだすまでの間に、中庭へ場所を移して殺害されている。
雨が降り始めたのは、深夜零時頃・・・・20分後だ。
「処置を終えたのが11時50分ぐらいですから、そのあたりですね。20歳ぐらいの綺麗な男の子が医務室に現れて、一緒に出て行かれました」
俺はアドルフと顔を見合わせた。
「そのときドークルは、ブリーフケースを持っていましたか?」
そうだ、ブリーフケース!
犬に襲われたなら、そのときに取り落としたという可能性もある。
だとすれば、殺人事件とは無関係だ。
「もちろんですよ。オーナーがあのブリーフケースを所持されていない姿を、私は見たことがありませんから。あれは先代オーナーからオーナーが成人したときにプレゼントされたものらしく、ケースの中にお名前が入っているんですよ。あるときそのベッドで点滴を打たれている最中に、お仕事の書類をご覧になっていたので、注意してさしあげようと近づきましたら、鞄の中に綺麗な女性の写真が見えたんです。どなたか伺いますと、亡くなられたお母様だと仰られていました。そういえば理知的な印象の目元や品のある美しい口元などが、オーナーとよく似ていらっしゃいまして・・・とにかく、お鞄はいつも肌身離さず持たれていましたから、一昨晩の処置中も、そちらの籠にちゃんと置かれていました。オーナーにとっては、とても大事なものだったんですよ」
両親との思い出が詰まっている鞄・・・カレの話では、母親を顧みない父のテオドールをドークルは恨んでいるだろうと言っていたが、それでもドークルにとっては実の親であるるだけでなく、ホテル業の師もある。
それなりの思いはあるだろう。
あるいは、肌身離さず持っていたかったのは、鞄というよりも早くに亡くなってしまった、愛しい母の写真だったのかもしれない。
いずれにしても、大事なブリーフケースを持って現れたドークルが、中庭でそれを落とし、深夜の雨が降り注いだ・・・・。
その間モーベールはモザイク小屋を修繕しており、ドークルと一緒にいたのは・・・。
「エリファだ・・・」
「オーナーもそう呼んでおられました」
思わず口にしたその名前を、ドクターは肯定した。

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