モーベールの母親・・・イヤサント・モーベール。
かつて自分達一家を生活苦へおいやったテオドール・ドークルから、愛人関係を迫られていたという、あの女性のことだ。
「たしか居辛くなって一旦ホテルの仕事を辞めたあと、また戻っていたんだよな」
昨日交わした植木屋との会話を思い出して口にしつつ、俺は考える。
あれだけの仕打ちをさせられて、復職しているというのは不思議なことだ。
「まあ、自分に手を出したテオドールはとっくに死んでいるし・・・何より、息子と二人食っていかなきゃならんだろ」
アドルフが彼なりの憶測を返してくれる。
確かに、代替わりしたというのは大きいだろう。
ロジェ・ドークルは、テオドールほど人々の評判が悪くはない。
それにしても、自殺というのは驚きの訴えだ。
自分が接したロジェ・ドークルの会話や表情に、イヤサントが言うような、思いつめた素振りが果たしてあっただろうかと記憶を辿るが、とくに思い当たらない。
「奥さん、息子さんを庇いたいお気持ちはよくわかりますが、冷静になってください。場合によっては、我々はあなたまでも拘束せざるを得なくなってしまいます。それにロジェ・ドークルの遺体からは、アルコールは検出されておりません」
年配の刑事が、穏やかな口調でイヤサントを宥めた。
だが、アルコールは否定しても睡眠薬を否定しなかったことに俺はひかかった。
「ってことは、睡眠薬の話は本当ってことか」
「ロジェ・ドークルはオーナーといっても支配人であり、フロントにも立っていたからな。少ない人数できりもりしているわけだから、眠れるときに眠ろうとすると、そういうものに頼らざるを得なくなるんじゃないのか」
俺の疑問にアドルフが妥当な答えを返した。
もちろん睡眠薬の大量服用による自殺でないことは、遺体発見時の状況で明白であり、イヤサント・モーベールの証言が荒唐無稽であることは、考えるまでもない。
刑事達がレオン・モーベールを重要参考人、あるいは容疑者として逮捕、連行することも理解できなくはない。
だが、そうではない可能性に俺は気が付いており、何よりレオン・モーベール本人が一番わかっている筈なのに・・・。
「退きなさい」
若い刑事がやや乱暴に手を出すと、イヤサント・モーベールはよろめくように身を傾いでペタリと床に座り込んでしまった。
「酷い・・・」
彼女の同僚らしき、同じ制服を着た若い女性が、苦々しい表情で呟くが、従業員の立場でこれ以上公務執行中の刑事の邪魔をするわけにはいかないのだろう。
モップを握りしめ、自分を抑えるようにその場へ立ち尽くすだけだった。
刑事達はレオン・モーベールを連行しながら、ロビーを後にしようとする。
モーベールは相変わらず黙したままだった。
「待ってくれ・・・!」
「あ、おい・・・ピエール」
気がついたら刑事の腕を掴んでいた。
「何ですか、あなたは・・・。公務執行妨害、7時52分警告!」
自分の立場も弁えず、ぼったくりタクシードライバーの分際で、刑事から警告を食らってしまった。
言うことを聞かなければ前も逮捕するぞという脅しである。
冷たそうな若い刑事の小さな瞳が、俺を見下ろすように捕えていた。
最近の若者は身長ばかりでかくなりやがって、いまいましい。
見たところ無表情だが、腹の中では公権力を振りかざすことに快感を覚えている、税金食らいの碌でなしだろう。
「いや・・・その。話が・・・」
心の中でさんざん罵りつつ、しかし俺の声は小さかった。
警察は怖いのだから仕方がない。
「ほう・・・あなたは?」
年配の刑事が穏やかな口調で聞いてくれる。
声は穏やかだったが、所詮刑事だ。
こちらもよく見ると、柔和に見える顔の中で、抜け目のない目付きがじろじろと俺を探っていた。
「馬鹿め・・・」
後ろからアドルフの毒づく声が聞こえる。
「お客さんです」
俺の代わりにモーベールが返事をした。
「ここの? 宿泊客の方が・・・どういうことですかな。モーベール氏と何か御関係が? あなたはどちらにお住まいで? お名前とご職業は?」
年配の刑事が畳みかけるように質問した。
藪蛇とは正しくこのことである。
あっというまに、俺は警察の職務質問を受けていた。
「その・・・パリから来ました。えっと、名前はラスネールで、その仕事は、えっと・・・」
やむなく応えかけたものの、俺が部分的に言葉を濁して困っていると、意外な人物が助け舟を出してきた。
「恋敵ですよ。俺はこいつに恋人を寝とられました」
とんでもない海賊船だった。
「はぁ!?」
モーベールの発言に俺は耳を疑った。
もちろんエリファの話だろうが、人が助けてやろうとしているときに、どういう神経をしているのか計り知れない。
「ほう・・・では、あなたとモーベールさんは三角関係にあって・・・そのあなたが、一体どんな証言をなさりたいのでしょう。・・・あまり私情を交えられると困りますが」
「そんなんじゃねえ・・・。あのなあ・・・お前は完全に誤解しているようだが、俺とエリファは何でもなくて、あのときはたまたま・・・」
「あんたは好きでも何でもない少年相手に、ペニスをしゃぶらせる趣味があるのか?」
「ちょっ・・・お前な・・・」
俺が焦ってモーベールを睨みつけるが、当の本人は無表情に俺を見ているだけだった。
「いやはや何とも」
「まったく・・・」
年配の刑事は困ったように言葉を濁し、若い刑事は呆れたと言いたげに溜息を吐いていた。
「自業自得だな」
背後からはアドルフが、冷たい言葉を投げて来たが、それ以上の会話へ入る様子はなさそうだ。
ここはひとつ、第三者を決め込むつもりらしい。
昨夜こそアドルフにほだされて身を任せはしたものの、俺達の関係は所詮悪友の域を出ないということだ。
利害の一致がなければ深入りはない。
よって、ここで俺に加勢する気はなさそうだった。
やはり信用ならない男だ。
ミノリもいつまでもあの男の傍にいては、いずれ酷い目に遭うといつも言っているのに・・・。
俺があれこれ、頭の中で思いを巡らしていると。
「それはピエールにとって、謂れのない非難だよ・・・ねえ?」
人垣の向こうから、年齢にしては高めの少年の声が、俺の名を呼んで会話に入ってきた。
「おい、こら・・・おまえ」
少年は俺の傍に来ると隣で腕を絡め、下から覗きこんでくる。
夢みがちな翡翠色の瞳が、俺をまっすぐに映しだした。
「エリファ、何をしている・・・さっさと帰れ」
モーベールが緊張感を漲らせた口調で、少年を叱る。
その瞬間、俺の中で全ての疑問が溶解していく思いだった。

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