「母さん・・・」
モーベールは漆黒の瞳を丸く見せながら、まだ跪いたままの母親を振り返った。
考えてみれば、犬たちの世話をしていたのは彼女なのだから、もっとも彼らが言う事を聞く相手がイヤサントであるのは当然だった。
「それはまたどうして」
年配の刑事が問う。
「犬小屋の掃除をしておりますと、茂みの向こうからドークルさんと息子が、激しく言い争う声が聞こえてまいりました。その口論が収まりそうにないと感じられましたから、このままでは息子がまた・・・今までも私たちはドークルさんに苦しめられてまいりましたのに、また理不尽な仕打ちを受けると思うと怖くて・・・夫のように息子が職を失うようなことがあれば、もうこの村で生きてはいけませんから、だから・・・」
「だから口論に水を差すつもりで犬を嗾けたと」
「はい。・・・犬たちは息子にも懐いておりますから、襲われるのはドークルさんだけとわかっておりましたし、それで口論が収まればよいと・・・なのに・・・。申し訳ございません。この子は本当に優しい子なんです。今のお話ですと、やはりエリファさんを庇う為に間に入ったようですし、悪気はなかったんだと思います。悪いのはドークル家です。彼らを恨みに思っているのは、私たちだけではございません・・・聞いてみてください、きっとここの人たちだって・・・」
「マダム落ち着いてください、あなたのお話はよくわかりましたから・・・」
年配の刑事はモーベールから離れると、再び興奮し始めたイヤサント・モーベールを宥め、抱き起こした。
哀れな夫人の半生を思えば、ドークル親子・・・とりわけテオドール・ドークルへの恨みは計り知れないことだろう。
あるいはドークルをもっとも殺したかった人物は、彼女なのかもしれなかったが、そこまでの勇気もエネルギーもこの女性にはもはや残っていなかったのだろう。
あるいは穏やかなロジェ・ドークルに対しては、それほどの憎しみもないのだろうと思ったが、今の話ではそうでもないようだった。
息子同士の関係性も、良好とは言い辛いようなので、その辺りに原因があるのかもしれない。
「そうか・・・あの犬たちは小母さんが飛びこませたんだね・・・吃驚したよ。たしかにあれでロジェとレオンは喧嘩を中断させたけれど、あのときレオンはロジェを庇おうとしたんだよ。右手の怪我はそれが原因だよね・・・引っ掻かれたのかな。そのときまで絆創膏貼ってなかったもの」
言われてモーベールの小指の下を見ると、たしかに肌色の絆創膏を二つ貼っていた。
ドークルを医務室へ連れて行き、そのまま帰って行ったというから、帰宅後に自分で処置したのだろう。
例の動物絆創膏ではないから目立たず、今まで気付かなかった。
「レオンがドークルさんを・・・?」
今の証言は母親には複雑だろう。
自分が嗾けた犬から、憎いドークルを息子が庇っていたのだ。
大事には至らずとも怪我をさせているし、何よりもそのときに庇った相手を彼が殺したとは考えにくい。
「私からもご説明さしあげましょうか」
背後から聞き覚えのある声が入ってくる。
医務室のドクターだ。
引き続きドクターは事件当夜にロジェ・ドークルを伴って現れたレオン・モーベールが、彼を置いて仕事へ戻ったこと。
その後エリファが現れて、二人で退室したことを簡単に説明した。
「ということは・・・つまり、君がドークル氏を殺したのかね?」
「違うっ、俺が殺した・・・。エリファは何もしていない!」
エリファを尋問する年配の刑事へ、飛びかからんばかりにレオン・モーベールが反論する。
そのモーベールを、ロリコンでラブドールオーナーである若い刑事が、つまらなさそうに拘束している。
未来以外をその腕に抱き締めることは、彼の本望ではないのだろう。
「もういいよ、レオン・・・ありがとう。はい、僕が兄を殺害しました。医務室から兄を連れ出し、リラの木の陰に隠しておいたレオンの鉈で、後ろから切りつけ、跪いたところでロジェの顎を持って首筋に沿って切りました」
「本当かね?」
「はい。・・・レオンは僕に黙っているように言ってくれたんです。この村の人たちはなんでも吸血鬼伝説に結び付けるから、黙っていればわからないって。実際にそのためにレオンは色々と工作してくれたんですよ。僕がバラバラにした人形を、庭から目立つゴミ集積場へ移動させたり、割れた鏡を置いてくれたり・・・」
「鏡・・・そんなものが落ちていたんですか?」
「そうですよ。もちろん押収しましたけどね」
誰へともなく俺が尋ねると、退屈そうな若い刑事が返事をしてくれた。
「吸血鬼は鏡に映らないってやつか・・・バラバラの人形といい、確かに怪奇性は煽るな」
アドルフが頷く。
だが、鏡が割れていたのなら、現場にはガラスの破片が散らばっていても可笑しくはないのに、昨日現場を見た限りそんな様子はなかった。
「鏡は破片ひとつ残らず回収しているのに、絆創膏は見つけられなかったのか?」
あるいは風が吹いて、別のところから絆創膏は飛んできたものだったのか。
「絆創膏? ああ、動物が描いてある、あの子供みたいなテープですか。見付けるもなにも、それならドークルさんの遺体に巻かれていましたけど、たぶん犬に咬まれた場所に貼られていたものですよね。傷の深い場所には包帯も巻かれていました」
若い刑事が、引き続き応える。
「いや、地面にも落ちていただろう? 俺は木の根っこあたりで兎とゾウの絆創膏を見つけたぞ」
「はあ? ちょっと・・・警察の鑑識を何だと思っているんですか。髪の毛一本残していくわけがないでしょう。それに絆創膏はリスとカバですよ。どう見たって兎やゾウじゃない。目、可笑しいんじゃないですか?」
「いや、そんなこと言ったってだなあ、現実に俺は・・・」
馬鹿にしきった口調に殴りかかりたい気持ちを堪えつつ、童貞ドーリスト野郎に反論しようとすると。
「あの・・・確かにリスとカバもありますよ。そしてオーナーに巻いてさし上げたのは、そちらの方だったと思います・・・詳しいことはカルテを見ないとはっきりいたしませんが」
「カルテって・・・」
この医者は患者の診療記録に、絆創膏の絵柄まで描きこんでいるらしかった。
「考えてみりゃあ当たり前のことだな・・・警察がそんなものを見落とす筈がない」
刑事の話にアドルフも納得していた。
ということは、あの絆創膏は事件と無関係ということだ。
「しかし、・・・そうなるとあの鍵束は? あれはシャントルーヴ墓地のもので、君が管理しているはずだよね。ところが鍵からはドークル氏の血液と指紋が検出されている」
年配の刑事に質問されると、観念したようにレオン・モーベールが口を開いた。
「オーナーを残して医務室から出た俺は、一旦家へ帰り雨具を着て墓地へ向かいました。休憩所の修繕を済ませ、旧納骨堂へ行ってみるとまだエリファが帰っておらず・・・嫌な予感がして、再びホテルへ向かいました。すると通用口から出てくるエリファと出会い、その手には作業用の鉈が、血まみれの状態で握られていたのです。俺は彼を納骨堂へ送り届け、鉈を倉庫へ戻した後で鍵を掛けると、中庭へ戻りオーナーの手に鍵束を握らせてからレストランの入り口に置いたのです」
「なるほど・・・その倉庫の扉を我々警察署員が破って、わざわざ君が用意した工作にまんまと嵌められ、君が犯人だと思いこんだわけか。鍵をレストランの入り口という、遺体から少し離れた場所に残したのはなぜ?」
「当分雨がやみそうになかったし、・・・せっかくオーナーの手に握らせた血の跡が、流れてしまったら意味はないですから」
「まあ、その場合でも君を疑うだろうけどね・・・指紋は残るから。だが、たしかにインパクトには欠ける。鏡は?」
「あれも倉庫にあったものです。墓地には色々な物が残されていきます・・・お供えに使った花瓶や皿、故人の私物だったライター、あるいは好んで吸っていた煙草・・・それ以外にも参拝された方が落とされた所持品などもあります。いちおう一定期間は保管して、もしも尋ねられたらお返しするようにはしているのですが、いつまでも保管はできません。割れた花瓶やグラス、皿などは置いておくのも危ないですし、そういったものを再利用して墓地の休憩所を作ったのが俺の父、ギヨーム・モーベールです」
「あの休憩所のことか・・・たしかにあれは見事だね」
「はい・・・有難いことに今では観光客が訪れるまでの、名所にもなっております。・・・鏡は、そういった参拝者の忘れ物か、あるいは故人の遺品として残されていた物が、割れた状態でいつまでも放置されておりましたので、申し訳ないですが撤去させていただいたのです。もう5年前の話ですが」
「5年も前なら、再利用したとしても、誰もあなたを咎める人はおらんでしょう・・・我々を除いて」
年配刑事は立場上、モーベールに釘を指した。
「つまり、最初から鏡は割れていたのか」
「そういうことです」
俺が言うとモーベールは肯定した。
「ともかく、二度と警察を欺くような真似はせんで頂きたい。この度は村の人々に親しまれているシャントルーヴ墓地を、お父上の意志を引き継ぎ誠意を持って管理されておる、あなたのお立場と人柄に免じて見逃しますが、今後同じような事をされれば、容赦はいたしませんぞ」
「申し訳ございません」
モーベールが素直に謝罪すると、年配刑事はロリコンの若造に命じて拘束を解かせた。
「ありがとうございます、ありがとうございます・・・本当に、馬鹿な子!」
大きなレオンにイヤサントは縋りつき、大切そうにその身体を抱き締める。
年配刑事はエリファに顔を向けると。
「エリファ・ジョアネ、ロジェ・ドークル殺害容疑で逮捕する」
そう言って今度は、若い刑事へエリファに手錠をかけさせた。
エリファは素直に拘束され、背の高い刑事達と連れだってホテルから出て行ってしまう。
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