Epilogue 1

「ほう、これが例の観光本か」
テーブルから3体の巨人を描いたデッサン画が表紙絵になっている本を取り上げ、つるりとしたカバーを眺める。
日本の出版社から昨日刊行されたばかりということで、ひたすら日本語が並んでいるため、残念ながらまったく読めないが、ミノリによると、『フランスの秘密の庭』というようなタイトルがついているそうだった。
「150フランらしいぞ、よかったらお前も一冊買ってやれ」
「高いな・・・! 日本人はなぜそんなに金持ちなんだ? それともインフレか?」
ただのガイドブック程度に考えていた俺は、思わず本を取り落としそうになり慌てた。
うっかりコーヒーの上へ落としたりすれば、弁償を求められそうな気がした。
手持ちで買えない値段というわけではないが、観光案内本へ出すにしては高額だろう。
どちらかというと写真集のような感覚なのかもしれないが、中身はやはり写真やイラストよりも文字が多い。
「別に買わなくてもいいって、うちに10冊ぐらいあるからあげるよ。そう思って持ってきたのに、オーナーったらもう手にしてるんだもん、呆れたよ」
そう言いながらミノリが鞄から本を一冊出して、俺に渡してくれた。
「いいのか? 悪いな・・・っていうか、じゃあこれは?」
「俺の本だ。丁重に扱え」
どうやらアドルフが自分で購入した本らしかった。
「そうなのかよ・・・日頃は俺を親馬鹿だのなんだのとからかっているが、お前も大概だな。いや、いいよミノリ。俺も自分で買うからさ。その方が売り上げに貢献するだろう? で、これはどこで買えるんだ? 日本語の本だが、大きい書店に行けば売ってるか? それとも取り寄せになるかな・・・」
「俺は出版社に勤務する客から好意で貰ったんだけどな」
「買ってねえのかよ、っていうかお前絶対その客を脅して持って来させただろう!?」
「べつにそんなことはしていないが、三か月前にうちのスタッフから緊縛されたと報告があったので、会社に電話をしてそれは困ると注意すると、その足で持って来てくれた。ついでに『ゲルニカ』まで注文して行ってくれたんだ。ミノリ、また忙しくなるぞ」
「要するに脅したんだな。それも会社に電話したのか、いくらなんでも反則だろう。しかも3か月前の報告をネタに強請るとか、性質悪すぎるぞ」
悪質な取り立て屋よりも、性癖という最大のセンシティヴ情報を振り翳す分だけ罪が深い。
「だから、買わなくていいってば。あたしの部屋に10冊あってもしかたがないんだから」
「親御さんとか友達に送ってやればいいだろうが」
「10人もいないよ、だから貰ってよ」
結局ミノリに本を押し付けられてしまった。
中身をパラパラと捲ると、見覚えのあるデッサンが次々と出て来る。
その中の1枚で手をとめた。
「お前、あのモザイク小屋も描いたのか?」
1枚だけカラフルな色鉛筆で描かれていたそれは、紛れもなく、シャントルーヴ墓地にあるモザイク小屋だった。
「ああ、それは担当さんに渡したデッサンに、間違えて入ってたんだ。あたしもびっくりだよ・・・ほら、なぜかシュヴァルのところに挿入されているでしょう? 誤解招いちゃうよね、いいのかな・・・」
言われて前後を見てみると、確かにミノリが描いたシュヴァルの理想宮のデッサンが数ページ続いている。
字が読めないため何とも言いにくいが、おそらく本人が言う通り、シュヴァルの理想宮が紹介されているページに入ってしまっているのだろう。
「まあ、いいんじゃないのか? オートリーヴからはそう離れていないんだし、この絵は何だと思って調べる人が出てくれば、シャントルーヴ村の良い宣伝にもなるだろう。あれは一見の価値があるしな」
「そんないい加減な・・・まあ、あたしは頼まれた絵を渡しただけだし、そこまで責任ないよね。これは出版社が悪い」
そう言ってうんうんとミノリは頷くと、不意に後ろを向いて走って行ってしまった。
その先には部屋へ入ってこようとしていたモンブランが、片足を上げたまま凍りついており、間もなくミノリに抱きあげられてしまった。




あれから俺達はまもなくシャントルーヴを離れ、再び5時間かけてパリへ戻った。
昼過ぎにモンマルトルへ到着したミノリは、その足で出版社の担当者と約束しているというレストランへ向かい、デッサン画を無事に引き渡したそうだ。
約束を1時間過ぎても現れないミノリを諦め、その担当者はまさに日本へ帰ろうとしていた矢先だったらしい。
俺とアドルフが『スリーズ』へ戻ったのは午前9時過ぎ。
ロビーに座って俺達を待っていたミノリは、例の日本人の少年と一緒だった。
少年の手にはミノリが買ってきたらしい象の置物が握られている。
会話内容はわからないが、その後随分と意気投合したらしく、なんとなくミノリにも春の予感のようなものを感じて、俺は少し寂しく感じていた。
飛行機の時間があるという少年が、間もなく俺とアドルフへ丁寧に挨拶をしてから出て行ったが、そのときの会話が英語だったため、俺にはよくわからなかった。
ただ、日本ではなくパリへ戻ったらしいことは、間もなく判明したのだ。
なんでもミノリによると、景気の低迷が続く日本は現在就職氷河期と言われており、少年は今、パリにあるインド雑貨屋でアルバイトをしているらしい・・・パリでインド雑貨屋といえば、パッサージュ・ブラディあたりに沢山並んでいるが、あるいは俺の御近所さんかもしれないと思った。
だとすれば、最初に会ったときの少年の反応もわからなくはない。
しかし近所に東洋人がいれば、さすがに覚えているような気がするのだが・・・。
ちなみに消えた魔法のランプとやらは、手癖の悪い従業員のロッカーから出て来たらしかった。
けしからん話である。
それにしても魔法のランプ・・・俺はそれこそ、パッサージュ・ブラディにある怪しい雑貨屋で、異様な恰好をした店員から、そう称する物を売りつけられそうになった経験がある。
パッサージュ・ブラディのインド雑貨屋に入った俺は、店で妙なお茶を飲まされそうになり、偶然通りすがったアドルフから危ないところで救出された。
あの魔法のランプとは、傍に置いてあるだけで大変御利益があるものだったのかもしれない・・・だとすれば、結構吸血鬼あたりも退治してくれるのだろうか。
だからといって、買う気はないのだが。
この少年が拘る魔法のランプとやらも、あるいはその店で買ったものなのかもしれない・・・いや、確かにアドルフがそんな話をしていた記憶がある。
「何を笑っている」
不意にアドルフに聞かれ、俺は何でもないと答えた。
気がつくとミノリがいなくなっている。
モンブランは置いて行ったようだ。
「ミノリはどこへ行ったんだ?」
「例の少年と会うらしい・・・テッペイとか言ったかな」
アドルフが相手の名前を教えてくれた。
「おい、もうそんな関係なのか? いくらなんでも早すぎるだろう」
「何を勘違いしているかしらんが、テッペイにはちゃんと相手がいるみたいだぞ・・・まあその相手が最悪なんだがな」
どうやらアドルフは早くも、テッペイなる日本人少年の身辺調査を済ませているようだった。
本当に恐ろしい男である。
それにしても、よく知りもしない人の恋人を捕まえて最悪と断じるのは、いくら女嫌いでもやり過ぎだろう。
「ところで、エリファの裁判が始まるころだが、お前何か聞いているか?」
「さあな。流石に死刑にはならんだろうが、初犯とはいえ殺人じゃあ何年か食らうのは避けれんだろうよ」
「まあ、そうだな・・・それと、モーベールはどうしてるんだろうな」



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