本人の弁によると、女、河上渚(かわかみ なぎさ)はメッシーヌ・ベルシー大学で勉強する傍ら、文筆業で身を立てているプロのライターということだ。どういった分野の文章を書いているか、或いは、学生とライターのどちらが本業なのかといったことまではわからない。
彼女が隣に引っ越してきたのは、二日前である火曜の午後のこと。日本人らしく律儀な渚は、菓子箱と日本茶と思しきパッケージを手に持ち、挨拶のために訪ねてきた。日頃はコーヒーかビールばかりを飲んでいる俺は、紅茶ですら淹れ方をまともに知らない。貰ったばかりの物を手にして戸惑っていると、渚は台所を借りると告げるが早いか、あっというまに素晴らしい日本茶を俺に振る舞ってくれた。その行動力を親切と称えるべきか、図々しいと訝るべきだったのかは、今となっては疑問が残る。
とにかく、彼女が自分の部屋から持ち込んだ、やたらと小さく芸術的な陶器のポットと、セットになっているらしい桃の絵柄が描いてある可愛らしいコップに、木のコースター、耐熱ガラスのサーバーなどが、木箱に収めて今も台所の片隅に置いてある。その木箱も、何やら二重蓋になっていて、彼女は中蓋の上で使用前の道具に熱湯をかけて温めたり、茶葉と湯を湛えたポットの、蓋の上から、さらに沸騰した湯をかけたりしていた。その際、中蓋の切り込みから流れ落ちた湯が箱の中に溜まり、テーブルへ零れ落ちたりはしない……結局何のための儀式だったのかは、わからずじまいだが。
翌日も渚は俺の部屋へやってきた。煙草が切れたのに、鍵を失くして出掛けられずに困っていると話すと、気の利く彼女は留守番を申し出てくれた。ついでに買い出しをして一時間ほどで戻ってくると、渚は部屋の掃除と食事の準備を済ませてくれていた。そのときに彼女は、鍵が見つかるまで留守番をしてもよいと言ってくれたのだ。ライターを生業としているため、どこでも仕事ができるのだという、彼女が持ち込んだらしいノートパソコンは、確かに今もリビングのテーブルの上に、閉じられた状態で置いてある。だが、同時に学生でもあるのだと聞いている以上、彼女は大学へも通わないといけない筈だ。
「それじゃあ、帰るわね」
エプロンを畳みながら、渚が寝室へ顔を覗かせる。どうやら食事の準備が終わったらしい。
「ああ、悪いな……、これから学校に行くのか?」
「まさか、もう七時よ。コンロの鍋にチキンと、冷蔵庫にマカロニサラダが入ってるわ。流しに置いてあるボトルはピクルスだから、適当に食べてね。じゃあ、また明日」
そう言って渚は出て行った。いつもそうである。家事をして、俺の夕飯だけ作ると、一緒に食べることはなく彼女は帰ってしまう。まるでタダ働きの家政婦だ。
「何を考えているのやら」
キッチンに立ち込める酸味の効いた青臭い匂いは、気だるい晩夏の夕方に、疲れた身体の食欲をほど良く刺激してくれた。鍋の蓋を開け、香草とトマトソースで煮込まれた鶏肉を一片、皿に取り分ける。