「おじさん、これって中国茶だよ」
 電話で一時間あまり説得を重ねたのちに、モンマルトルから地下鉄を乗り継いで渋々やってきた河上ミノリが、部屋へ到着したのは九時前のこと。一人暮らしの男の部屋へ、夜に女の子を呼び出すなんて気が知れないだの、パリの下町で女の一人歩きをさせるのは非常識だのと、さんざん文句を並べていた彼女は、そのわりにケロッとした顔で男の一人所帯へズカズカとあがりこみ、綺麗に片付いた台所を遠慮のない目で見分中である。
「そうなのか? だが、相手は日本人だぞ」
 小さなミノリの手から、元々真空パックされていた皺の多いアルミ包装を受け取って、不思議なパッケージを眺める。ラベルに書いてある銘柄は漢字という文字による。俺にはさっぱり読めないし、そもそも日本語と中国語の区別などつく筈もない。
「しかもグラム二百フランぐらいする高級銘柄だよこれ。……まあ、日本人が中国茶を贈っても、いまどきそう珍しくもないけどね。近頃じゃあ街中でお洒落な茶藝館だの中国茶や台湾茶カフェだのもチラホラ見かけるようになったし。……うわあ、可愛いらしい急須と湯呑み……じゃなくて、茶壷と茶杯だっけ。それから、このピッチャーは確か、茶海って言って、一旦、ここにお茶を貯めて濃度を均一にするんだよね。なるほど耐熱ガラスだから、これならお茶の出方もよくわかりそう。この細長いのは香りを聞くためのものだったかな……ってことは、台湾人かもね。お茶や茶器だけじゃ、はっきりとはわからないけど……。へえ、この箱って中蓋の一部が、簀の子になってるのか……うまいこと考えてるなあ。しかも黒檀に貝細工入りだなんて、けっこうな高級茶盤なんじゃないの? 茶托にお茶っ葉を掬うやつや、なんだかわからないけど、ピンセットもどきまであるし、きっとこれ、本格的なセットだよ。っていうかお隣さん、こんなものまでおじさんに贈ってきたの?」
 蓋を開けて、道具一式を手に取りながら、ミノリはあれこれと品評をしてみせた。
 内容については正直なところ中途半端な見識だろうという印象があったものの、俺には理解を超えた領域であるため、言われた内容について、肯定も否定もしようがない。だが、渚がそこそこの富裕層らしいという点だけは、なんとなくわかった。もしくは、少々無理をしてでも、俺に高級品を贈りたい色気があるかのどちらかだ……後者の可能性は、残念ながら限りなく低いだろうが。
「たしか、ポットやコップに熱湯をかけるとき、このピンセットもどきで摘んでたぞ。なんのための作業かは知らないが、素手で扱えば、火傷をするだろうから、用意したんだろうな。……まあ、道具一式については、たぶん一時的に置いてるだけだろ。そりゃあ、プレゼントしてくれたなら、もちろん嬉しいが、いくら高級品だとしても、こんなものを贈られたって、俺は日本茶の淹れ方を知らないし、残念ながら価値もわからない」
 リプレイするために手にしていたピンセットもどきを箱に戻し、こじんまりとしたポットを手に取って、飾りのように小さな蓋を開けて指を突っ込んだ。
 ポットは表面がデコボコとしており、そこに立体的な桃の木が描いてあったのだが、白磁なので中はツルリとしている。焼き物にも詳しくはないが、これだけ凝っているのだから、値段も相当なものだろう。
 渚はここに何度も茶を作っては、耐熱ガラスのサーバーにポットを傾け、すばらしい日本茶を振舞ってくれた。一連の儀式は、まるで魔法のように感じられたものだ。
「汚いからやめてよ……。だから台湾茶だって。ついでに言っておくと、中国茶と台湾茶はよく似ているけど、日本茶は淹れ方がまるで違うからね。……っていうか、その、お隣さんが持ってきた工夫茶セット一式が、どうして、おじさんの部屋に置いてあるわけ?」
 ポットを取り上げると、ミノリはそれを持ったまま首を傾げた。俺の掌には簡単に収まるポットも、ミノリが持てば両手で抱え込んで、漸くすっぽり隠れる大きさだ。それでも、普通のティーポットに比べたら、ずっとミニサイズであり、やたら絵柄が可愛らしいだけに、ミノリが持つとなんとなく玩具めいて見える。
「そりゃあお前、ここで茶を淹れるために決まってるだろ。いちいち、持ってくるのが面倒なんじゃないのか?」
「面倒って……ええと、お隣さんは女の子だって言ってたよね」
「ああ。河上渚っていうんだ。実はもしかして、お前の姉貴か従姉じゃないかと思ってな。二十一歳らしいんだが、知らないか?」
 つまり、俺はその質問をするために、今宵ミノリを呼びつけていたのだ。いくら美人といっても、見知らぬ人間を部屋へあげ続けるのは、なんとなくすわりが悪い。それがやたら気が利くうえに、上げ膳据え膳で奉仕してくれる、おまけに若い女となれば、なおさらだ。俺のような中年男にここまでよくしてくれるのは、何か魂胆があるせいではないのかと、ひねくれた気分になる。日ごろそのような理由でマイナス思考になることが、めったにないだけに、これは精神衛生上もよくない。だから、もしも渚がミノリの親族であれば、正体が判明するぶんだけ、いくらか安心できるだろうと期待したのだが。
「知らないよ。あたし一人っ子だし、そんな名前の親戚もいない。だいたい二十一歳だったら、年下じゃん。っていうかおじさん……そんな若い子部屋に連れ込んで、一体何させてるっていうのよ?」
 日頃は団栗のように丸く大きな目をやや眇めながら、ミノリが俺を見上げてくる。微かな期待があっさりと外れ、俺は脱力していた。
 考えてみれば、そんな身うちがパリへやってくるとなれば、事前にミノリが教えてくれるだろうし、知らなかったにしろ、偶然俺の隣へ引っ越してくるなどという可能性は、そう高いものでないだろう。河上という姓は、日本で大して珍しくないのかもしれない。
「いや別に、まあメシ作ってくれたり、洗濯してくれたりだな……そうか、やっぱり関係ないか。参ったなぁ……」
 俺はリビングへ戻るとソファへ身を沈め、煙草の先に火を点ける。
 鍵を失くしたこの部屋で、外出中の留守番をしてくれるのは有難い。おまけに炊事、洗濯、掃除に繕いものと、女房でもないのに、家事全般をてきぱきこなしてくれるのだから、一人身の男としてはたいへん大助かりだ。しかしどう考えても、話が上手すぎて不気味である。
 相手は女一人で住居がはっきりしているのだから、仮に金目のモノが盗まれたり、怪しい動きがあれば、締め上げるのは体力的に難しくない。だが、現状そんな様子もなく、それなら俺に気でもあるのだろうかと、不埒なことを考えたりもしたが、だとすれば色っぽく迫ってくるなり、少なくとも作った料理を、一度ぐらい一緒に食べて帰ってもよさそうなものだろう。そんな様子もまるでない……残念ながら。今のところ渚は、昼ごろにやってきて俺を送り出し、留守中におそらく自分の仕事をしつつ、さらに家事をこなして、俺が帰ると、間もなく自分も部屋へ戻ってしまう……それだけだ。
「それって何よ。通い妻?」
「普通に考えたら、そうだよな……」
 ミノリの口から、そのような言葉が出たことに多少驚きつつ、俺は納得してしまう。助けてもらっている立場の俺が言う事ではないのだが、何を考えているのやら、さっぱりわからない。渚がしていることは、形だけ見ればまるで通い妻だ。色っぽい要素抜きの。だったら、むしろ通い母ちゃんというべきかもしれないが、説教がないぶんそれも違うかもしれない。やはり、無料の家政婦と表現するのが一番しっくりくる。
 この概念の移り変わりについてきていないミノリが、俺に言い放った。
「最低」
「そうなんだよ……って、なんだ? お前、今、最低って……」
「不潔、信じられないっ、このエロオヤジ!」
 俺はなぜか断罪されていた。
「おい、お前、何言って……ちょっと、モノを投げ……うわっ……!」
 床に突き刺さった包丁を、青ざめた顔で俺は眺めながら、咄嗟にソファの上へ両足を引っ込める。
「自分の娘よりも若い女に何させてんのよ!」
「だから、通い妻……じゃなくてだな、あっちが勝手にやって来……って、手当たりしだいに食材や調理具を投げるのはやめろ……」
 スライサーやピーラー、サバ缶が、勢いよくゴロゴロとソファの周りを転がった。
「この期に及んで女が悪いとでも言うつもり?」
「どの期だよ! ……だから、聞けって……」
 その後ひとしきり俺は、ミノリからのトチ狂った奇襲攻撃をようよう躱しながら、どうにか誤解を解くと、俺と渚の間に色ごとがないと納得したらしい彼女へ、改めてこの三日間に起きた出来事を説明しなおした。
「それって、つまりさ……その渚って子がやったんじゃないの?」
 家事万端こなす渚がきっちりと片付けて行った台所を、盛大に散らかしたミノリが、床から鍋や泡だて器を拾いながら言う。
「やったって、何を!?」
 割れた皿の破片を掃除機で吸い取りつつ、俺はミノリに問い返す為に声を張り上げる。だが、質問をしながらも、心ではミノリにほとんど同調していた。
「だから、おじさんの鍵、その渚って子が盗んだんじゃないのかな」
「お前もそう思うか」
 予感が確信に変わっていくのを自覚する。状況を聞けば、ミノリでなくとも、やはりそう考えるものだろう。
「わかってるんなら、どうしてさっさと返してもらわないのよ」
 冷蔵庫を開けながら、ミノリが呆れたように言う。
「鍵返せってか? 証拠があるわけじゃないんだぞ。……フライ返しは、流しの下だ」
「じゃあ、それとなく聞いてみるとか……ねえ君、おじさんの鍵、知らない?」
 冷蔵庫を閉めながら、ミノリが可愛らしく小首を傾げて、手本を見せる。俺は苦笑しながら彼女の隣へ近づくと、冷蔵庫の扉を開けて、牛乳パックの横へ立てられたフライ返しを取り出した。
「不自然だろ。……だいたい、そんなあからさまな誘導尋問にのってくるぐらいなら、さっさと返してる……というより、そもそも盗んだりしない」
 鍵以外に何かを取られた様子がない以上、その意図が想像できない。意図がわからなければ、渚が犯人だという確信が揺らいでしまう。
「言ってみればいいのに……もう、何すんのよ!」
「そんなわけにいかないの。……まあ、どっちにしろあと数日のことだ」
 そう言うと寝室へ入り、ベッドサイドの抽斗から財布を取り出して、掲げてみせた。
「お小遣いくれるの?」
 フライ返しで軽く小突かれた頭をしつこく掌で撫でながら、ミノリが無邪気に訊いてくる。
「なんで俺が、キッチンを荒らされた揚句、フライ返しを冷やそうとする女に、小遣いをくれてやらなければならないんだ」
「こんな遅くに呼び出したんだよ? 足代ぐらい出してくれてもいいじゃん」
 それから三十分後、ミノリはきっちり地下鉄乗車賃を俺からせしめたのち、翌日映画を奢る約束をさせてから、アパルトマンを後にした。
「畜生、あのガキめ……ちゃっかり余分に持って行きやがって」
 二十フラン紙幣が消えた札入れから、俺は再び折り畳んだ紙片を取り出す。日付と金額が空欄になっている錠前屋の予約券。
 渚が何を考えているのかは知れないが、ひとまず錠前さえ取り換えれば不安は収まる。そして状況を甘く見過ぎていたことを、俺は後になって思い知らされた。



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