ボン・マルシェからそう遠くはない『ラ・パゴダ』という変わった映画館は、バビロンヌ通りのリセ付近にあった。『パリの中の東洋』をテーマにした本の挿絵を、頼まれているミノリは、先週からこの映画館へずっと来たがっていたが、お互いの予定が合わず、延び延びになっていたのだ。
 契約画家であるミノリのオーナーは、シャンゼリゼでギャラリーを営んでいる、アドルフ・フルニレという男である。一見さんお断りの排他的なギャラリーである『フルニレズ』が扱っているのは、どれもオルセーやルーヴルといった美術館で並んでいるような名画ばかりだ。つまりは贋作ということである。
 それらに法外な代金を支払い、喜んで購入する上客達は、彼の個人的なコネクションで知り合った男達。男らはみな、政治家や弁護士、医者や有名企業のオーナーといった、地位も名誉も手にしているセレブリティだ。彼らはアドルフの紹介によって、若く見目麗しい少年達を買い、人には言えないセクシャリティを満足させている。言いかえれば大いなる弱みを握られている彼らは、アドルフの言い値で不要な買い物をしているわけだ。その贋作を描いているのが、河上ミノリである。
 アドルフとアーティスト契約を結び、成功報酬で収入を得ている彼女は、けっして仕事に手を抜かない。いずれも本物と見紛うばかりの、なんら遜色のない精巧なコピーを仕上げる彼女の贋作は、結果的にアドルフの客を喜ばせ、みな有難がって会社の応接間や自宅の玄関を飾っているらしい。ギャラリーの言い値で売買されて、客も喜んでいるのであれば、そこには円満な取引が成立しているということだろうが、金持ちの考えることはまことに不可解だとつくづく思う俺である。
 アドルフ経由の仕事の他にも、それなりに画家として名前が売れつつあるミノリの元には、個人的な注文や出版社からの依頼で、風景画や肖像画、本の挿絵や表紙絵などの仕事も、ちょくちょく舞い込んでいる。この度の挿絵注文も、そういった仕事の一種だ。
 俺はというと、違法な商売に手を染めているミノリやアドルフのことを、けっして悪くは言えない、ぼったくりタクシーの運転手である。彼らに比べれば、生産性に欠けるチンケな小悪党でしかないだけ、却って恥ずかしい商売かもしれない。おまけにその悪徳稼業さえも、例の鍵騒ぎからすっかり開店休業中である。渚がいてくれるとはいえ、他人に留守を任せて仕事になど身が入る筈もない。
 早いめに購入したチケットを手にしつつ、営業中の映画館前に広がる、どこか華やいだ光景を俺は眺めた。
「おじさん、遅くなってごめん」
「よお」
 恐らくは仕事が押していたのであろうミノリは、大きな鳶色の瞳を、すまなそうに俺に向けながら謝ってきた。徹夜でもしたのだろうか、肉の薄い顔に張り付く下瞼の隈が痛々しい。
 チケットの一枚を手渡してやりながら、彼女の装いを俺は検分する。
 皺くちゃだが汚れていない白Tシャツと、洗いざらしたデニム地のハーフパンツに、素足のまま履いた、穴の開いていないスニーカー。俺は心の中で密かに合格を出す。とりあえず仕事の後で着替えてきたらしいことがわかっただけ、ミノリも成長したと言えるだろう。この際、風呂に入ったか入っていないかを問い詰めるのは止めにしよう。人前で無用なトラブルを引き起こすのは、大人げないというものだ。
「ちょっと待っておじさん、これチケット違うよ」
 シャツの袖を引っ張られて俺は足を止める。
「ああ、地階で日本映画をやってるみたいだから、そっちにしたんだが、いけなかったか?」
 俺が尋ね返すと、ミノリはあからさまに顔を顰めてみせた。
「なんで、勝手なことするのよ。地上のシアターが見れないじゃない、交換してもらってよ」
 突き返されたチケットを受け取って、俺は戸惑った。
 なるほど、ミノリが言う通り、地上と地階のシアターでは内装がまるで異なり、地上は壁や天井に刺繍による見事な日本絵巻が施されていることは、後から判明した。だが、俺としても言いぶんはあったのだ。
「けどなあ……地上階でやってる映画って、お前知ってるのか?」
「知ってるよ。前にも見たもん」
 返事を聞いてなおさら俺は面食らう。
「前に見たんなら、やっぱりこのままにしとかないか」
 無駄だと察しつつ念を押してみた提案は即座に却下され、窓口の係員に頭を下げてチケットを交換してもらった俺は、続々と地階へ飲み込まれていく行列から一組だけ離れて、目の前の扉を押し、ガラ空きのシアターで古い映画を鑑賞した。
 二時間後、俺はまるで孫に導かれる八十代の老人のように、ミノリに手を引いてもらいながら映画館を後にする。
「どこかで休憩できればいいと思ったけど、座るところないね。おじさん、大丈夫?」
「ああ……すまないが、このままちょっとだけ待っててくれるか。風にあたれば、直に復活する」
 茜色の夕闇に包まれていた劇場の玄関は、少しだけ早く終了していた地階の客を溢れさせ、来た時と同じく華やいだ雰囲気だった。
「それにしても、本当に女の人ばっかりだね……カフェも埋まっちゃってるし。どうして皆あんな映画見るんだか」
 『ラ・パゴダ』には本当に小さなスペースではあるが、二組だけ客が座ることのできるオープンカフェがある。キャパシティにして六席なのだから、やる気がないにも程があるのだが、劇場と同じく庭の作りは見事だ。仏塔を意味する名前に相応しく、建物の外観がまるで日本の寺院を想像させる建築様式であることにたいし、中庭もオリエンタル趣味溢れる日本庭園である。加えて地階で上映していた映画は、日本の歴史映画だ。今さらながらに俺は後ろ髪を引かれる思いで、壁に張られているポスターを眺める。
 日本刀を構えているサムライ姿の男は、この場にアドルフがいれば間違いなく口説くに違いない、瑞々しい美青年。端正な顔立ちというばかりではなく、どこか妖艶といえる色気が漂うそのポスターを見れば、女性達がこぞって地階のシアターへ吸い寄せられ、映画を鑑賞したあとでさえ、興奮の冷めやらぬ様子で溜息が零れんばかりのうっとりとした表情を浮かべているのも、理解が出来るというものである……いや、少し行きすぎている気がしなくもないが。
 ともあれ、映画は彼女達を満足させる出来だったということだ。それだけに、俺はミノリの頑なさが残念でならない。この度の来訪がシアターの内装を見る為だというのはわかるが、何もあのような残酷映画を上映しているときに、足を運ばなくてもよかった気がする。どの映画が上映されているのか前もってチェックしてこなかったというのだから、そこはまあ仕方ないにしろ、だが、たとえば地階で映画を見たあとで、入れ替え時間に内装だけ見せてくれと係員に頼むことだって、ひょっとしたら出来ただろうに。頼んでみない事にはわからないだろうが、おそらくそれほど無下に断られるような難題ではなかっただろう。
「お前はどうして、あの残酷シーンを見てそこまでピンピンしていられるんだ」
「ああ、上映中はほとんど寝てたし……昨夜徹夜だったからな〜」
「だったら、地階の映画でもよかっただろうが」
「何度言わせるんだよ、地階じゃ意味ないんだってば」
「だから、地階で映画を見たあとで、係員に頼んで入れ替え中に一階の内装を見せてもらうとかだな……」
「なるほど、そういう方法もあったね。それでも、『禁断』なんて見るのは御免だけど」
 『禁断』というのは、地階で上映していた日本映画である。
「あれよかマシだろうが。お前、西大后なんて、超有名な残酷女帝だぞ? 気に入らない相手の手足チョン切って壷に押し込んだり、豚に食わせたりする女だぞ? ……畜生、また気分が悪くなってきた……」
 そして地上階で上映していた映画が『西大后』だ。映画のラストに怒涛のごとく見せつけられた血腥いあれこれを俺は思い出し、再び吐きそうになっていた。
 そこへ。
「ひょっとして、父さん?」
 聞き慣れた声で俺は劇場の玄関を振り返り、そこにスラリとした女の姿を見つける。
「アリーヌじゃないか!」
「やだ、変なの。こんなところで父さんに会うなんて……あら、こちらは?」
 俺はアリーヌにミノリを、アドルフの店の画家だと紹介し、そしてミノリに娘を紹介した。そこへ後から劇場を出てきた若い女が、アリーヌの名前を呼ぶ。結婚しているアリーヌは、どうやら今夜、旦那連れではなかったようだ。
「友達か?」
「アナマリアよ。ほら、覚えてない? コレージュで一緒だった、パン屋の子」
 ゆったりとしたサマーセーターにスリムなジーンズという、リラックスした装いのいでたちに、俺はそれとなく納得する。夫のジョリスが一緒なら、もう少し気を張ったファッションを選択することだろう。どうやら今宵は嫁ぎ先である旧貴族家から解放された、ひとときの休息を楽しんでいるようだ。
「ああ、あのやたらと気前の良いパン屋の娘か」
 アリーヌと変わらぬ年頃の、素朴な雰囲気を持つ女性の顔に、懐かしい記憶を呼び起される。
 下町の片隅に、パン屋を営むアスランという名の慎ましやかな夫婦がいた。律儀で人の良い彼らは、娘が同い年のアリーヌを訪ねる度に、いつもバゲットやクロワッサンを籠一杯に詰め込んで持たせてくれていた。貧乏だった俺達は、気前の良いアスラン一家に心から感謝をしながら、日々の空腹を満たしたものだ。
 当時と変わらぬ、やや野暮ったい眼鏡をかけた、人懐こいアナマリアの笑顔が、俺を見て丸っこい頬をバラ色に輝かせながら、小さく手を振った。俺も彼女に手を振りかえす。
「気前がよかったんじゃなくて……まあ、いいわ。……じゃあね、パパ」
 苦笑しながら言いかけた言葉を途中でやめると、アリーヌはパン屋の娘の元へ走っていった。間もなく映画館を後にした俺は、寄り道したいというミノリを駅まで送り届けてから自宅へ戻る。
 アパルトマンの玄関で再び例のピザ屋と擦れ違った。ひょっとして、太ったアメリカ人でも入居しているのかもしれない。
部屋では渚が家事万端こなして待っていてくれた。
 十時過ぎにアリーヌから電話があり、久しぶりに俺と再会したアナマリアが、喜びのあまり興奮していたと伝えてくれた。成人した娘の友達と会うのは初めてのことだから、俺も感慨深い。しかし、アリーヌの言葉に含みを感じたために問い質すと、なんでもアナマリアは俺が連れていたミノリを、日本人の少年だと勘違いしたそうだ。まあ、確かに俺もミノリを最初は、生意気な男のガキだと思っていたし、美少年好きのアドルフにいたっては、どストライクの容貌らしいから、間違えるのも無理はない。
 だが、アナマリアと同い年とはいえ、ミノリはお世辞にも大人っぽいとは言えず、容姿だけ見れば、せいぜい十代半ばから後半の少年だ。人の好みはそれぞれだが、アナマリアはひょっとして年下好きなのかと尋ねてみれば、そうではない、俺と一緒に一見美少年のミノリが、『禁断』を見に来ていたから、彼女は喜んだのだとアリーヌは言って、さらにひとしきり可笑しそうに笑っていた。
 さっぱり意味がわからない俺は、ひとまずアリーヌ達が見ていたらしい『禁断』について感想を聞いてみた。すると、あれが五回目の鑑賞だったと言うアナマリアにいたっては、週末にまた別の友達を連れて見に行くのだという。アナマリアほど絶賛をしているわけではないようだが、アリーヌもひとまず気に入りはしたらしく、美しい映画だったと評価した。ミノリは随分とこき下ろしていたわけだが、あるいは、同じ日本人としての謙遜も、少しはあったのかもしれない。



 05

『欧州モノ』:「La boheme, la boheme」シリーズへ戻る