「なるほど、モローの描く女は、いずれもシルエットがどこか筋肉質で少年的である反面、男がしなやかで曲線的に描かれる傾向にあり、それはアンドロギュヌス的と言えるかもしれない。だからこそ、ファムファタルであり、油彩に描かれたものよりも女性的で、神秘性より人間味を感じさせる水彩のサロメを、アンドロギュヌスそのものとして描かせたこの『出現』の注文主は、ある意味モローをよく理解しているのかもしれないな」
 テーブルの上に包みを解いた五十号のパネルを、しげしげとアドルフは眺めていた。
 長い脚をゆったりと組み、膝頭に軽く左肘を掛けながら、右手でマホガニーの木枠を支えてサロメを見ている。細身の黒レザーパンツに、ゆったりとした黒いシルクシャツ。ボタンを二つ開けた胸元や、肘まで捲り上げた袖からは、黒づくめの装いと対照的に、異様に白い肌が浮き上がって見える。肩まで伸びている薄金色の波打つ髪は、無造作に後ろで纏められ、同じく色素の薄い碧眼は、浮世離れしたアドルフの容姿を引き立たせている。その佇まいこそが、性の雌雄を超越した美貌だろうと言えなくもない。
 だが、このアドルフが紛れもなく男であり、性衝動に駆られた彼が、中性的な容姿を裏切って野生を露わにすることを俺は知っている。もっとも性衝動に駆られれば、男も女も野生的になるものであろうが。
「これを注文した人って…………中国人だって言ってたっけ?」
 足元を通過中だったモンブランの丸い背中をがしっと手でとらえ、白い塊を膝に引きあげながらミノリが訊いた。
「そうなのか? おい、……嫌がってるように見えるぞ」
「そんなことないよ」
 俺の感想を即座に否定したミノリは、小さな膝の上でくねくねと身を捩る猫を上から力づくで押さえつけている。ミノリは猫が漸く大人しくなった頃を見計らって、さらに抱え直し、小さな前足を弄び始めるが、動物がそれを心地よく感じていないことは、眉間に刻まれた悩ましい皺を見ると一目瞭然だろう。だが、幸か不幸かモンブランは諦めがよく、我慢強い性格のため、こうなると本人が飽きるまでミノリの玩具になるしかない。ミノリも悪気はないのだろうが、どうも猫の扱い方というものを、まるで心得ていないのだ。
「名前を見て、そんな気がしたというだけであり、直接訊いたわけじゃないがな。やめてやってくれないか」
「でも、相手は東洋人だったわけでしょう?」
 肉球を摘まみながらミノリが訊くと。
「いや、俺は顔も知らん。馴染み客が仲介してくれただけで、引き渡しも配送業者がうちまで取りに来る予定だから、今後も顔を合わせる予定はない」
 飼い主の非難を無視して猫を虐待し続けるミノリを諦めたのか、アドルフはこれ以上注意をする気もないようだった。こうなると、モンブランの哀れさがより一層際立ってくる。
「おい、お前にしちゃあ随分と不用心じゃないか? どこの誰ともわからない相手に、しかも一般の運送会社を使うなんて。どうせまた法外な値段をふっかけたんだろう? お前を陥れようとしている奴かもしれないだろうに。……猫をそんな風に扱うんじゃない。可哀相だろ」
 名画コピーの取引は、あくまでアドルフのサイドビジネスというか、小遣い稼ぎに過ぎない。
 彼の本業は出張ホストの派遣で、人には言えない性癖を抱える彼の客達が、そのまま絵の買い手となる。つまり贋作絵画の購入者は、名前や住所、職業、そして性嗜好はもちろん、どのホストと何月何日に、どこでどんな遊びを楽しんだかにいたるまで、アドルフが弱みを掴みきった上での、副次的な商売なのだ。それを、顔も知らなければ、国籍もわからない、下手をすれば名前すらも偽名という可能性だってあるだろう、そのような不安定な相手と取引をするのは、あまり安全とは言えない。
 いつものコピーとは違い、このサロメはどこからどう見ても、モローの真作でないことは、はっきりしているうえ、そもそも絵の注文を先方から持ちかけてきているようだから、この売買をもってして詐欺に問われる心配はないだろう。だが、これまでアドルフがやってきたことは、まさに詐欺や恐喝といった犯罪の積み重ねである。場合によっては、アドルフの商売に探りをいれる目的で、下手をすると逆にアドルフを脅すつもりで近づいている可能性だってあるだろう。仲介に一般の配送業者を使うというのも、考えられないことだ。普通の会社であれば、受注に対してすべて伝票を残し、最近ならパソコンにもデータを残しているだろう。それは、何かが起きて警察の手が入った際に、押収可能な証拠が満載に残されているという意味である。
 ちなみに蛇足であるが、最後の忠告はもちろんミノリに対して発したものだ。
「顔を知らないと言っただけで、どこの誰ともわからないという意味じゃない。間に入っている紹介者とは、古くから付き合いがある、信用できる男だ。この件をもってして、俺の手が後ろに回るようなことがあるなら、彼も失職に繋がる。そんな危険な橋を、そこそこの地位に就いている公務員が渡るとも思えん」
「お前、公務員の知り合いなんかいるのか」
 アドルフの客層は広い。医者に弁護士、政治家などという、地位も名誉もある人間こそが、人に言えない性癖に対し、法外な金額をふっかけるアドルフの上客となりえるのだから、当然だろう。さらに、そういう人間に限って昼間はお堅い仕事に就いており、ストレスを溜めこんでいるものだから、公務員がいても別に珍しくはないかもしれない。
「美青年に拘束されながら口汚く罵られることを好む、警視総監だ」
 アドルフが上客の個人を特定すると同時に機微な情報をしれっと漏洩した。さまざまな意味合いで空いた口が塞がらない。そして、なぜ警視総監が中国人などを紹介してくるのかと言うと、どうやら現在わが共和国では、中国公安部の刑事をパリ警視庁で研修目的に迎え入れているらしく、その刑事の縁故者が依頼主ということのようだ。
「警察上層部ってえのは、そんなに暇なのかい」
 一納税者として憤りを感じるとともに、言いかえれば警察トップがアドルフに弱みを握らせているのだから、この取引はほぼ逮捕の危険が皆無であるばかりか、寧ろアドルフは警察を後ろ盾に商売しているも同然なのではないかという、おそろしい可能性にまで気がついた。そう考えると、やりたい放題にも見えるアドルフの事業拡張ぶりも、納得がいくというものだ。
「まあ、暇かどうかまでは知らんがな……、どうやらそのチャイニーズコップ君というのが、随分と見目麗しい、スラリとした若い美男子みたいだぞ」
 冷やかし気味にアドルフが応えた。なるほどと思う。
 それにしても、国家間の警察における研修交流とは、いったいどのような目的があるのだろうか。普通に考えると、過去においては科学捜査や現代ならばサイバーテロ対策など、より進んだ捜査手法などを学ぶためのものだろうが、国家制度がまったく異なる二国間においては事情が異なる。一党独裁国の警官諸君が、民主主義の生まれ故郷たるわが国の警察で、仮に多くを学んで帰ったとして、果たして自国で活かす機会などあるのかどうか。……そもそもだ、国を挙げてハッカー攻撃を各国に仕掛けているのは、かの国であるのだから、サイバーテロ対策を学びたいなどと、何の皮肉だという話である。ここは寧ろ、裏を掻いて他国へ攻撃を仕掛けるくために違いないと疑うべきで、そんなものへ協力するのは、泥棒に追い銭と鴨に葱、まったく笑い話にしかならない。いや、笑っている場合ではない。下手をすれば、警視総監にスパイ容疑をかけるべき由々しき事態なのだから、とんでもないスキャンダルだ。もしくは、あの国にとっての研修とやらが、自国がいかに開かれた先進国であるかを、国外に向けてアピールするという、パフォーマンスにすぎない可能性もある。それはそれで、くだらない宣伝に付き合うわが国の警察にあきれるというものであり……もっとも、警視総監自ら、異国からやって来た美青年刑事に、鼻の下を伸ばしているようでは、こうして事の真相を推理するのも馬鹿馬鹿しくなる。そこまで考え、俺は、要するにこの研修自体が、かの国お得意のいわゆるハニートラップなのではないかという気がしてきた。だとすれば、いろいろと納得がいく。
「なんかもう、なさけなくて嫌になってくるなあ……」
 思わず溜息交じりに呟いた。
 ともあれ、要するにその中国人刑事から、おそらくは何気ない世間話として持ちかけられた相談を、警視総監殿は嬉々として請負い、アドルフに橋渡ししてやったということなのだろう。
「急にどうした」
 突然、膝の間へ頭を突っ込み後頭部を抱えた俺に、不思議そうな声でアドルフが尋ねたが、俺は返事をするのもうんざりしていた。
「それにしてもさ、なんで両性具有のサロメなんだろうね」
 ぼんやりとした口調でミノリが言った。



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