疑問を口にしながら、彼女は瓶から掬い取ったマロングラッセを、カップのキリマンジャロへ浸すという、謎の思い付きを試みる。どうやらモンブランは漸く解放されたらしく、いつのまにか窓際へ異動して、白い身体からミノリに玩具にされた感触を一心不乱に拭い去っている最中だった。必死の毛づくろいが哀れみを誘う。
「さあな……」
 あるいはアドルフが評したように、モローに対するひとつの解釈に過ぎない可能性はある。しかし、中国大陸から公安部刑事という肩書と国命を背負って派遣されてきた青年が、警視総監を仲介に使ってまでこの絵を注文したとなると、話は別だ。いや、注文者はその青年本人ではないから、さらに計り知れないが、それにしても仲介者が特殊だろう。何しろ見目麗しい東洋の刑事に鼻の下を伸ばし、贅肉に荒縄を食いこませながら、美男子に口汚く罵られる趣味を持つ、マゾヒストの警視総監である。まったく、あの偉そうなデブの爺さんにそのような性的志向があったとは、市民をあげての驚きだ。それとも、警視総監のインパクトが強すぎるから、事の異様性が際立って見えるだけだろうか。真実は単純にアドルフが説明してみせた通り、数ある取引のひとつというだけのことで。
 話が中国人に及んだところで、ミノリが『パゴダ・ルージュ』に行ってきたという話を始める。
 『パゴダ・ルージュ』とはこのシャンゼリゼからもほど近い、クールセル通りにある、真っ赤な東洋建築のことである。例によって『パリの中の東洋』をテーマにした絵を請け負っているミノリは、出版社の担当者から、表紙に相応しい印象的な建物はないかと相談されて、候補にあげた建物ということだ。そこでもう一度よく確認するため、昨日の帰りにリヴォリ通りで車を降りたミノリは、地下鉄に乗ってモンソー公園近くまで足を伸ばしていたのである。
「けどさあ、行ってみてがっかりだよ。時間が遅かったっていうのもあるけど、ライトアップでもされているかと思えば真っ暗だし、周りを歩いたりもしたけど、どうも中で何かが公開されてるって感じじゃないんだよね」
 無駄足だったと言わんばかりに、ミノリが溜息混じりに言った。
「つまり、立ち入り禁止っぽかったわけか。そもそもアレって一体何なんだ?」
 クールセル通りにある真っ赤な東洋の寺院風建造物は、外観の異様さから言っても、道行く人の目を引かずにはおれない。
 記憶にある限り、かの朱色の中国建築は、俺が生まれるよりもずっと昔からあの通りに建っている筈。敢えて足を踏み入れようと考えたことはないが、いかにも見学してくれと言わんばかりの外観をして、一般公開されていないというのは、どうにも不自然だ。だとすると中国大使館か、金持ち中国人の別荘あたりということだろうか。そういえば、あの辺りには日本大使館もあるから、なるほど公館の可能性はありえる。それにしたって、ど派手だが。
 すると。
「恐らくはC.T.ロー商会のことだな。十九世紀末にパリへやってきたローが、第一次世界大戦後に建築させた、東洋古美術を扱う商社の店舗だと聞いている。だが、ロー氏はとっくに他界しており、今では遺族が会社も店も手放しているめ、現在あの建物がどうなっているかは、俺もよく知らんな」
 比較的近所に住んでいるアドルフが、彼の認識しているところを説明してくれた。
「つまり個人の所有か。だとすると、その中国人の爺さんが死んじまって、今はビルも締め切られてるのかも知れないな」
 どこかの不動産屋の管理となって、新たな買い手がなかなかつかない状態ということは、よくある。あるいは、高額の固定資産税が払えず、係争中になっており、ましてや相手は中国人のため、裁判が進まず放置という可能性もあるだろう。
「じゃあ、やっぱり中には入れないってこと? あんな目立つ建物作っておいて、それはないよ〜、ったく……」
「目立つ建物は等しく公開されるべきという理屈が、いったいどこで通用するのかは知らないが、あのビルが観光客で賑わっていないところを見ると、立ち入り禁止の可能性は高いな。しかし、単純に、お前が行った時間帯が遅かったということも考えられる。明日もう一度日の高いうちに訪問すると、状況は変わっているかもしれないぞ。観光客相手の商売だったら、日曜の昼間はたいがい開けているからな」
 珍しくアドルフが、希望を与えるような助言をしてやると、おもむろにミノリが席を立った。
「そういうわけにもいかないんだよ、締め切りを二つ抱えてるからさ。……じゃあ、あたしそろそろ帰るね」
 そう言って、カップの中身を平らげるミノリ。コーヒーとともに口へ含んだマロングラッセを咀嚼しながら、本当に帰り支度を始めてしまう。慌てて俺も立ち上がる
「なんだよ、いきなりだな……」
 そして、ジーンズのポケットから車のキーを取り出すと。
「ああ、……ええと、あたし近くで寄っていきたいところがあるからさ、今回は送らなくてもいいよ。おじさんは、ゆっくりしていったら?」
「またかよ。女の子に一人歩きをさせるのは、非常識なんじゃないのか?」
 いつぞやの夜、呼び出したミノリにそう言って責め立てられたことを思い出し、それとなく探りを入れてみるが、結局満足の行く回答はないまま、ミノリは一人でアドルフの家をあとにした。
「あいつなりにいろいろと忙しいんだろ。心配か?」
「まあなあ……」
 昨日何をしていたかについては、先ほどの会話で判明したものの、今の態度はどうも不自然な気がする。俺が心配する筋合いはないのかもしれないが、年頃の娘が親離れしようとしている瞬間というのは、こんなものかもしれないと考えた。そして、アリーヌというれっきとした、成人し、結婚もしている娘を持つ俺がそう感じるのは変だと思い、情けなくなる。
「あるいはあれかもしれん。……ほら、例の日本人青年と、シャントルーヴで仲良くしていただろう」
「まさか、二人が付き合っているっていうのか? いや、それよりも、あの男には既に相手がいると、お前言ってなかったか?」
「そう思ったんだが、俺の勘違いかもしれないだろう」
「いい加減だな……だいたいあの男はなんというか、ちょっと頼りないだろ……ミノリの相手には勧められん。……コーヒーもう一杯貰うぞ……って、こら、……おいっ」
 空になったカップを手に持って立ち上がり掛けた身体が、下へ引き戻される。そのまま俺は、手を引くアドルフにソファへ押し倒された。
「もしくは、ミノリなりに俺達へ気を使ったのかもしれないな。……泊まっていくだろ?」
 シャツの裾から滑り込んできた手が、肌の上を這う。
「いや……今日はちょっと……あぁ……んっ」
 骨ばった手が皮膚を撫で回し、爪が突起を引っ掻いて、堪らず詰まった声が出てしまう。
「いいだろ……このところずっとしてない。お前だって、嫌じゃないだろ?」
「それは……けどっ……やめろって……んあっ……」
 しつこく弄られ続けた乳首が芯を持ち、育って敏感になっていく過程が自分で感じられた。いつの間にかベルトをはずされ、忍び込んできた手が下着の上から性器を握り込む。
「固くなってる」
「……たりまえだろ、こんな風にされたらっ……あっ、ああっ……」
 溜まらずアドルフの肩に手を回し、自分から彼にしがみついた。次の瞬間、コトリという鈍い衝撃がカーペットを叩き、びっくりしたモンブランが飛び上がって、部屋から逃げてしまう。どうやら俺が、手に持っていたカップを落とした為に、臆病な猫を驚かせてしまったらしい。
 空にしたつもりではあったが、まだ底にコーヒーが残っていたかもしれない。だとすれば、神経質なアドルフの性質を考えると、落ちにくいコーヒーの染みをそのままにしておくことは好ましくはなく、いつもなら、すぐに雑巾と洗剤を取りに行って掃除を始めようなものだが、こういう状況では性欲が優先されるらしい。



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