午前中のうちにマゼンタ通りのアパルトマンへ戻り、朝一でやって来てくれた錠前屋に鍵を交換してもらった。途中で寝惚け眼の渚が部屋の奥から出てきて、一旦家に帰ると告げて出て行った。どうやら俺が帰らなかったものだから、そのまま泊まらせてしまったらしい。
 渚が来るようになってからは、貴重品をすべて持ち歩くようにしていたから、一晩ぐらいは空けて構わないと思ったのだが、せめて連絡ぐらいしてやればよかったかと反省する。誰かに留守番をさせるにしても、代わりにアヴリルを呼ぶなど、他に手段はあった筈だ。どうせあいつも、暇な独身中年だ。急な呼び出しで困るような日常ではあるまい。
「あやかりてえもんですなあ」
 同年代らしい錠前屋が、薄気味悪い笑いを浮かべながら言う。いやらしい視線は隣の部屋へと消えていく、渚のほっそりとした白いワンピース姿をいつまでも追っていた。
 一旦帰ると宣言したわりに、錠前屋が引きあげ、二時間待っても渚が再訪問する様子はなかった。恐らくは昨夜、ほとんど寝ていなかったであろう彼女が、自宅のベッドで熟睡している可能性は高く、待っている義理もないため、俺は五日ぶりに仕事へ出る。
 昼過ぎに空港へ向かい、すぐに乗せた客をバスティーユ近くで下ろした。言葉が不自由そうな東洋人客から、スムーズに五百フランを受領し、二時過ぎにパッサージュブラディのインド料理店へ向かった。ストラスブール通りで車を停め、煙草屋でジタンを一カートン買っていると、見知った車のナンバーを見つける。
 白いボディの個人タクシーは、横断歩道の少し手前で客を降ろすと、そのままエンジンを止めてしまい、間もなく運転手自ら車を降りてきた。
「よお」
 癖のある赤毛にチェックのベレー帽を被った貧相な風貌の男はそう言うと、人好きのする髭面の口元をニッと笑わせて、こちらへ掌を見せながら歩いてくる。同業者のアヴリル・デエイェだ。彼もまた、パリに溢れかえるぼったくりタクシー屋の一人である。
 同じような挨拶を返しつつ、俺は今しがた彼が乗せていた東洋人を視線で追った。白いシャツと紺色のジーンズを身に付けた華奢な後ろ姿は、そのまま薄暗いアーケードへと消えていく。
「お前の車に乗っていた、あの日本人だが……」
 見間違いでなければ俺も乗せたことがあるアヴリルの客について、口にすると。
「キジトラちゃんか?」
 アヴリルが軽い調子でわからない応答を返す。そしてポケットから取り出した、カレー屋のマッチを擦ると、器用に掌で微風を遮断しつつ、髭の口元に咥えた煙草へ火を灯して、隣で一服し始めた。アヴリルもまた、しばらくここでサボっていくつもりらしい。
「キジ……いや、そういう名前じゃなかったと思うが」
 アドルフの調査報告によると、彼は確かテッペイという名だ。その名前が姓か名かは不明であるし、アドルフの調査こそが完全無欠だという証拠もないが、少なくともアヴリルが呼んだところのキジトラとやらよりは、よほど信頼に値するだろうという気が、おそらく、なんとなくする……たぶん。
 俺が自信なさげに首を捻っていると、またもやアヴリルがニカッと笑い、楽しそうに目を細めた。
「キジトラっていうのは、俺が勝手に呼んでる渾名だよ」
 なんでも、アヴリルが客待ちのひとつに使っている、マレ地区の公園前で、よく一緒になる同業者が猫を飼っており、そいつの名前がキジトラというらしい。
「猫の名前か」
「正確には種類だな」
 アヴリルに言わせると、あの青年と顔の雰囲気が似ているのだそうだ。言われてみれば、愛嬌を感じさせつつも、どこか澄ました青年の印象は、犬と言うより猫の雰囲気が近いかもしれない。そしてアヴリルは、そのキジなんとかちゃんを、何度かこのパッサージュブラディへ送り届けたことがあるという。
「ということは、パリに住んでいるのか?」
「さあな。乗せる場所は空港だったり、バスティーユだったり、ばらばらだから何とも言えない。だが目的地はいつもこのパッサージュブラディだ。けどなあ、いつまでたっても満足に言葉が話せないもんだから、会話なんぞ成立したためしがないんだ。ピエールよ、喋れるぐらいなら、この俺がとっくに子猫ちゃんから名前を聞きだしてるとは思わないか?」
 アヴリルの言葉つきには、妙ないやらしさがあった。
「言葉も通じない客相手に妙な下心を抱いてるんじゃないだろうなあ。……お前の淀んだ目にはテッペイがどう見えているのかは知らないが、東洋人だから若く見えるだけで、あいつは二十歳過ぎてるし、それなりの相手だって恐らくいると思うぞ。ついでに言うと、お前はテッペイの語学力が低いかのように聞こえる、見下した言い方をしたが、確かにフランス語はからきしのようだが、あれでなかなか英語は流暢だ。自国語しか話せない、俺やお前が彼をバカにしていいわけがない」
 俺がテッペイの味方をしてやる義理もないのだが、アヴリルの言い方が少々気に触って釘をさすと。
「なんだよ人が悪いな、ピエール。お前わかってて俺に言わせてたんだな。そうか、キジトラちゃんの名前はテッペイって言うのか。そうなんだよなー……キジトラちゃん、可愛い顔してちゃっかり恋人がいるんだよ。それがまた、よりにもよって性質の悪い男に捕まっちまっててさー」
 さすがに俺は頭に来た。
「おい、性質の悪い男ってなんだ。そりゃたしかにミノリは今や、アドルフの片棒を担いでる日蔭者で、絵画に天賦の才能を溢れさせている反面、入浴や家事という、現代生活を送る上で最低限の文化的概念すらも、頭から抜け落ちていて、およそ女子力ってものがこれ以上はないぐらいにマイナスへ振りきっている、見た目も貧相な成人女性だが……って、男? お前、キジトラの恋人が男って言ったのか?」
「ピエールこそ……、何をどう勘違いしたか知らんが、酷い奴だな。保護者面して、あの純粋で才能あふれる、若きミノリ大先生のことを、腹の中ではそこまでバカにしていたなんて」
「けどなあ……いや、なんでもない」
 全部本当のことじゃないか、と思いつつ、これ以上誤解を招くような言動は慎むべきと考え、飛び出しかけた本音を飲み込む。
 アヴリルによると、キジトラちゃんこと、河口テッペイ青年を、最初に彼が乗せたのは、恐らくは俺がテッペイをロワシーからモントルイユのホテルへ送った数日後のこと。その際、車内に残された忘れ物を、アヴリルが空港ロビーまで追いかけ、手渡したのだそうだ。
「忘れ物って何だと思う? 魔法のランプだぜ。俺が言ってるんじゃなく、キジトラがそう言ったのさ」
 意味ありげにアヴリルが、己のこめかみあたりを、人差し指で突いて見せる。人をバカにしているのはどちらだと思う。
「ああ、魔法のランプね」
 俺が軽い調子で応答を返すと。
「ツッコミはないのか……まあいい」
 寂しそうに受け継いで、アヴリルは話を続けた。どうやらシャントルーヴで吸血鬼に盗まれたという彼の魔法のランプは、夏前からずっと本人が持ち歩いているものらしかった。
 とにかく、テッペイとアヴリルが再会したのは、ロワシーで彼を降ろしてから数時間後。悪天候の為に東京行きの便が欠航となり、途方に暮れていたテッペイは、魔法のランプを手に持ちながらロビーをぼんやりと歩いていたのだそうだ。そしてアヴリルは、再びテッペイを乗せてパリ市内のホテルへ案内した。その際に、どうやらテッペイの方から連絡先を聞かれたらしく、以後、ときおり電話が架かってくるようになり、アヴリルのキジトラは彼のお得意様になったのだそうだ。
 愛想がよくて商売上手なアヴリルは、折に触れこうして積極的に顧客開拓をしている。今のところ、夜更けに警察が突然やってくることはないようだからいいものの、彼とて適正料金を大幅に上回る乗車賃を受け取って車を走らせているのだ。俺ならたとえ電話番号ひとつであっても、身元を客に明かすような真似は絶対にできない。危なっかしいと思う反面、これもアヴリルの温和な人柄が客に警戒心を抱かせないからこそ、できる強みなのかも知れない。
 ともあれ、今やアヴリルお気に入りの子猫ちゃんことテッペイ青年は、アヴリルに電話を架けては迎えに来てもらい、毎回パッサージュブラディで降りるわけだ。
「行きつけのカレー屋でもあるのかもな」
「俺も考えたんだが、飯を食いに来るだけっていうなら、ここからまたどこかに連れて行っても良さそうだろ? けどさ、いつもここへ連れて来させるばかりなんだよ。ってことは、ここには誰かを訪ねてきていて、そいつが車を持ってるんじゃないかと思ってさ」
 なるほどと俺は思う。
 パッサージュブラディに住むその相手が、それなりに忙しい人物だから、迎えに来させることはないが、そいつの都合に合わせることで、あとで送ってもらうことはできるという可能性は考えられるだろう。あるいは、テッペイの住居がこの近くにあって、送ってもらう必要がないか……もしくは、単純な話で、テッペイもここに、男と住んでいるのか……。
 いずれにしろ。
「つまり、その相手がテッペイの恋人ってことか?」
 アヴリルの話が漸く繋がった気がした。
「そういうこと。……おっと、噂をすれば、だぜ」
 ずっとアーケードに向けられていたアヴリルの視線が、不意に動き出した。振り返ると、先ほどと同じ恰好でテッペイが出てくる。そのすぐ後を、背の高い白人の男がついてきた。俺は目を見開き、アヴリルを即座に凝視する。
「おい……まさか、あいつがそうだっていうのか」
 アヴリルが軽い目配せで、俺の質問を肯定した。俺は再びアーケードへ視線を戻す。
 純朴そうな日本人青年と、その華奢な肩を抱き寄せながら、サンドニ門方向へ向かう、イカレ野郎の二人連れ。頭にターバンを巻き、ノースリーブの腕に”so−ryann−se”という、意味不明のタトゥーを掘っている、ゲルマン系の男が、大人しい青年へ話しかける様子は賑やかで一方的に見える。二人が本当に恋人同士かどうかはわからないが、ひとまずアヴリルの話を聞く限りにおいて、ミノリよりは親しいだろうと理解した。テッペイに二股を架けるような器用さは似合わない気がしたし、それであればミノリの恋のライバルが、よりにもよって頭のおかしい雑貨屋ということなのかもしれないが、いずれにしろ、ミノリからはっきりとテッペイへの恋心を確かめたわけではないため、憶測の域を出るものではない。ミノリが何もいわない限り、知る術はないだろう。
 その後アーケードのレストランに入り、アヴリルとカレーを食べる。
 ミノリから聞いていたモンソー公園付近の『パゴダ・ルージュ』について話を振った。
「ああ、あの辺なあ……昨日も通ったばかりだが、ちょっと危なくなってるよな」
 サイドメニューのサラダからアスパラを摘まんで口へ放り込みつつ、アヴリルが言った。俺はナンで銀色の皿の底を撫でまわし、グリーンのカレーで生地を浸しながら問い返す。
「何が危ないんだ?」
「客からチラホラ耳に入ってくるんだけどさ、最近あのあたりをしょっちゅう、中国人達のグループがうろついてるらしい」
「あの赤い建物が中国人のものなんだろ。だったら中国人がいても普通じゃないか?」
「そりゃあ、その中国人がカタギだったらな。暴力沙汰や誘拐、薬物売買なんて事件が頻発してりゃあ、まともとは思えないだろ。付近にたむろしてる中国人達も、ヘタすりゃ中国マフィアかもしれないって疑うのが、あたりまえじゃないか」
「なんだか、物騒だな……」
 思いもよらない話の展開に、頭が付いていけなくなっていた。
「単なる噂だよ。俺だって証拠があって言ってるわけじゃない。だが、ミノリが一人であのあたりに行くっていうのは、もうやめたほうがいい。何かあってからじゃ遅いぞ」
「忠告しておくよ」
 昨夜もどこかへ行くと言っていたが、ひょっとしたらもう一度パゴダ・ルージュへ行っていたのだろうか。とりあえず、ちゃんと家に帰っているかどうかの確認を兼ね、このあとミノリを訪ねて忠告しておこうと考える。
 もともとC.T.ロー商会の持ち物だったパゴダ・ルージュは、アヴリルによると、つい最近までアンティークショップだったようだ。バイ古美術商店という所有者に代わっており、この会社とC.T.ロー商会の関連性は不明。ともあれ、半年前に持ち主が帰国したきりになっており、店も閉まったままだとアヴリルは言っていた。
 店には元々中国人留学生が多く出入りしていたようだが、彼らによって、やや物騒な事件が店の近所や近くのモンソー公園で起きており、周辺住民も眠れない夜を過ごしているのだという。あくまで伝聞にすぎないとアヴリルは前置きしていたが、はっきりしない間は、確かにミノリを近づけない方が良い。
 ひとまず本人の無事を確かめるため、一時間ほどで店を出た俺は、パッサージュブラディでアヴリルと別れ、一人でモンマルトルへ向かった。だが、部屋は留守か、あるいは住人が深い眠りに落ちていて、応答がない。無事を確かめられなかったため、今度はシャンゼリゼへ向かう。アドルフに事情を話し、ミノリに連絡を取ってもらいつつ、アヴリルから聞いた話を伝えて、今後一人でパゴダ・ルージュへ近づかないように忠告してもらおうと考えた。そして到着した俺は、フルニレズの前でミノリと鉢合わせる。手には青く細いリードを握っていた。
「おじさん、今日は早いね。いや、最近だと、遅いのかな……今って仕事休んでるんだっけ。それとも仕事の途中?」
「仕事は再開して、今は途中だ……っていうか、お前何やってるんだ?」
 手元を見ながらミノリに訊く。細いリードの先には白い塊が不機嫌そうな顔をして繋がれている。
「モンブランの散歩。最近、運動不足みたいだからさ。ちょっとその辺歩いてきたんだ。今帰って来たところで、これからコーヒー淹れようとおもってるんだけど、おじさんも飲む? そろそろオーナーも起きてると思うんだけど」
 ミノリが促し気味に尋ねてくる。
「いや、いい。ちょっと寄っただけで、まだ仕事があるんだ」
 そう告げると、俺はそのまま車へ戻り、空港方面へ走らせた。パゴダ・ルージュの件を伝え忘れていたことには、すぐ気が付いたが、ひとまず本人が無事だったようなので、わざわざ戻って伝えるほどのことでもないと判断した。それよりも、昨夜の今日でアドルフを目の前に、落ち着いてコーヒーを飲める気がしなかった。



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