朝が遅いアドルフを敢えて起こすことはせず、早朝のうちに俺はアパルトマンへ戻った。玄関ホールで妙な視線を感じたが、振り返っても誰に見られていたのかがわからない。新聞を小脇に抱えたビジネスマン風の男が、足早に歩いていき、反対側から子犬を散歩している老婆がゆっくりと通り過ぎる。俺はそのまま上へ向かった。
五階のエレベーターホールや部屋の入口には、黒サングラスと黒スーツで正体を隠した、体格の良い男達が複数立っており、玄関前にいた筈の、制服姿の警備員が消えていた。少々怒りを感じつつ部屋へ入ってみる。
ひとまず、荒れ放題に散らかっている服や本を少しずつ片付けていき、倒れたテレビを元に戻す。ふと、誰かに見られているような気がして玄関を振り返るが、十センチほど開いた扉の向こうには誰もいない。
「何なんだよ……まったく」
入口の隙間を閉じ、居間へ入ろうとする。
廊下の途中で立ち止まり、不意に玄関へ視線を戻した。部屋へ入るとき、俺はドアにあのような隙間など残していただろうか。だが、何気ない動作のひとつひとつを、いちいち記憶に残していない。とりわけ今は、空き巣に入られたショックで気が動転もしているし、あるいは一刻も早く、被害の痕も生々しいこの部屋を、片付けたい一心で、ドアをちゃんと閉めていなかった可能性もあるだろう。
しかし、アパルトマンの玄関フロアで感じた視線に、今の視線……そして、この扉のすぐ向こうにいた、黒服の男達。ひょっとしたら犯人はまだ、この建物に、俺のすぐ傍に、息を潜めてこちらを観察しているのだろうか。
俺は大股で廊下を逆戻りすると、いっきに扉を開放して廊下へ飛び出した。
誰もいない。
昨夜の警備員が戻ってきていることもなく、さきほどまでいた黒スーツ達もまた、姿を消していた。静かにドアを閉じる。
それを閉め切ろうとして、ドアノブが破壊された重たい扉が、不安定に揺れ動くさまに俺は気が付き、木の縁から手を放すと、扉は勝手に手前へと戻ってきた。そして一分程度の時間をかけながらゆっくりと動き続けた扉は、十センチほどの空間を保った状態で漸く静止する。その様子を見届けた俺は、再び居間へ引き返した。警備員のことや、黒服連中の正体など、釈然としない事は複数残っていたが、一人で考えていても仕方がない。
少しだけカーペットが見えてきた居間の中央へ膝を突き、足元から何かのプラスティック破片を拾う。掃除をしながら改めて確認してみるが、やはり何も盗まれた物はなかった。
アドルフが言った通り、俺に恨みを抱く何者かの、盛大な嫌がらせということだったのだろうか。だとすると、誰だ? パッと考えて思い当たる人物は、マルセル・ランドリューしかいない。
マルセルは二十一歳の美大生で、アドルフの元恋人であり、贋作絵画ビジネスのパートナーだった。だが、あるときマルセルはアドルフを裏切り、金と商品を持ち出して逃亡した。俺はそんなマルセルが許せなかったが、その後マルセルは俺を陥れ、連続殺人犯の生贄にしようとした。アドルフは、自分とマルセルのトラブルに俺が巻きこまれたと気にしたが、俺にはそうは思えない。
マルセルは恐らく未だに、アドルフを思っている。そして傍にいる俺を、疎ましく感じている筈だ。
あらかた居間の足元を片付けて立ち上がり、そこからキッチンと寝室を見てウンザリする。殊に、キッチンの惨状は目も当てられなかった。
壁の時計を見ると九時を十分ほど過ぎている。ちゃんと時間を確認していたわけではないが、二時間半ほど掃除していたことだろう。
中途半端な姿勢を続けたせいで、早くも悲鳴をあげそうになっている腰の筋肉を何度か伸ばし、先に寝室へとりかかろうとして、入口に落ちているひしゃげた枕へ手を伸ばしたところで、電話が鳴った。アドルフからである。
『何を考えているんだ!』
受話器をとるなり、珍しく興奮した口調でそう怒鳴ると、一人でアパルトマンへ戻ったことを無謀だと叱責し、続いてここを動くなと言い置いて電話を切った。そして十五分足らずで、本人がやってきた。通勤時間帯をいくらか抜けたとはいえ、週明け午前中のシャンゼリゼから、どのような速度でケイマンSを走らせてきたのかを考えると、彼の運転の方こそよほど無謀だと俺には思えた。
使い物にならなくなったシーツや枕をゴミ袋へ押し込んでいると、玄関口からざわつきが聞こえ、アドルフが入ってくる様子が見えた。彼の後ろに、もう一人誰かがいる。
「紹介する。探偵のレイモン・バローだ」
アドルフの背後から顔を覗かせたレイモンが、手にした新聞を振りながら、ニッコリ笑って俺に挨拶をしてくれる。どこかで見た顔だと感じたが、よく思い出せない。
「話に聞いて想像したほど散らかってないと思いましたが、キッチンはエライことになってますねえ」
レイモンは居間を歩きまわりつつ、丸めた新聞でスーツの肩をポンポンと叩きながら、キッチンの入口で足を止めてそう言った。
「二時間半かけて居間は掃除したんだよ」
「そうみたいですね」
さして驚く様子も見せず、レイモンが軽く受け流す。
視線の先は、入口を解放したままのバスルーム。比較的被害が少なかったそのスペースへ、俺が一時間かけて作り上げた満杯のゴミ袋が、四つも溜まっていた。なるほど、観察力の確かさは、探偵の肩書に見合っているようである。
「犯人がどんな奴かもわからんというのに、一人で戻るなんて、何を考えているんだ」
まだ憤慨の収まらない調子でアドルフが頭を掻きながら言った。
いつもなら襟足で纏めている薄金色の長髪が、窓から差し込む午前中の陽射しの中で派手に踊り狂い、透けながらキラキラと輝いた。服こそいつもの黒シャツと細身のレザーパンツだが、髪を纏める時間も惜しんで駆けつけてくれたのだろう。そう思うと、申し訳なさが心に募った。
「鍵もかからない自分の家を放っておくなんて、落ち着かないじゃないか」
「そのために警備員を呼んでやっただろう」
「その警備員だが、今朝は蛻の殻だったぞ」
彼の細かな気遣いや俺を思いやってくれる気持ちは痛いほど伝わった。だが、事実は事実として言いかえす。何より、依頼主であるアドルフには、この一件をもってして警備会社へクレームを申し入れる権利があるだろう。
だが。
「蛻の殻だったわけじゃない。集合住宅という点や悪質な事件性が高い事実を考慮して、警備スタイルを変更してくれたんだ」
既に警備会社から連絡を受けており、アドルフが承知した上でのことだったらしい。
アパルトマンでロゴ入りジャンパー姿の男が入口に立っていれば、人目について仕方がないし、戻って来るかもしれない犯人が逃げてしまう。逃げたきり二度と来ないなら、それはそれで結構なことだが、そんな保障はどこにもない。
そして同時にアドルフが調査を依頼していた、探偵のレイモンとも話し合った結果、少し離れた位置から私服の警備員に部屋を見張らせるスタイルへ変更したらしい。
「それって、まさか、あの黒服の……」
「さあな。服が何色かまでは聞いちゃいないが、とりあえず元刑事の連中が来ていると聞いている」
恐らく黒スーツと黒サングラスの男達のことだろうと思った。元刑事というなら、あの体格の良さも理解ができる。そしてアドルフは、彼らから連絡を受け、俺が戻っていることを知ったのだという。
つまり、俺が自分の部屋で感じた視線は、やはり彼らのものだったのだろう。廊下へ飛び出したときにいなかったのは、恐らく通りの公衆電話あたりからアドルフへ連絡していたためだったのではないだろうか。
「ありゃりゃー、こいつはいけませんね」
半分引き剥がされているカーテンの後ろを探っていたレイモンは、黒っぽい何かを指先へ摘まみながら、俺達の元へやってきた。
「フック……いや、ちょっと待てよ……」
「無線型の隠しカメラですよ、ラスネールさん」
どう見ても安っぽいフックに見える小さなプラスティックを突き出しながら、レイモンはそう言った。
「何だと……!?」
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