流暢なフランス語を操り、色白の肌と灰色の瞳を持つ男は、一見したところ田舎から出てきたが、標準語に慣れているフランス人といった感じだったが、よくよく顔を見ると、僅かにアジア系の血が流れているように見えた。
 普通に考えるなら、所謂タクシー強盗の類かと思うところだが、パリ市内に入り、セーヌの南岸と北岸を行ったり来たり、ブローニュの森へ行ったかと思えば、モンマルトルまで戻り、次にはヴァンセンヌの森まで行ってみたり、ヴェルサイユ宮殿の周りをだらだらと5週も走らせたりと、男の指示は滅茶苦茶のように感じられた。しかも使う道路は、殆どが入り組んだ裏通りばかりである。
「なあ、もしもアジトの住所を突き止めさせない為に、闇雲に走らせてるって言うんなら無駄なことだぞ。自慢じゃないが、俺はこの仕事が長い。パリ市内に知らない道なんてないからな」
「次の交差点で、右折してください。……そろそろ、あっちも諦めたみたいですから」
 言われた時点で指示を出し、クレベール通りから凱旋門方向へ向かいつつ、ルームミラーへ目を走らせる。そして漸く気が付いた。後続車両が完全に消えていたのだ。いちいちどの車が付いて来ているかなど気にしていなかったが、どうやら何者かがこの車を尾行しており、それを撒くため、今まで市内を走りまくっていたらしい。
 ということは、この青年は誰かに追われているのか、あるいは俺自身が気付いていなかっただけで、アドルフの差し金によりレイモンが事務所の人間に車で後を付けさせていた可能性がある。もしも後者だと、俺はつい先ほどまで守られていた保護の網から、自分のハンドル捌きによって、みすみす飛び出してしまったということになる。己の悪循環ぶりに情けなくなってしまう。
「この辺で、適当に停めてください」
 男がそう言ったのは、クルセール通りからモンソー通りへ入った直後の事だ。このあたりはパーキングになっており、空いた場所を見付けて駐車するように指示される。
 ノロノロと車を動かし、アパルトマンの前あたりに、一台ぶんだけ空きスペースを発見して、俺はエンジンを止める。そこで俺の意識は途絶えた。

 

「亀……?」
 目が覚めると、まず最初に視界に入ってきたのは、絨毯の上でじっとしている、大きな亀だった。
 普通の亀ではない。楯の様に立派な甲羅を、金やルビー、サファイヤ、ダイヤモンドといった、煌びやかな宝石で飾られている、豪華絢爛で人工的な亀だ。東洋風の絵柄を持つ豪華な敷物の上でにゅっと首を突き出し、こちらを観察しているように見えるその生き物のことを、有名な小説の中で俺は確かに読んでいたが、いったい誰が書いた何と言うタイトルの狂った本だったか、なかなか思い出せなかった。
 リアルなその亀が、果たして小説通りに生きているのかどうかを知りたくて、俺は上半身を動かすが、直後に襲ってきた激痛により、再び絨毯へ沈没した。同時に自分が置かれた状況を知り、激しい怒りと羞恥に見舞われる。手足をそれぞれに縛られた俺は、身ぐるみを取り去られ、剥き出しの下半身すら、隠せない状態で床に転がされていたのだ。
「痛っ……たた……、畜生っ…………!」
 襲ってくる痛みに悶絶するが、自由と尊厳を奪われた身体では、患部である後頭部を庇うことも出来ない。視界がみるみる、痛さによる涙腺の緩みで曇り、それがアパルトマン前のパーキングへ駐車したとき、背後からハンドガンのグリップで頭を殴られたせいだと徐々に思い出す。敵は拳銃を持っているのだ。
 身を捩りつつ視線を巡らせ、室内を確認する。
 花模様の美しいカーペットを隅々まで敷き詰められた部屋は広々として、高さがある。天井から吊るされた照明器具は、朱色の傘と金色の房を持っており、壁を縁取る木枠や柱も朱塗り。壁紙へ竹林や白木蓮と共に描かれている人物たちの衣装は、まるで中国の宮廷人を思わせる。ここはまるで中国だ。
 だが、俺はついさきほど、シャルル・ド・ゴール空港で客を拾い、拳銃を突きつけられて、昏倒させられた。車を停めた場所は、クルセール……いや、モンソー通りのパーキングだ……では、一体ここは?
 記憶を手繰りよせつつ、さらに視界を巡らし、姿勢を変える。そしてうつ伏せになりながら顎を上げ、その先にある物を見付けた。
「サロメ……。でも、なんで……?」
 五十号サイズのパネルに収められた水彩画は、つい先日見たものと同じ。一見するとギュスターヴ・モローの有名な『出現』であるそれは、一箇所だけ実物と大きく異なる。その違いは、ファム・ファタルであるべきサロメという女の、大いなる矛盾で……だが、なぜこの絵がここにある……!?
 その時、足元から……つまり、この『サロメ』が架かっている壁の、向かい方向から扉が開く音が聞こえ、俺は視線を向けた。咄嗟に股を閉じ、膝を寄せてしまったことは、無意識のうちの、条件反射だろうと思う。その瞬間、視界の端でカーペットの上を何かが動き、置き物だと思っていた亀が生きていることを知る。例の小説によると、このような目に遭わされた哀れな亀は、数日のうちに死ぬことになる。
 部屋へ入って来た人物は、逆光になっていて顔がよく見えなかったが、生憎というか、案の定とでも言うべきなのか、次の瞬間に聞こえてきた声により、その正体がまもなく判明した。
「やあ、ピエール。ご機嫌いかが?」
 弾むような足取りと、明るく若々しい透明感のある声。そして見なくともよく知っている、愛らしい容貌は、知己のそれらしく軽やかで親しみを込めた挨拶とともに俺に近づき、やや身を屈めながら腹の立つ程度に懐かしいその笑顔を見せた。
 幾らか伸びた栗色の癖っ毛に、大きな鳶色の瞳、男の保護欲を常に刺激してやまない頼りない身体付き。それはアドルフが雇っている男娼達と同じような類の、未発達な世代特有の美しさであり、その彼らの中にいてさえ、群を抜いて目を引かずにおれない輝きと色気を持っていた。なぜなら、彼の様な美しさが、アドルフが本来求める性的志向の理想形であり、目の前の人物こそが、ついこの間までアドルフの恋人だったのだから、当然だろう。
 こうして考えると、ここにいるマルセル・ランドリューがアドルフと付き合っていたことは、しごく当たり前なのかもしれない。若く、愛らしく、色っぽく、男を惑わさずにいられない……サロメのような。
「よお、いると思ったよ」
 万感の思いを込めて、俺はマルセルに告げた。対峙する美貌はただでさえ大きな瞳を、零れ落ちそうなほどに見開く。
「嘘っ! すごい勘だね〜。ひょっとして、ずっと僕に会いたくて、密かに期待しちゃってた? だとしたら、ここに僕がいるのは、実はあなたの強い執着心へ、僕こそが引き寄せられちゃったってことかな……フフフ」
「そういうことかもな。とても会いたかったぜ、ハニー」
「あはは、どうしよう〜。裸の男に求められちゃうと、身体が熱くなっちゃうかも。で、そんなピエールは、会いたくて仕方がなかったこの僕に、一体何がしたいの?」
 目の前に華奢な腰を降ろし、下肢をしどけなく絨毯へ伸ばしながら、マルセルは見おろしてきた。白く細い指先が俺の頬を撫で、顎先でピタリと止まる。下から見上げると、襟の開いたシャツから伸びる、ほとんど喉仏が目立たない首は、どんな世紀の美しき大悪女たちよりも魅惑的で頼りなく見える。
「そうだな、そのほっそりとして、吸いつきたくなる滑らかな首を、力まかせにへし折ってやりてえよ」
「わお……ゾクゾクしちゃう。だったら、僕はあなたの物にむしゃぶりついて、入れたり出したりしながら、思いっきり食いちぎってあげる」
 そう言いながら、ひんやりとした固いものを、敏感な内腿に当てられる。見下ろすと、俺の下肢へ伸ばされたマルセルの右手には、リボルバー銃がしっかりと握られていた。恐らくはここへ連れて来られる間、男が俺を脅し続けていた例の拳銃だろう。黒いボディには、 『STURM RUGER』という社名が見てとれる。
「そいつは、ぞっとしねえな」
「フフフ……そっちこそ。いくら僕が迫ったところで、どうせあなたのココは、反応なんかしないくせに」
 銃口に晒されて縮こまった局部に、触れそうで触れない……そんな距離だ。
「そう言うお前が本当に迫りたいのは、俺じゃなくてアドルフじゃないのか? 正直に言えよ、俺が憎くて仕方がなかったので、性懲りもなく、手の込んだ嫌がらせをしてみましたって」
 ハンマーは落とされている。果たしてシリンダーには、357マグナム弾が詰まっているのか、詰まっていないのか……。
 挑発を受けたマルセルの美貌が、すっとその目を眇めた。そうすると、笑みが一瞬消えたようにも見える。
「否定はしないよ、僕からあの人を奪ったあなたなんて、滅茶苦茶にされたらいい……」
「やっと本音を言ったか。それであんな空き巣紛いの真似や銃を突きつけて誘拐までするなんて、いよいよ重犯罪者になっちまったな」
 僕はずっと本当のことしか言っていないけどね……そう言いながらマルセルが立ち上がると。
「確かにルイにはちょっとあなたを脅して、ここへ連れて来てもらったけど、空き巣って何のこと? まあ、いいや……好きなだけ言いたい事を言っておくんだね。そうやって、強気でいられるのも、今のうちだからさ」
 ルイというのが、俺にGP100を突きつけてきた青年の名前なのだろうか……。
 立ち上がったマルセルが一歩後ろへ下がる。そして初めて、彼の背後に別の人物が立っていることに気付いた。



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