「桂林を流れる川。母の生まれ故郷……子供の頃に、一度だけ行った場所」
つまり、アンシーはああやって目を覗きこむことにより、彼が思い描く光景を、一方的に相手へ送りつけることができるというのか。
「お前……何者なんだ」
「僕はアンシー・ショー。パリにいくらでもいる、中華系移民。パリ生まれのパリ育ちで年齢は二十歳」
「そういうことじゃなくて……」
思っていたより、やはり大人だった。
「コレージュにだってまともに通えなかった、外国人の一人。幸いこんな僕でも興味を示してくれる人が少なくはなくて、一晩言う通りにしたら、それなりにお金は稼げる。相手が変態だったら、結構散々な目に遭わされるけど……。だから僕の特技は男を性的に満足させることと、今みたいにビジョンを相手に送りつけること……」
「超能力者なのか」
実際にそんな存在がこの世にいるとは信じ難いが、目の前でこうした体験をすれば、認めるしかあるまい。アンシーが持つ能力が、なんと呼ばれるものかは、皆目見当もつかないが。
傍らに立つ美貌が、柔らかく微笑んだ。
「そういうことになるのかな。……よくはわからないけど、母方の家系には、同じような力を持っている人が、母も含めて何人もいる。こんな能力が一体何の役に立つのか、みんなわからないって言ってるけど。ああ、でもフーチェンは違うかな……それなりに、仕事へ役立ってるみたいだから」
「フー……誰の事だ?」
それまで綺麗なフランス語を話していたアンシーの発音が、そこだけまるきり中国語だった。俺は正確に名前を聞きとれないでいた。
「シャオ・フーチェン。一回り違う兄だよ」
「兄貴がいるのか」
一回り違うということは三十を過ぎているのだろうが、アンシーの兄弟なら、やはり中性的な美人なのだろう。寧ろ、幼さが残るアンシーとは違い、成熟した色気と美貌をその身に溢れさせているのかもしれない。そしてアンシーのように、身体にぴたりと張り付く、ドレスのような中国服を身に纏っているのだろうか。やはり相手に能力を発揮するときには、同じように、まるで口づけるのかと思うほど、美貌を間近に寄せてくれるのだろう。機会があれば、会ってみたいものだ。
今度こそゆっくりと、兄だと言う人物の名前を発音しなおしてくれたアンシーに対して、当たり障りのない応答を返しつつ、その実、俺はこんなことを考えていたのだった。
「うん。北京で公務員をしてるみたい」
自分の兄貴のことを話しているにも拘わらず、随分といい加減な情報だった。
「みたいってお前……なんだか大雑把だな」
すると、アンシーは表情を曖昧に歪ませる。
「まあね……実はあんまり、フーチェンのことはよくわからないんだ。そもそも国の体制が全く違うからね……何をしているんだかも、よく知らない。会ったことだって、ほとんどないし」
「なるほどな」
片やパリで、片や北京。年齢が離れているだけでなく、住む場所もこれだけ違えば、疎遠にもなるだろう。アンシーが言う通り、国の事情だってまるで違う。一党独裁体制の国に雇われている役人ともなれば、移民とは言えパリ生まれのパリ育ちであるアンシーには想像ができないことも少なくないだろう。公務員が超能力をどのように活かしているのかも、俺にはさっぱりわからないが。
いつのまにかカーペットで眠りについていた黒い犬に視線を移す。
躾けによっては番犬は当然として警察犬や軍用犬にもなる、優秀な犬種のドーベルマン。だが、目の前で呑気に転寝を貪る無邪気な姿は、さきほどアンシーが教えてくれたとおりの、未だ幼さが残る人懐こいペットにすぎない。
この犬が俺に圧し掛かり、手足を拘束されて掲げられた尻は、凶暴な獣の生殖器官を受け入れ、激しい交わりに、いつしか俺は夢中になって身悶えた……。カーペットの穏やかな存在からはそんな体験など、とても想像がつかない。
そもそもカラクリを聞いた今では、俺が見た光景はただのイメージに過ぎないということもわかっている。それでも未だ生々しさを脳裏に残す、獣との交尾は、確かに俺を興奮させ、思い出すだけで身体の芯が熱を持ってしまう。一体どうしてしまったというのだろう。
かつてジュスティーヌという伴侶を得た俺は、四十も半ばを過ぎたこの年まで、確かに男として生きてきた。否、いまでさえ自分が女のようにになったなどとは考えていない。だが、アドルフに求められ、受け入れるセックスを経験してからは、今やパートナーとなった彼以外に性交相手を持たない。しかるに、俺のセックスは入れる側ではなく、入れられる側一辺倒となった。
それさえ、俺は悩み、未だにどう受け止めたらいいのかわからずにいる。獣に犯され、そこに快楽を覚えるなど、ましてや論外だ。いや、ゲイかストレートかに拘わらず、普通の人間であれば、獣姦の体験など正気で受け入れられるものではない。
確かにあれは、アンシーが送りつけたビジョンに過ぎないと説明されたが、それでも記憶に刻まれた体験はあまりにリアルで……そこまで考え、何かがひっかかる。
なぜ、リアルだったのだろうか。
再びメイユイを見る。今はカーペットに伏せて見えはしないが、彼女の腹にはやや目立つ乳首が並んでおり、当然だが脚の付け根に雄の膨らみはなかった。俺を襲ったドーベルマンが彼女でないことは確かであり、そもそも行為自体、ただのビジョンだと、たった今判明したばかりである。
ならば俺が感じた、あの激しさは、そして苦痛や快楽は、いったいどこからくると言うのか……本当にあれは、単なる映像に過ぎないのだろうか。
「もしもまだ気分が悪いなら、横になってていいよ」
アンシーが心配そうに眉根を細めて俺を見つめる。
「本当にあれは……いや、お前の能力っていうのは、どの程度の力を持っているんだ」
言いかけて、途中で質問を変えた。
俺が実際に犯されていないことは、さきほどこの目で、感覚で確認したとおりだ。だとすれば、アンシーの持つ能力というのは、映像発信だけに留まらない可能性が高くなる。
仮に目を覗きこむだけで、相手の脳を乗っ取り、視覚以外にも、快感や喜び、あるいは痛みと絶望といった、触覚や感情までも支配できるのだとしたら……。
つまり、アンシーは相手に触れずして、恐怖を与え、拷問することもできるということだ。現に俺は、狂った映像を送りつけられたお蔭で、確かに快感を味わいはしたが、それ以上に犬に犯されるという現象にショックを受け、錯乱しそうになった。
相手の脳を自由にコントロールできるなら、発狂させ、絶望へ叩き落とし、死に至らしめることさえも可能だろう。
目の前のアンシーが、場合によっては、人間兵器になりえるのではないかと、俺が勝手な懸念を覚えていると。
「どの程度って言われても……さっきもいったけど、ただビジョンを送ることができるってだけだよ。それ以上のことは、何もできない」
微かに戸惑いを見せながら、アンシーが細い声で俺の不安を否定する。
「嘘つけよ。だったら、なんで……まあいい」
「言いかけて止めず、ちゃんと質問してみて」
視覚効果に留まらなかった、説明しづらい俺の体験について、アンシーが白状を促す。
アンシーを見た。
彫りの浅い上品な美貌は、相変わらず表情が掴みにくい。だが、言っている内容に、とりたてて含むものは感じられなかった。
俺はもう少しだけ説明を加える。
「つまり……お前にやられたことで、俺ははっきりと感じたんだ……その、犬の粗い息遣いや、体温の変化、押さえ付ける力の強さに、爪で引っ掻かれる痛さ……鳴き声だって聞こえていた」
アンシーがすっと目を眇めた。
「抉られる激しさ、刺激される快感、あまつさえ中に吐き出される、長く終わりの見えない犬の射精……そんな未知の体験に、あなたはめくるめくような甘い快楽を得た……?」
「違うっ……そんなことは言ってないっ……!」
慌てて俺は強く否定するが、首までカッと熱くなった俺の言葉に、大して説得力はないだろう。案の定アンシーは、すっかり俺の本音を見透かしていた。
「いいんだよ、無理に否定なんかしなくて……だって、それは当然のことだから」
「そんなわけない……第一俺は、快感なんて……」
見苦しい言い訳をする姿は、どれほど情けないものだったのだろうか。しかし獣姦による快楽など、俺には到底認めることは出来なかった。それがたとえ仮想現実だったとしても。
ほっそりとした掌が、優しく俺の頬を包む。
05
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