寝室を出たところで、着替えてきたらしいアンシーが待ち構えていた。彼が手に持っていたロープで、またしても後ろ手に拘束される。その意外なほどの手際の良さに、俺は改めて、前に自分を拘束したのも、彼だったのではないかという気がした。
「こっちだよ」
その後アンシーの誘導で俺は屋敷を案内され、背後をマルセルが見張るという位置関係に変わった。この二人だけなら大して手を掛けずに昏倒させることも可能だろうが、こうなるとどこでルイが合流してくるかはわからない。彼もけっして体格が大きい方ではないが、俺よりは身長があり、油断していたとはいえ、一度は彼に気絶させられている。さらに、この屋敷には、他に警備員や体格の良い仲間がいないという保証もない。
さきほど選んだドレスなのだろう、透けるレース素材で作られた白いワンピースは、ウエスト部分で光沢のある水色のリボンで締められ、布地越しに見てとれる、彼の身体の細さが、より一層強調されている。襟はさほど深くはないが、両肩に結ばれた同色のリボンで生地にギャザーが作られており、二点を頂点として、左右に広く肩部分が開いたデザインは、鎖骨が丸見えになっていて惹きつけられる。レースの模様は背中に比べて胸元が凝っており、豊かなギャザーとともに目隠しの役割を果たしているが、一方で、下に何も着ていないアンシーの肌が、そのまま透けてしまう背中は、実に艶めかしく欲情をそそられる。上から下までほぼ丸見えになっている背骨のくぼみなど、抱きついてくれと言わんばかりだ。
ボトムは着替えておらず、チャイナ服のままだが、ぴったりとした腰のラインが形の良い臀部を浮き立たせ、なぜだか目が離せない。さらに可愛らしいドレスに着替えたせいか、アンシーはさきほどよりもずっと華奢で小さく、一層女のように見えていた。
「アンシー、注意しなよ。視姦されてるみたいだよ」
「おいっ、変なこと言うな……、後ろを歩いてるだけだろう……!」
遠慮のない背後の減らず口に抗議しつつ、内心ヒヤヒヤとした。だが、幸いアンシーはマルセルの軽口を相手にしておらず、黙々と歩いていた彼は、漸くある部屋の前で足を止める。
「どうぞ」
最初に目についたものは、一枚の婦人画だ。
頭上で左右に広がる大拉翅(だいろうし)と、右胸元に色とりどりの宝飾を飾っており、目を引く高貴な黄色い生地へ織り込まれたボリュームのある藤は華やかで、この女性の身分の高さが窺える。微かに笑みを浮かべた優しい表情は女性らしさに満ちており、絵から受ける印象は穏やかだ。左右の手はそれぞれ、椅子に置いたクッションと、右ひざへ置かれており、薬指と小指に、アンシーのような飾り爪を嵌めている。ドレスの足元には、女性が履いている靴のヒールだけが見えており、白い表面にもまた、宝石が飾られていた。
油絵によるその肖像画は、扉から入った正面の壁へ、目の高さにあわせて飾られており、絵のすぐ下に置かれたチェストには、幾つかの小物が飾られている。
「これって……」
俺は小物の一つに目を留めて、続いて肖像画の女性が履いている靴へ視線を戻す。
「それは西大后の纏足なんだって」
絵と靴を交互に観察する俺へ、アンシーが教えてくれた。
「西大后って……あの、西大后か? おいおい、本当なのかよ」
恐らくはシルクで作られているのであろう、靴本体部分は、辛うじて足の指から踵にかけてを覆うような薄いデザインだ。ピンク色の布地には、黒い縁取りと、金糸や濃紺の糸で波打つようなラインが描かれ、絡み合う蔓草を思わせるような模様が、生地全体に刺繍されていた。太く高すぎる踵部分には、ピンク色や黄色、水色といったパステルトーンの宝石が、ラインストーンのように張りつけられており、鍵型や環状の模様が描かれている。
それにしたって、子供用かと思うほどサイズが小さい。纏足という文化を知っていて尚、単なるインテリアか小物入れで、実用品ではないのではないだろうと思えてしまう。ましてや、これがあの西大后のものだとは、いくらなんでも信じ難い。
そして俺は、不意に思い出し、隣にいるアンシーの足元を覗きこむ。しかし、先ほど着替えた際に、靴も一緒に履き替えてしまったのだろうか、今の彼は、シンプルな黒のカンフーシューズを履いていた。アンシーがさきほどよりも小さく見えた理由が、漸く判明し、やや肩透かしを食らう。
靴が変わったせいで、直接自分の目で確認できなかったが、目の前の纏足と、絵の中で貴婦人が履いている靴の踵は、さきほどアンシーが履いていたものと恐らく同じだ。つまりアンシーは、この実に可愛らしい纏足を……、あるいは纏足もどきを、服に合わせて履いていたのだろう。さすがにサイズは、倍ぐらい違うだろうが。
そして、これが西大后の履いていた靴だというのならば、この絵の貴婦人こそ、あの西大后ということである。
「失礼だな、模造品なんかじゃない。全部本物だよ!」
真偽を疑った俺を、いつのまにか部屋へ入って来ていたルイが非難する。振り返ると、また凄い目で睨まれていた。
全部……ということは、西大后に関係のある高価な品が、他にもあるということだ。俺は目の前のチェストへ視線を戻した。置かれているものは、子供の靴のように可愛らしい纏足だけではない。
アンシーが説明を続けてくれる。
「この美顔ローラーは、翡翠と真鍮でできている。こっちはローラーと持ち手が瑪瑙。この小さな鏡台は扉を開けると……ほら、中が素敵な絵巻になってるでしょ」
アクセサリーしか入らないような小さな鏡台に付いている扉の摘まみを、指先でアンシーが手前に引くと、金箔で描かれた繊細な山河の絵巻が現れた。一瞬のうちに、アンシーが見せてくれた美しい漓江の情景へと、意識が飛びそうになり、俺は軽く頭を振る。小物はその他に、かぼちゃを象った小物入れや、アンシーや西大后が身に付けているような、色とりどりで華やかな爪飾り、瑠璃の手鏡などがあった。そして驚くべきことには、これらが全てが、かつて西大后が国内外の一流職人たちに作らせた、紛れもない真作だというのである。
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