その晩、最初の部屋へ連れ戻された俺は、結局拘束を解かれぬまま放置された。一時間ほどして、アンシーがリンゴとパンを手に入ってきて、食べる間だけロープを解かれる。もう少し詳しい事情を知りたいと思い、話を振ってみたが、適当に微笑で交わされ、これは犯罪なんかじゃない、安心してほしいと彼は繰り返すばかりで、口を割ることはなかった。儚げな外見と人当たりの良さから、与しやすいだろうと勘違いしそうになるが、案外このアンシーこそが、三人の中で最も頑固であり、意思も強いのだろう。
簡単すぎる食事のあと、トイレに連れていかれ、用を足すとまた部屋へ戻される。そしてすぐに同じように拘束されたあと、アンシーは部屋を出て行った。
ベッドどころか、クッションも毛布もない状態でカーペットに放置され、眠れるわけがないと思ったが、五分もせぬうちに眠りへ落ち、そのまま熟睡する。
次に目が覚めたときのこと。誰かに強く身体を揺すられ思い瞼を押し上げた俺は、自分を覗きこんでいる鋭い目付きと、こちらへ突き出され、上へ向き過ぎている二つの鼻孔に度肝を抜かれた。
「うわっ、うわああ〜っ妖怪っ……ふむむっ……」
次の瞬間、俺の顔は何者かに口と後頭部を手で圧迫されながら、カーペットへ沈められる。
「ばかっ……大声出すなよ……!」
語気荒くも抑えた音量で、非難された。ルイの声だ。相手の手を口元から引きはがしつつ、顔を確認する。
「なんだよお前……夜這いでもしに来た……ぐあっ!」
寝惚けた頭で質問すると。
「誰があんたなんかっ……!」
怒鳴り声とともに、もう一度額を床へ打ち付けられた。大声を出すなと人に言っておきながら、自分が怒りに任せて喚くことへは躊躇がない。つくづく自分本位な坊ちゃんだ。
床へ這い蹲りながら首を横へ向けると、再び鋭い目付きと目が合った。妖怪と思ったそいつは、例の宝石を背負った亀だった。
「お前だったのかよ、まったく驚……、あれ?」
そして今さら、拘束されていないことに気付く。よく見ると、ロープは亀の足の下にあった。亀が解いてくれた……わけはない。
「ほら、早く準備をしろ」
強引に腕を引かれて立たされた。俺は思わず身を捩って抵抗する。
「おい、ちょっと待てよ。何の真似だ……」
ふいに目に入った置時計の針は、五時過ぎを示している。時計が狂っていないなら、俺はざっと五時間ばかり寝ていたのだろう。道理で身体がすっきりしている筈だ。このような境遇で、我ながら太い神経だと考える。
「時間がないんだ。この絵を持って、さっさとここを出て欲しい」
足元に伏せてあった五十号サイズのパネルを、ルイが押し付けてくる。
「ちょっと待て、それはもう少し先だぞ。まずはトラックを手配しないといけない。急ぐ気持ちはわかるが、こんな時間に起こされても、どうしようもない。せめてレンタカー屋が開くまで待ってくれ」
そう言いながら無理矢理持たされた絵を確認する。それはミノリが描いた例のサロメだった。俺は首を捻る。
何を運ぶかは彼らの自由だし、わざわざ注文してきたぐらいだから、この絵にもそれなりの執着心はあるだろう。だが、このサロメに、とんでもなく値が張りそうな他のシノワズリへ匹敵する商品的価値などない筈だ。
「その必要はない。状況が変わったんだ。今すぐこの絵を持って、あんたの車でここまで走ってくれ」
サロメに続き、カレンダーか何かを引きちぎったような、光沢のある裏紙へ、殴り書きにされているメモ書きを渡された。所々が掠れた、ボールペンによるリヨンの住所が、番地まで詳しくそこに記されている。
ルイの声に滲む緊迫した気配へ漸く気付き、彼の顔を窺う。
「何かあったのか?」
「同胞から鉄道部の連中がここへ向かっていると連絡があった。奴らに見つかったら本国にある私財もろとも、全てが差し押さえだ。拘束されれば、身の安全も保障がない。アンシーのことはこっちでなんとかする。だからあなたは、この絵を持って先に逃げてくれ」
何が何やらさっぱりわからなかった。
「ちょっと待ってくれ……つまり、その鉄道部ってのが、お前の爺さんだか親戚だかを追ってる連中で、お前らもそいつらに捕まったらヤバイんだな。けど、どうせ持って行くなら、西大后の絵とか壷とか、高そうなモン運んだ方がいいんじゃないのか? なにも、こんな贋作じゃなくたって……」
「もういいんだよ、ここにあるものなんて、どうだって……どうせ、運び出したところで、どこかでマルセルに横取りされそうだったんだから。アンシーは一生懸命守ろうとしてくれてたけど、俺にとってはアンシーとこの絵の方が、ずっと大事だよ……」
いつものヒステリックな青臭い叫びとは、まったく違う。穏やかだが、きっぱりとした声。愛する者を命懸けで守ろうとする断固たる決意を、俺はそこに見た気がしていた。
「お前、男だな」
そう言って、絵を持っていない方の手で、栗色の髪を掻きまわしてやったら、派手に身を捩りながらルイが言い返した。
「いいから、さっさと行けよ、このエロオヤジ……!」
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