門の外に出た刑事は、俺を連行しながら信号が変わるのを待つと、クールセル通りを横断しモンソー通りへ入って行く。その間に中国人達を収容した大型の警察車両やパトカーが、相次いでパゴダ・ルージュを後にしてしまい、遂に建物前から警官達がいなくなってしまった。
「なあ、いったいどこへ行く気なんだ? 乗って行く車なくなったみたいだぞ?」
 俺が訊くと。
「車ならここらへんだと聞いている。どれが、あんたの車なんだ。教えてくれないと、俺はわからない」
 立ち止って刑事から質問が返ってきた。
「……まさか、俺の車で連行するつもりなのか? そんな話聞いたことないぞ……」
 それとも中国では普通なのだろうか。いや、そんな筈あるまい。
 とりあえず、マンション前に辿りついた為、愛車のベンツを指し示す。
「駐車違反になってるぞ」
「知ってるよ、んなこと! 拉致されてたんだから、仕方ねえだろっ!」
 シールを剥がしてポケットへ突っ込み、先に絵を後ろの席へ放り込むと、運転席に乗り込んだ。続いて、路上に立っている刑事を振り返る。
「どうした。不服申し立てでもするか? 不可効力だと証明できれば、罰金も減点も取り消し可能だと思うが、時間がかかるぞ」
「いや、そいつは別に構わねえよ。素直に払うけどよ……」
「じゃあ、なんだ」
「俺を連行しなくていいのか? あんた刑事だろ」
「なぜそう考える、ムッシュウ・ラスネール」
「だって、さっきフランス警察のID持ってたじゃないか、違うのか?」
「確かにそうだが、正確には俺の身分証明書はこっちだ」
 そう言って、懐から今度は別のIDを示される。さきほどよりも粒子の粗い写真が貼り付けられており、漢字が並んでいる、俺にはさっぱり理解できない内容だった。そして、ふとアドルフの話を思い出す。
「なあ……ひょっとして、あんたのことなのか、中国からパリ警視庁に研修で来てるっていう刑事のことは? ええっと、警視総監のお気に入りだっていう……」
 最後の一言は余計だったかと思ったが、刑事は涼しげな目元を、少し丸く見せただけで、特に気分を害した様子はなかった。
「研修っていうのは、よくわからんが……確かに、俺の帰属先は、もちろん本国の公安部になる。俺みたいな東洋人がパリ警視庁の刑事だと言ったって、あまり信用してもらえないだろう。ゴーチェ警視総監が俺を気に入っているのかどうかはよくわからないが……まあ、楽しい人ではあるな」
 そう言うと刑事は何かを思い出したように、軽い笑みを浮かべてみせた。そして、これ以上自分と話を続けたいのなら、送ってくれないかと言い出したので、俺は了承し、助手席側を開けてやった。漸く刑事の名前を聞きだす。
「シャオ・フーチェン……ってことは、ひょっとしてあんた、アンシーの……?」
 俺が一度で聞きとれず、一音、一音、区切ってアンシーが教えてくれた名前……それが、彼の名前だった。なるほど、刑事なら確かにアンシーが言っていたとおり、公務員である。
「12歳離れていて、あいつがまだ小さい頃に俺は故郷へ戻ったから、殆ど会ったこともないけどな」
「聞いている。疎遠だったらしいな」
 小さい頃に兄と生き分かれたアンシーは、移民として苦しい生活を送ることになった。ろくに学校へも通えず、時には身体を売って生きるしかなかったアンシーを思うと、もしもフーチェンが残ってアンシーを見守るか、彼を連れて帰ってやってくれたらと思わないでもないが、人生なんてどうなるかはわからない。フーチェンにしたところが、今でこそ立派な刑事になっているが、どんな生い立ちだったのかはわからないのだ。他人がとやかく言える問題ではないだろう。
「ああ、桂林で会って以来だからな」
「桂林……それって、てっぺんの丸まった高い山がぼこぼこあって、広く緩やかな流れの川がある、あそこのことか……ええと、何て川だったかな」
「漓江を知ってるのか……まあ、有名な観光名所だからな。知ってても、驚くようなことじゃないか」
「いや、正直に言うとアンシーに聞いた」
「そうか……アンシーが、そんなことをあんたに……」
 戸惑ったような声の調子を不思議に思い、ルームミラーを見ると、俺から視線を外したフーチェンの横顔が、窓の外へ目を向けていた。何かを思い悩むような物憂げな表情が、嫌になるほどサマになっている。少女のように可憐なアンシーとはまた違った美しさだが、おそらくさぞかし美形の血筋なのだろう。
 オスマン通りの流れへ合流し、北駅方面を目指す。
「ところでさ、あいつらって結局、鉄道部とかいう連中だったのか? あの、ルイの爺さんだか、おじさんだかを追ってるっていう」
 俺が訊くと。
「バイ・シャオトンは現在、中国鉄道部で起きた収賄事件で国際指名手配を受けており、彼らはいかにも、鉄道部の差し金だ」
 立場上、守秘義務だの何だのではぐらかすだろうかと思ったフーチェンは、あっさり教えてくれた。
「差し金……ってことは、正確には違うが、まあ鉄道部一派ってことでいいんだよな。でもって、バイ・シャオトンってのが、追われてるルイの身うちなんだろ? 国際指名手配なんて、ずいぶん物騒なんだが、一体ルイの爺さんは何をやらかしちまったんだ?」
「シャオトンはルイの従伯父だが……中国共産党が威信をかけて開通させた北京遼河高速鉄道が、初日の運行で脱線事故を起こした。死者の数は公式発表で35名だが、恐らく実際は300名を下らない。この件で鉄道部長の王樹人(ワン・シュレン)は以後、弁明に追われる日々が続いた。そんなおり、鉄道部副総工程師のバイ・シャオトンが、多額の賄賂を受け取っているというスクープが報じられた。報道したのは中国共産党と反目し合っている反体制派新聞紀元日報。報道によって、日頃の鬱憤が爆発した人民が結集し、各地でデモが起こるようになった。大学では若者達が徒党を組み、それは自然と民主化デモに移行して、まるで数年前に北京で起きた天安門事件の予兆を思わせたんだ。当局はこれに懸念を示し……」
「ちょ、ちょっと待った……なんだか、話がよくつかめなくなってきた。質問していいか? まず、35名と300名では違いすぎる」
 流暢なフランス語による説明に一時ストップを申し入れると、フーチェンはルームミラーの中で軽く笑いながら質問を受け入れてくれた。
「35名というのは、我が国で大規模な事故や災害が起きたときに、当局が必ず発表する被害者数のことだが……そうだな、あんた達の国と俺達の故郷は、あまりに事情が異なる。すぐに理解できなくて当然だ。すまなかった」
「必ず政府が35名と発表するというのか? ますますわからないぞ。実際の被害者数はまったく違うってのに、何のための発表だ。っていうか、マスコミがいるだろうに、どうしてそんな改竄がまかり通る?」
「まあいるにはいるが、マスコミなんて、ほとんど当局の広報部みたいなもんだしな。体制に反旗を翻してるのは紀元日報ぐらいのものだろう。その紀元日報にしたところが、中国共産党と反目し合っている宗教団体が母体ってだけの話だし……とにかく、フランスとはだいぶ事情が違うんだよ。まさかと思うが、我が国に報道の自由なんてめでたい題目があるとは思ってないだろうね? そもそも大規模な事故や災害が起きて、被害規模をきっちりと把握できるだけの体制が、地方の警察や医療機関にあるかも、怪しいのだから、知ろうとすること自体無意味だ。35名と当局が発表すれば、大きな事故があったと覚悟したらいい。それだけのことだよ」
「未開の地じゃあるまいし」
「ひとたび都市部を出れば、そんなものだ。さあ、この話はもういいだろう。訊きたい事はそれだけかな?」
 そう言ってフーチェンが鼻を鳴らす。
 その後、俺からいくつか確認の質問を挟んだのちに、フーチェンは説明を再開した。
 纏めると、華麗なる一族であるルイの従伯父、バイ・シャオトンが関わった事件をきっかけに、中国各地で反体制デモが起こったため、当局はシャオトンの逮捕を命じた。シャオトンは意外にも大人しく観念し、出頭の意思を示したのだが、裁判が始まってしまえば収賄事件に関わった鉄道部の官僚たちの名前が明るみになってしまう。
 特にこれを嫌ったのが、自己の弁明に追われた鉄道部長のワン・シュレンであり、彼は1億元もの賄賂を受け取っていた。鉄道部の解体も免れない大スキャンダルというわけである。検察の手が回る前に鉄道部はシャオトンの身柄拘束を求めて探し回っているのだという。
「つまり、鉄道部の目的っていうのは、その……」
「口封じだろうな」
「ええっと、鉄道部ってことは体制だよな……まさかと思うけど、国家権力が事故責任のある官僚とはいえ、国民を抹殺しようとしてると……?」
 そんな馬鹿なと言いたかった。
「あんたらにとっては信じ難いかもしれないが、我が国ではそう珍しい話じゃない。残念ながらな。……もっとも、体制ったって一枚岩ってわけじゃない。今回の件は鉄道部の暴走に過ぎず、中国共産党が主導しているわけではないし、我々だって彼の身を案じているからこそ、こうして身柄を保護するべく、フランスくんだりまで来ているんだ」
 フーチェンが冷静に弁明する。
「まあ、そりゃあそうだよな……っていうか、ええっと、ルイの親戚を保護するために、あんた来てたのか?」
「そうだが、何か可笑しいか?」
「いや」
 研修というのは、どうやら違ったらしい。アドルフに誤魔化されたのかと一瞬思ったが、恐らくそれも違うだろう。カモフラージュとして警視総監が、あるいは他の警官たちまでをも欺いて、そう説明したにすぎない……そんな気がした。嗅ぎつけたマスコミや身近な人物、場合によっては内通者がいた場合、手のうちを明かしたり、邪魔されたりしないように。
「まあ、こっちに来て、学ぶことも多かったから、結果的には研修させてもらったといっても、間違いではないがな」
「ははは、それはよかった。……ところで、アンシーやルイはどこにいるんだ?」
「とりあえずは、一旦、署に行ったと思うが、正確にはわからん」
「あいつら大丈夫なのか……怪我とかしてないか?」
 鉄道部の差し金である体格のよい男達に取り囲まれながら、俺を逃がしてくれた絶望的なルイの状況を思い出す。勇敢で健気な姿ではあったが、あの状況で怪我ひとつしていないというのは、あまりに虫の良い話だろう。まあ、結果的に保護されたならよかったのだろうが。
「ルイはちょっとばかし争ったみたいで、いくらか痣を作っていたが、それでもあんたみたいに手が血塗れになっていたわけじゃない。まあ、軽傷だ。そしてアンシーは無傷だと聞いている」
「そうか。なら良かった……って、ちょっと待てよ。聞いてるってどういうことだ? だってあんたらが保護したんだろう?」
 なんとも曖昧な言い方に、不安を感じた。
「ああ、署員がな。俺が直接確かめたわけじゃない。さっき言っただろう、アイツが桂林へ遊びにきたとき以来会ってないって。十年前に広州の空港で別れたきりだ」
 俄かに信じ難い発言だった。思わず車を寄せてブレーキを踏む。指示を出さない無謀な操作へ、後続車両から派手なクラクションを鳴らされた。
「おい、ちょっと待てよ! あんた、一体何やってんだよ!? パリに来てるんだろ? アンシーを保護したんだろ? だったら、すぐにだって会えるじゃないか! なぜ、そうしない!?」
「パリの個人タクシーっていうのは、あんな運転をするものなのか? 随分と乱暴だな」
「おい、話を逸らすなよ……何があったか知らないが、兄弟なんだろ? アンシーは少なくとも、あんたを嫌ってる感じじゃなかったぜ。あんなことがあったんだ。今はさぞかし、心細いことだろう。ちゃんと会ってやれよ」
「まったく……おせっかいな男だな。そもそもあんたは、事件に巻きこまれた被害者だろう。実行犯からそんな絵まで預かって……あきれた人だ」
「そうだ……この絵を持って行ったらいい。ルイから頼まれていたんだ、アンシーに渡してほしいって……最初はリヨンの住所へ持って行けって言われてたんだが……まあ、いいだろう。あんたがアンシーに持って行ってやれよ」
 そう言って背もたれの間から手を伸ばし、サロメをフーチェンへ見せる。するとパネルの縁に手を添えながら、なんとも言えない表情をしてみせた。甘いような、せつないような。
「サロメの出現か……懐かしい。ムッシュウ・ラスネール、さきほどリヨンと言ったな。確かにあなたがこれを目的地へ届ける義務はないのかもしれない。だが、一旦、引き受けたのであれば、ぜひ責任を持ってその住所へこの絵を運んでやってはくれないだろうか」
「いや、なんでだよ。ルイはアンシーに手渡してほしいって言いなおしてたんだぜ。なんとなくだけどさ……このサロメって、アンシーに似てるじゃないか。だから、ルイはこれをアンシーにプレゼントしてやりたいってことだろう? だったら、あんたがこれを持って行ってやれよ、兄貴なんだからさ」
「リヨンには母方の親戚が住んでいる。行き場を失ったアンシーは、もうそこに行くしかないんだ。だから、その住所へ届けてくれたら、必ずアンシーが受け取ることになる。より安全な環境でな……すまない、ここで降りさせてもらう。あとは地下鉄を使えばいいだけだ」
 そう告げると、フーチェンはシートベルトを外し、素早く絵を元通り後部座席へ戻してから、本当に車から降りてしまった。俺は思わず助手席側へ身を乗り出す。
「おい、あんた……なんで、そんな頑なに……!?」
「心配するな……この仕事が終われば、いつでも弟とは会える。そして、また漓江を見せてやれる。……この仕事が終わったらな。あと少しの辛抱なんだ」
 そう言ってフーチェンが背を向けようとする。咄嗟に俺は腕を伸ばし、スーツの腕を掴んだ。
「最後にひとつ……! あのさ、どうして俺を捕まえないんだ? 確かに今回は被害者だが、俺が日頃何をやっているのかぐらいは知っているんだろう? あんたは中国人かも知れないが、警察だろうに」
「本当に変わった男だな……わざわざ自分から刑事の腕に縋るとは。確かに今はパリ警視庁に身を置いている。だが、俺の仕事はあくまでバイ・シャオトンの身柄確保と、在仏中国人の保護だ。それ以外に義務はない」
「つまり管轄外ってことか? けどさ、目の前に俺がいるんだぜ? 一時的なもんだとしても、フランス警察のID持ってる刑事が、みすみす悪党を見逃すのかよ」
「そんなことは地元の警官がやるべきことだ。俺の仕事じゃない……なあ、見逃すって言ってるんだが、まだ粘る気か? それとも、あんたも口の悪い東洋の若い男に、罵られて快感を覚える性癖があるのかな。それなら俺も、考え直さない事はないのだが」
 不意にフーチェンがぐっと顔を近づけて来た。俺は反射的に手を放すと、慌てて上半身を引っ込める。次の瞬間、車の外から助手席側のドアがバタンと閉じられた。
「へっ……?」
 もう一度身を乗り出して外を見ると、すでにフーチェンはメトロへ続く、薄暗い階段を下りていた。俺も方向指示を出し、いい加減に流れへ車を乗せると、再び家路へ向かった。
 兄弟の事情とやらは、最後までよくわからなかった。だが、互いを愛し合っているなら、それでいいのかもしれない。彼の仕事というのが、この案件をさしているのか、それともそれなりの節目が来るまでを意味しているのか、それは知る由もないが。だが、漓江へ憧憬を抱いているのは、おそらくフーチェンも同じなのだろう。そしてきっと、二人はいつかその場所へ戻る……そう約束しているのではないか……そんな気がした。



 『La boheme, la boheme <<six>>』下 へ

『欧州モノ』:「La boheme, la boheme」シリーズへ戻る