『La boheme, la boheme <<six>>』下
二日ぶりに帰還したアパルトマンの前には、ランプを回転させているパトカーが数台停まっていた。
「ええと……フーチェンは俺を見逃してくれたわけじゃなかったのか?」
自分の仕事ではないと言っていたから、他の警官に任せることにしたのか、あるいは、先にアンシーとともに保護されたというルイが通報したのだろうか……いや、ルイはリヨンにあるアンシーの親戚の家へサロメを運んでくれと俺に依頼したのだ。そのために身体を張って逃がしてくれたぐらいだから、俺を警察に売るとは考えにくい。だとしたら、マルセルの仕業だろうか……。
とにかく、今出て行くのはマズイだろうと考え、左に指示を出して駐車車両をやり過ごし、このままアルベール・トマ通りまで抜けようとした俺は、後ろから入ってくるパトカーと、前からやってきた真っ赤なシボレー・コルベットで挟み撃ちにされた。慌ててブレーキを踏む。
「どこ見て運転してんのよ、糞オヤジっ!」
ウィンドウを下ろした運転席から野太い声で喚き倒しながら、路地を走るには早すぎるスピードで、派手なスポーツカーがマゼンタ通りに合流していった。改めて対向車がないことを確認して、出るタイミングを図りつつ、よく考えたらこの通りが一方通行であることを思い出す。今更ながら先ほどの逆走車両が頭に来て、さらに目の前で起きた道交法違反を警察が見逃したことにも段々腹が立ってくる。警官達も雄々しいオカマの怒鳴り声へ、呆気にとられて、動けなかったのかも知れないが。
一人で苛々しながら、通りを観察していると。
「おいおい、どういうことだ……?」
後続のパトカーから出て来た制服警官達が、続々とアパルトマンへ入って行くことに気が付いた。さらに、入れ違いで建物から出てきた、私服たちが前のパトカーへ寄り、下ろしてあるウィンドウ越しに無線で会話を始めた。よくよく考えると、チンケなぼったくりタクシードライバーを一人連行する為にしては、随分と物々しい数の警官だ。
忙しない彼らの動きに、いったい何がアパルトマンで起きたのだろうと、暫く車で様子を窺っているうちに、先ほど入っていったばかりの制服警官達が、纏めて建物から出てくる。体格の良い五、六人の男達は、間に誰かを入れ、周りを固めるよう取り囲んでいた。
身長160センチに満たない小柄な少女は、いつものロゴ入りジャンパーを着ているが、ジーンズの足元を縺れさせるようにして歩いている。小柄な彼女は、体格の大きい男達と歩幅が合わないのか、あるいは無理矢理連行される事態に、彼女なりの抵抗を示しているのだろうか……だが、表情を見る限りにおいては、いつもの強気な目の輝きは失われ、警察に捕えられた現実に観念しているようにも見える。
「ピザ屋の姉ちゃんじゃねえか……」
俺は思わず車を出る。すると目の前のパトカーへ彼女が押し込まれる寸前、少女と目が合った。
「チュンリーは渡さない! あんたなんか死んじまえっ……」
これまで俺が、擦れ違いざまに何度声をかけても開かれなかった小さな口が、初めてあからさまに俺へ向かって言葉を発した。
「よりによって死ねとは……」
通りすがりの住人に暴言を吐いた少女は、力任せに後部座席へ押し込まれ、連行した屈強な警官達をも収めた車両は、アパルトマンの玄関前から出て行く。続いて数台のパトカーが後を追った。何事が起きており、どういう事態に転んだのかも理解できないまま、とりあえず部屋へ戻る。間もなくインターホンが鳴り、迎え出てみると渚だった。
「よお……、なあ今さっき表に……」
警察が来ていた理由を知らないか尋ねようとした俺は、どこか青い色で神妙な表情の彼女に気が付き口を噤む。そこにはいつもの朗らかな娘はいない。彼女の隣には、渚より僅かに背が高い女が立っていた。年齢的には俺と同年代ぐらいだろうかと思われる女は、よく見るまでもなく渚と似た顔立ちである。
何も言わない渚の代わりに、肉親だろうと思われる隣の女がこう言った。
「娘がいろいろと、ご迷惑をおかけしました」
そう詫びて、有名な菓子メーカーの包みを差し出された。碌な説明もないまま、逃げるようにして隣の部屋へ戻ってしまう母子と、入れ違いにエレベーターホールからやってくる男。
「ムッシュウ・ラスネールこんにちは」
男は相変わらず手に持っている新聞紙を筒状にして掲げながら挨拶した。俺も探偵のレイモン・バローに返事をする。
「よお」
「調査報告をしようと思って待っていたんですが、警察やバイ母子の方が一足早かったみたいですね」
そう言って気不味そうに苦笑するレイモンを俺は部屋へ促した。