翌日、勤労青年会館でウェイン・バクスター検屍官による検死審問が行なわれた。
被害者の名前はメアリー・アン・ニコルズ。
通称ポリー。
年齢は42歳の街娼で、最近はスピッタルフィールズの簡易宿泊所に住んでいたらしい。
まず、第一発見者である、市場の運搬人夫、ジョージ・クロスが証言台に立ち、次にニール、そして生きている被害者を最後に目撃したらしい、エミリー・ホランドという名の街娼が続いて証言する。
ホランドと被害者は宿泊仲間だった。
遺体発見時刻の1時間半前に、オズボーン・ストリートを千鳥足で歩いているニコルズを見つけたホランドは、一緒に帰ろうと彼女に声をかけた。
だが、宿代の3倍を稼いだが、全部飲んでしまったのだと言って、ニコルズはホワイトチャペル・ロードを歩いて行ったらしい。
ニコルズの前夫だと名乗り出た、印刷工のウィリアム・ニコルズと、被害者の父親、エドワード・ウォーカーも証言者になった。
会館の外には興奮した大衆が押し寄せていた。
今年に入ってから、これが3件目になる街娼の未解決殺人事件であり、2人目の被害者であるマーサ・タブラムが、ウェントワース・ストリートで殺されてから3週間しか経っていない。
地元民の関心が高いのは当然だろう。
そして、これはルウェリン医師、バクスター検屍官の一致した意見だったが、犯人には何らかの解剖学知識があると断言された。
当日の早朝は、バックス・ロウで仮の検死を渋々ながらに担当していたにも拘らず、本日午前にも、再び詳細な検死解剖を行なったばかりの、律儀なルウェリン医師の見解は以下のように続く。
「最初に正面から被害者の左頬を殴りつけて昏倒させ、次に右手で口元を強く押さえて、ナイフで一気に喉元を引き裂いたのでしょう。傷口は犯人から見て右から左・・・つまり犯人は左利き。腹部の傷の深さから考えて、恐らく犯人はあの場で、被害者を解剖しようとしたのではないかと思われます」
俺はあの晩、ルウェリン医師が言った言葉を思い出した。
犯人は間違いなく楽しんでいる・・・解体を。
「っ・・・・・・」
短い呻き声と吐息の間のような低い音が聞こえて、俺はすぐ隣を振り返る。
緩やかに波打つ褐色の髪に縁取られた、色白の横顔が、ヘイゼルの瞳と長い睫を持つ目元に深い苦渋の皺を刻んで、せっかくの美貌を歪ませていた。
ルウェリン医師の検死報告を聞き終わったところで、俺たちは勤労青年会館を出る。
向かった先はコマーシャル・ストリートだ。
一連の事件については、既に各大衆紙が熱心に情報を掻き集めて記事に起こしてくれており、そういった新聞報道を目にして被害者の前夫、ウィリアム・ニコルズがホワイトチャペル署へ出頭したということだった。
そこから被害者の素性が次々と明らかになっていったのだ。
しかし、犯人が誰であるかまでは、大衆紙もウィリアムも教えてはくれない。
死亡時点におけるメアリー・アン・ニコルズの住居は、スピッタルフィールズのスロール・ストリート18番地に建っている『ウィルモッツ・ロッジング・ハウス』だ。
それなら、この界隈のパブへ飲みに行ったり、あるいは客を引きに行ったりしている可能性が高い。
当日夜の目撃証言が伝わっている、『フライパン』という名のパブや、『ウィルモッツ・ロッジング・ハウス』には、昨日のうちに、他の捜査員達が聞き込みを済ませていたようなので、今日はコマーシャル・ストリートを重点的に回ることになった。
「また刑事さんかい・・・やれやれ」
最初に訪れたパブ、『テン・ベルズ』の扉を開けるなり、カウンターのマスターが熱烈な歓迎の言葉で、グラスを磨く手を止めずに挨拶をしてくれた。
ついでに盛大な溜息までサービスしてくれる。
「やあ、マスター・・・」
手を振りながらを挨拶を返す俺の笑顔は、気不味さから引き攣っていた。
何しろ、4月にエマ・スミスの死体が上がって以来、隣にいるアバラインと一緒にここを訪れた回数は、両手と両足の分を足した指の数を、遙かに超えている。
「水を頂こう」
涼しい顔をしてマスターにそんな注文をするアバライン。
「水ねえ・・・・、まあ仕事中の刑事にエールやウィスキーを頼めとは、確かに言えやしませんけどね」
「それじゃあ俺は、アールグレイを・・・」
「そちらのお兄さんはパブに来てアールグレイですか。・・・ったく、缶はどこに仕舞ったかねぇ、この忙しいのに面倒なことだ」
ぶつぶつと文句を言いながらマスターは、カウンターの奥でグラスにミネラルウォーターを注いでアバラインの前へ差し出し、次に後ろの棚の扉から四角い缶を取り出して、紅茶の準備を始めた。
「何だよ、ちゃんとメニューに書いてあるし、お茶っ葉だってあるんじゃん」
文句を言われる筋合いはない筈である。
「俺たちが来たこと自体が、気に入らないんだろ」
そう言いつつアバラインは、ごくりと喉を鳴らしてグラスの水を飲んだ。
あまり目立たない喉仏が、1度だけ上下する。
「ヤードの刑事かよ・・・」
そんな声が聞こえて後ろを振り返る。
しかし、とくに誰とも目が合わず、それはそれで却って嫌な感じがした。
「扉近くにいる、長髪の男のようだ」
アバラインが視線を、後ろからカウンターへ自然に戻しながら低く言う。
言われて出口付近を見ると、赤茶色の長髪に無精髭を蓄え、灰色のハンチングを被った目立つ男が、同じテーブルを囲んでいた数名の男達に挨拶をして、店から出て行くところだった。
「ラスクですよ」
カウンターへ皿に載せたカップを出してくれながら、マスターが教えてくれる。
「ありがとう。これ、砂糖は?」
「先に入れてありますよ。瓶から手を放してください」
「そうなんだ・・・」
マスターに言われて、カウンターに備え付けにされていたシュガーポットから手を放し、そのままカップの紅茶を口へ運んだ。
疲れを癒やしてくれる程度の、ちょうど良い甘さ加減であった。
「それは建築家のジョージ・エイキン・ラスク氏のことか?」
マスターは黙って首を振りながら、アバラインの質問を肯定し、カウンターの下にあった煙草に手を伸ばして、1本に火を点ける。
「警部補もご存じなんですか?」
「名前だけな。たしか住所は、ボウのカクストンだったか」
「ボウ? タワー・ハムレッツより東じゃないですか」
なぜ、こんなところへ飲みに来ているのやら・・・というより、どうしてアバラインが、そんな地域の建築屋を知っているのだろうか。
首を捻りつつ、何気なくカップを持つ。
「ねえ、ちょいとそこの旦那!」
「うわ・・・と、あちぃ、あちいっ!」
今にも舌打ちが聞こえてくるかと思うほど、鬱陶しそうな顔で、マスターが濡れ布巾を差し出してくれたので、ありがたく使わせて貰った。
テーブルに零れた紅茶と、スーツにかかった滴をそれで拭い、原因となった肩のあたりの、派手な羽根飾りを忌々しげに睨む。
「あんたたち、ヤードの刑事って本当かい? 良いスーツ着てるねぇ、しかもそれがよく似合う良い男だねぇ」
俺とアバラインの間へ割り込んできた、けばけばしい女は、俺に頭の後ろの羽根飾りを見せっぱなしにしながら、馴れ馴れしい声でそう言った。
「おい、こら! そこの女!」
要するに、良いスーツを着ている良い男は、アバラインだけだと言いたいのだろう。
俺に対する、このあからさまな嫌がらせは、何の因果だというのだ。
「旦那にとっておきの話があるんだけどさ、聞きたくないかい? もちろん、目一杯サービスしとくよ」
「俺の紅茶を零しておきながら、謝罪もなしか! とりあえず、フレッドからその厚かましい手を放して、いい加減にこっちを向け!」
女の羽根飾りをひっぱりながら言ってやる。
すると。
「しつこい旦那だねぇ、男の嫉妬は恰好悪いよ」
「それは嫉妬なのか、ジョージ?」
「何言ってんすか、フレッドまで・・・。女! お前は俺の紅茶を零した」
「はいはい、紅茶ね。マスター、こっちの刑事さんに紅茶淹れとくれ。代金はパーキーのツケでね」
「そんなこと言ってんじゃねぇ! だいたいパーキーって誰だよ、パーキーに悪いだろ!」
「パーキーはパーキーさ。そんじゃあ一体何の言いがかりつけてんだい。これだから刑事は嫌なのさ、ろくにあたし達を守っちゃくれないくせに、威圧的で、偉そうで・・・の言うとおりだよ」
「ジョージ」
「言いがかりじゃないだろうが。そもそも、人にぶつかっておいて謝りもしないくせに、お前は・・・ん? なんすか、警部補」
俺が声を被せたせいで、女の言葉は最後の方が聞き取れていなかった。
しかし、ひとまず謝罪を要求しないと気が済まず、俺は声高に女へ言い返していたのだが、途中でアバラインに名前を呼ばれたので、視線を女から彼に移した。
アバラインは鋭い視線を女へ注いでいたが、それを一旦俺へ合わせると。
「俺は行くところがあるから、あとは任せたぞ」
そう言って固い物をカウンターへ置いて、まことに突然、扉へ向かって歩き始めたのだ。
俺は慌ててその背中を追いかけて、彼を呼び止める。
「ちょっと・・・意味わかんないんですけど」
「やだよ、まさか! 金貨なんて、あたしホワイトチャペルに来て初めて見たよ・・・」
金貨だと!?
振り返ると女が硬貨を手にして、声を震わせながら、頬を薔薇色に染めている。
不意に肘を後ろへ引っ張られて、つんのめりそうになりながら振り返ると、俺よりも少し低い位置にある彼の端正な顔が、キス出来んばかりの距離に近づいていて、心臓がドキンと音を立てた。
だがヘイゼルの瞳は眼光鋭く光ったまま、横目で女の方向へ注がれており、眉間は縦皺を変わらず深く刻んでいた。
言うまでもなく、とても愛の告白をして貰えるような雰囲気ではない。
「あの女は要注意だ。かならず何かを知っている。話を聞いておいてくれ」
「そりゃいいっすけど・・・でも、フレッドはこれから、どこ行くんすか?」
「俺か? 聞き込みだが、行き先を知らせた方がいいのか」
「じゃあ少しだけ待っていてくださいよ、すぐに終わらせて、俺も一緒に行きますから」
アバラインが少し驚いた顔をして俺を見上げてきた。
こうして見ると虹彩がまた違った色合いに変わる。
本当に不思議な瞳だ。
「お前、そんなに早いのか?」
瞳に見とれていたから、質問の意味がわからない。
「何がです?」
素直に聞き返すとアバラインは、珍しく自分から視線を逸らし、軽く息を吐いた。
やや頬が紅潮しているせいか、その仕草が妙に色っぽい。
人いきれで逆上せているのだろうか。
「ああ、わかっていなかったんだな・・・安心した。俺がなんのために2ポンド金貨を出したと思っている?」
後半の言葉は少しばかり、不機嫌が滲みでているように感じられた。
言われた意味を考える。
「2ポンド!?」
俺は改めて女を振り返った。
カウンターの傍に立ったまま、女はうっとりとした顔で、金貨に頬をすり寄せている。
だが金額を聞くと、それもまあ無理はないだろうと理解した。
そしてアバラインの不機嫌な声の理由も。
「気づいていないようだから言っておくが、あの女は娼婦だぞ。じゃあ、あとは頼んだ」
「ちょっと・・・フレッド!?」
俺の呼びかけを完全に無視して、彼は店を出て行ってしまう。
まったく、何を考えているのやら。
頼んでもいないのに、そんな大金をポンと差しだし、女から事情を聴取してこいと・・・しかも、どうやら金は渋々出しているらしいのだ。
アバラインの思考がまったく読めない。
・・・というか、娼婦に金貨を渡し、俺と二人にした・・・この展開は、まさかと思うが。
俺は今一度女を振り返る。
それなりに熟した女へ年齢を尋ねるのは、自殺行為以外の何物でもないとわかっているから、この先も敢えて質問はしないと思うが、『テン・ベルズ』の落とした照明の下で見る限りにおいては、女王以下アレクサンドラ妃以上といったところだろうか・・・もちろん、気品は夜の貴婦人のそれだ。
「そいじゃ、刑事さん。あたし達もそろそろ行くかい」
女は近づいてくると、艶っぽい目をしながら俺を見上げ、腕を絡めてくる。


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