『マダム・マギーの家』は、ブリック・レーンからオールド・モンタギュー・ストリートに入り、その出口の辺りにある、わりと大きな娼家だった。
正面玄関は狭いが、そこから薄暗く細長い通路を延々と歩かされ、左右に幾つかある扉の一つへ誘導される。
そこへ入ると地下へおりられる細い階段が続いていて、踊り場の向こうにはウェストエンドの高級ホテルかと見紛うような、豪華絢爛のロビーが広がっていた・・・・夢を見ているのだろうか。
「こっちだよ」
ギリシャの神殿を思い起こさせる白い列柱に、中央に据えられた、身の丈ほどもある壺とそれを支える陶器の女神達、天井から釣り下げられた籠に咲き乱れる季節の花々、確実に1トンを超えそうなクリスタルをちりばめている巨大シャンデリア。
ここがホワイトチャペルであることも忘れてしまいそうな、煌びやかな装飾の数々に、呆然と見入っていると、いくらか離れた場所から呼ばれる。
突き当たりに別の螺旋階段が作られていて、その中程に立っていた、ドレスの女、リジーが俺に向けて手招きをしていた。
「ああ、悪いな」
俺は小走りに階段を上がって、彼女へ追いつく。
「広いからちゃんと付いて来ないと、迷子になっちまうよ」
リジーが言っていることも、あながち嘘ではないようだった。
外観もそれなりに大きな建物だと感じたが、そこから想像できるスケールを超えている。
どうやら辺り一帯の建物の幾つかが、こうして地下で繋がっており、現在は別の建物へ入っているということなのだろう。
それにしても、まるで迷路だ。
階段をあがった先の廊下には、また幾つか同じような扉が並んでおり、その一番奥にある部屋へリジーは向かった。
扉を押さえて、彼女は俺を先に部屋へ入れてくれる。
足下には、薔薇の花模様が折り込まれた、毛足の長い青の絨毯。
空間は広々として、高い天井には装飾が多いシャンデリア、花とレースで飾られた天蓋付きの寝台は、大人の男が3人並んでも余りそうな大きさだ。
どこかで焚かれているらしい香は、おそらく麝香だろうか。
自分がイーストエンドにいるということが、信じられなくなってくる。
リジーは先にベッドへ腰を下ろすと、ぽんと隣を掌で叩き、俺にも座れと促した。
「なあ・・・ここまで来て言うのも今更なんだが、・・・その、俺はそういうことをするつもりは全然なくて、お前から話を聞きたいだけで・・・」
立ったまま言い訳を繰り出すと、リジーは青い瞳を持つ目を一瞬だけ丸くした。
「なんだい、だらしない男だねぇ。こっちはあんたで我慢してやろうっていうのに、失礼しちまうよ」
豊満な胸の前で腕を交差させながら、そう言い返される。
「我慢だと? それこそ失礼じゃないか。どうせ俺はフレッドみたいな美男子じゃないよ」
「あんたはさっきから、フレッド、フレッドって、あの綺麗な刑事さんは、あんたの嫁さんじゃなくて上司なんだろう? 随分と馴れ馴れしいじゃないかい」
リジーは立ち上がって丸いテーブルへ向かう。
そこには金色の像の置物、色とりどりの花が活けられた、東洋の絵柄が付いている陶器の花瓶、銀細工のプレートに水差しとグラス、煙草入れなどが置いてあった。
「嫁さんって、お前なぁ・・・まあいいや。彼の方からそう呼んでくれって言ってきたんだよ。俺とフレッドとでは配属も違うが、今は一応、相棒ってことになってるからな。咄嗟のときに、いちいちアバライン警部補なんて呼んでりゃ、間に合うものも間に合わなくなるだろ。あっちも名前で呼んでるし」
香の流れる方角から察すると、その金色の像が香炉なのかもしれない。
リジーはプレートの上からキセルを取りあげると、刻み煙草をひと摘まみ押し込んでマッチを擦り、一服吸いながら今度は椅子に腰掛けた。
「ふうん、そうかい。それが、やけにあんたがあの男にご執心な理由になるとは思わないけどねぇ、そういうことにしといてやるよ」
リジーの顔は、まったく信じていないと言っていた。
「ひっかかる言い方だなぁ。言っておくが、あの人は随分前に結婚しているぞ」
もっとも、間もなく奥さんに先立たれて、今は独り身らしいのだが、話がややこしくなるので割愛した。
「そりゃあそうだろうねぇ、色男だもん。女が放っておかないさ」
「どういう意味だ。お前はさっきから、俺に喧嘩を売っているのか!」
「とんでもない。ただ老婆心から忠告してやろうかと思ってるだけだよ」
「何の忠告だ」
「実は、ここだけの話だけどね・・・」
リジーは急に真顔になると、声をぐっと低くした。
「ああ・・・そうだ、話があるんだったな」
俺も少し前のめりになって、なるべく彼女の声に耳を澄ます。
フレッドはわざわざ大金を出してまで、このリジーを尋問するように、俺へ指示したのだ。
何を知っているのか、しっかりと聞き出さないといけない。
「知らないみたいだから、教えてやろうと思ってね」
「よし、聞かせてくれ」
懐から手帳を取り出し、ペンを持って俺は待つ。
「とっても大切なことだから、よく聞くんだよ」
「ああ、わかったから、早いところ頼む」
そう言って先を促すと。
「男色はこの国では違法なんだよ」
「男色・・・、確かにそうだが」
”homosexual acts”と書きかけていた俺の手はそこで止まり、リジーの言わんとすることを熟考した。
「ああ、一応わかってたんだね。だったら、気をつけなよ。見つかっちまったら、刑事といえどもお縄だよ」
「どういう意味だ!」
そして、今度こそからかわれたのだと理解して、俺は手帳を畳むと、それを床に投げつけながら怒鳴った。
俺とアバラインが男色だなんて、冗談じゃない。
たしかにアバラインは美男だし、憧れていなくもないが、そんな目で彼を見たことは誓って一度もない。
だいたい俺なんかが、相手にされるわけがないのだ・・・。
さすがに憤慨して帰ろうとすると。
「まあまあ、待ちなって。本当に短気な男だね。手ぶらで帰っちまったら、それこそあんたの大好きなフレッドにがっかりされちまうよ」
そう言ってリジーは立ち上がり、机の上の灰皿へキセルの煙草を叩き落とすと、可笑しそうに笑いながら、先に扉へ向かった。
「お前は、どこまで俺を怒らせたら・・・、おい、どこへ行く?」
「人を呼ぶから、このまま待っときなよ。とりあえず、いい加減座ったらどうだい? すぐに怒るわ、落ち着きがないわ、どうしたもんかね、この子は本当に」
「子ってお前、俺は32・・・」
リジーはひとまず部屋を出て行くと、すぐに戻ってきた。
後ろに誰かを連れている。
「入ってきな」
彼女に促されて、少女が一人部屋へ現れた。
15〜6歳だろうか。
どうやら東洋人の血が入っているらしいから、もう少し上かもしれない。
最近そんな子供を、どこかで見かけた気がする。
「その子は?」
「アザミはね、昨日の早朝、殺人事件があった現場近くを歩いていて、怪しい男を見たらしいんだよ」
「本当か・・・」
アザミ・・・そう呼ばれた少女は、やや俯き加減で、恥ずかしそうにリジーの陰へ隠れたままだった。
どこかで見覚えのある顔立ち。
艶やかな黒髪を肩から垂らして、左右の耳の上あたりに、細い束を作り、赤いリボンで留めている。
ドレスは質素で、白いエプロンをしているところを見ると、恐らく彼女は小間使いなのだろうと信じたいが、魅力的な容姿は客の方で放っておかない筈だと感じられた。
化粧をしているようにも見えないのに、唇だけがやけに赤く、なんとなく卑猥な気分になってくる。
俯いていたアザミは、躊躇いがちに、漸く俺と視線を合わせると、はにかむような笑顔を作り、そしてこう言った。
「こんばんは、刑事さん。・・・その、昨日は送って頂いて、ありがとうございました」
少女としては低いそのハスキーな声には、確かに聞き覚えがあり、俺は己の既視感に漸く合点がいった。

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