「顔見知りなら、早くそう言っておくれよ」
リジーがぼやきつつ、さっさと部屋を出て行くと、残されたアザミにベッドへ座れと俺は促した。
そして自分はテーブルの端へ腰かけて、彼女・・・いや、彼を改めて見つめる。
アザミ・ジョーンズ。
正確にはアザミ・ジョーンズ・ナツメというのが本名であり、どうやら亡くなった母親が日本人らしい。
漢字で書くと、『夏目薊(なつめ あざみ)』というのが、日本名になるらしいのだが、どこで切って、どの文字が何と読むのかは、俺にはさっぱりわからなかった。
アザミというのは、どうやら夏の花で、サーシウムのことらしい。
ということは、夏生まれなのだろうか。
可憐な佇まいは、確かに、夏の野に咲く紫色の花のイメージに、ぴったりだと感じた。
昨日は気づかなかった、綺麗にまっすぐ肩まで伸びている黒髪は、恐らく帽子の中へ隠していたのだろう。
「さて・・・聞きたいことは山ほどあるのだが、とりあえず昨日のことから聞こうか。怪しい男を見たっていうのは、本当か?」
手帳を開き、聴取内容を書き留めようとした。
そして先ほど自分で書いた、”homosexual acts”の文字に気がつき、ぐちゃぐちゃとペンを動かしてそれを消す。
まったく、あの減らず口の娼婦め・・・。
「はい。あの晩僕は、救貧院へ戻るためにホワイトチャペル・ロードからベイカーズ・ロウへ入りました。バックス・ロウの前を通り過ぎようとしたときに、話し声が聞こえてきたので、そちらを振り返ったんです。そこには、中年の女性と男が立っていました。・・・何んだか、喧嘩をしているような、声を荒げて言い争っているような雰囲気でした」
「時間は?」
「救貧院へ着いたのが3時10分頃でしたので、恐らく3時前ぐらいだと思います」
ホランドの証言時刻より後だ。
本当だとすると、現状ではアザミが、生きているニコルズの、最後の目撃者ということになる。
「子供が出歩くにしては、遅いな」
「それは・・・ちょっと用事があったので」
アザミは目を逸らした。
気になったが、ひとまずはバックス・ロウの話に集中した。
「なぜ昨日は、何も言わなかったんだ?」
あのときのアザミからは、まったく証言がとれていないし、その後誰からも、それらしい人物がいたと言う話を聞いていない。
「それはその・・・あの刑事さんが、怖くて・・・」
おそらくアバラインのことだろう。
確かにあの晩の彼は、アザミに対して横暴な態度だったかもしれない。
もちろん俺たちにも、貴重な証拠を荒らされたという言い分があるのだが、一般市民のアザミにとっては想像もできないことだろうし、突然現れたスーツ姿の大人に、理由もわからず叱られたという印象しか残らなくても仕方ないだろう。
「まあ、普段は良い人なんだけどな」
とりあえず、そんな言葉でアバラインを庇っておく・・・なんの効果も期待できないだろうが。
「わかっています」
意外な反応が返ってきた。
アザミの顔を見ると、うっすら微笑んでいるようにも感じられるし、無表情にも見える。
「そうなのか?」
「ええ。・・・ちゃんとした理由もなく怒るような人には、見えませんでしたから」
つまり、ちゃんとした理由もなく怒る大人を知っているということなのだろう。
そう考えると、微かに笑みを湛えたようなこの上品な顔立ちが、最初から全てを諦めている人間特有のものにも見えてくる。
ほんの17歳で、それはあまりに悲しいことだ。
「君が見たという男と女について、もう少し詳しく聞かせてくれないか」
俺は仕事に戻った。
「はい。女の人は黒いスカートを履いて、黒っぽい鍔付きの帽子を被っていましたが、貴婦人ではありません。上には丈の長い、明るい色のアルスターコートを着ていました」
黒い色のスカートに、明るい色のアルスターコート。
ニコルズの遺留品は、褐色の綿毛混紡のワンピースに、かなりくたびれた赤茶色のアルスターコート、畝織りの黒いウールの靴下、ペチコートは2枚で、グレーのフランネル地とウール。
8月だというのに、なんという重装備、それも厚手の下着類を着込んでいたものか・・・あるいは、手持ちの衣類をすべて身につけていたのかもしれない。
さらに現場には、黒い麦藁の帽子が落ちており、これもニコルズの所持品だと思われる。
ともあれ、深夜から早朝にかけての暗闇に近い屋外で、街灯の明かりを頼りに、正確な装いを判断することは難しいだろう。
コートを着ていれば、中の衣類がワンピースかスカートなのかはわからないだろうし、色の証言も当てにはならない。
そして黒い帽子というのも、特に珍しい小物ではない。
だが、総じて判断すれば、アザミが目撃した女性が被害者ではないと、否定する要素は見当たらない。
時間帯も、年齢も凡そ合っている。
「男の方は?」
アザミの表情が曖昧になった。
「男の人は暗いところに立っていましたので、ちょっと・・・紳士ではありませんでした」
「たとえば、大体でいいから年齢はどう? 20代か、30代か、あるいはもっと上かとか・・。じゃあ、白人かそうではないかだけでも・・・」
「わかりません」
「ちょっとしたことでもいいんだが。身長は? 体格はどうだった?」
アザミは少し考えるように目を細めて、何もない空間を見つめた。
「女の人より、少し高いぐらいだったと思います。とくに太っているようには見えませんでした」
「少し高い・・・か」
ニコルズの身長は157〜8センチぐらい。
遺留品のブーツのヒールは、3センチ程度だろう。
だとすると、少なくとも相手は160センチより低いとは考えにくい。
・・・少しというニュアンスを、もう少し具体的なものにしてほしいと思い、アザミへ訊き直すと、「このぐらい」だと、上下の空間を両手で区切りつつ、同時に首を傾げてみせた。
なんとも自信のない表情で頼りなかったが、こちらも無理に聞き出しているのだから、仕方がないだろう。
ひとまず、とりわけ高身長や低身長、あるいは肥満体型の男ではないということは、間違いないようだ。
つまり、もっとも一般的な男の体型ということである。
「髭はあった?」
顔の特徴を聞いてみる。
「わからないです・・・ごめんなさい」
アザミは申し訳なさそうに謝ってくる。
「いや、謝らなくていいんだ。こちらこそ無理に答えさせて悪かった」
改めて手帳に走り書きをした、男女の特徴を見比べる。
女の物と比べて男の情報が極端に少ないが、それは男が街灯の照射圏から外れた位置にいたので仕方ないだろう。
女はほぼ、ニコルズで間違いないだろうが、・・・そこまで考えて、改めて気になることがあった。
「君、さっき中年の女と言っていたな」
「はい」
「どうしてそれがわかった?」
女の情報とて、凡その服の特徴しか書かれていない。
たとえば、西洋人なのか、東洋人なのか、目が大きいだの小さいだの、髪の色はどうかとか、服に使った生地がどういうものであっただの、そういった具体的なものではない。
つまり、アザミは比較的離れた位置から、二人を目撃していた可能性が高いことになる。
それで暗い場所に立っていた男の情報が、殆ど出てこないことは当然なのだ。
逆に言えば、なぜ女が中年とわかったのか・・・そちらの方が疑問である。
「声が・・・若い女性のものとは思えなかったので」
「声か、なるほど・・・」
これもまた、絶対的な特徴とは言い難いし、個人差の振れ幅が大きいものである。
それでも、他の条件と照らし合わせると、女はニコルズと判断して、まず間違いなさそうだ。
そうなると、この男が誰なのかを突き止めることが、目下の務めと言えるわけだが・・・改めて手帳の書き込みを見る。
そして溜め息を吐いた。
「あの・・・刑事、さん・・・?」
アザミが不安そうな顔をして、俺の顔を覗き込んでくる。
前のめりになって自分の膝に肘を突きながら、事情聴取をしていた俺は、突然目の前に現れた可愛らしい顔に、驚いた。
やや身を引き、改めてアザミを上から下まで眺める。
なんとも不安そうな顔をした、一見少女にしか見えない少年が、ずっと俺の様子を窺っていた。
俺は見るともなしに手帳のページを捲りつつ、話題をアザミ自身のことに切り替える。
目の前にある、過去に追った事件の記録。
ジョージ・ヤード・ビル、クロッシンガム簡易宿泊所、刺傷39箇所、鈍器で性器を傷つけられ、死因腹膜炎・・・血生臭いキーワードが、徒に網膜の表面を流れていった。
「なぜ、君がここにいる?」
戸惑ったような沈黙があり、視線をアザミへ戻すと、頼りない顔と目が合った。
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