「あの、仕事を・・・」
「男に躰を売っているのか」
「違います。・・・そうしないといけないのかと思いましたが、マダムが僕はまだ若いからって」
マダムという言葉に、一瞬リジーを思い浮かべたが、あの女の品性を考えて、その個性は繊細な配慮とほど遠いだろうと即断する。
どうやら、他にいるらしい良心的な雇用主が、アザミを救貧院から救い出したらしい。
悪い場所ではないのだろう。
「いつ救貧院を出たんだ」
手帳を上着のポケットへ仕舞って、代わりに煙草を取り出し、火をつけた。
「今朝です」
「今日?」
「はい・・・仕事を探すためにスピッタルフィールズやドックの方へ行ってみたんですが、何も見つからなくて。途方に暮れながらホワイトチャペル・ロードを歩いていると、偶然に出会ったマダムが声をかけてくれて、彼女にここへ連れて来られたんです。もちろん、僕は何でもする覚悟だったんですが、ここの人たちは本当に良い人ばかりで・・・」
市場なら5時には仕事が始まるし、港湾労働者なら明け方3時には、皆その日の仕事を貰うために行列を作る。
救貧院を出して貰えるような、朝遅い時間に仕事を貰いに行ったのでは、とうていその日の仕事にありつけるものではない。
安住をさせない為にと、入居時に酒、煙草を没収し、家族と引き離されて、不潔極まる環境の中、汚水で躰を洗わせて、水のように薄いオートミールで食事をさせているわりに、矛盾した話だ。
それにしても、市場の運搬人夫は、それこそアザミの体重よりも重いであろう積み荷を抱えて、広い敷地を何往復もさせられるし、ドックの仕事がそれ以上の重労働であることは、言うまでもない。
アザミのような、少女と間違えられるぐらいに細い躰をした子供がノコノコと出て行って、務まる仕事がある筈もないだろう。
・・・ニコルズらしき女と男を目撃したあの時間帯。
まさかと思うが、アザミは仕事を求めてドックへ行ったのであろうか・・・そして子供は帰れと、追い返されてきたのかもしれない。
だとしたら、中々滑稽である。
俺は笑いを噛み殺しつつ、軽い気持ちで聞いてみた。
「ドーセット・ストリートに、家があると言ったな。なぜ戻らないんだ?」
途端にアザミの顔が曇った。
そもそもあの晩、なぜアザミは家がある癖に、救貧院などにいたのであろう。
そして今も、どうして帰らない・・・?
「家と言っても、しょっちゅう追い出されますから」
家賃が払えず、転々と宿を渡り歩くのは、この界隈ではよくあることだ。
「ドーセット・ストリートには、もういないのか・・・?」
「いえ、まだいるようですが・・・その、僕はいない方が良いみたいなので」
ぽつりとそう言うと、アザミは徐に腰をあげて、そろそろ仕事に戻らないといけないからと断り、さっさと部屋を出て行った。
傷付けたのだと理解し、自分の迂闊さを呪う。
事件のことだけ聞いていればよかったものを、なぜ彼のプライベートにまで立ち入ろうと思ってしまったのだろうか。
アザミが部屋を出て行ってから、煙草をもう1本吸い切って、それから俺も漸く腰を上げた。
これ以上顔を合わせても、気不味い思いをするだけなので、帰り道で会わないことを祈りつつ。
「あら、刑事さん。もうお帰りかい? あの子は?」
階段の途中で、リジーと鉢合わせになった。
「自分の仕事に戻ると言って、先に出ていったよ。色々と協力してくれて、ありがとうと伝えておいてくれないか? お前にも、彼を紹介してもらったことを感謝するよ」
「なんだい、それ。あの子を可愛がってやったんじゃなかったのかい? せっかく二人っきりにしてやったっていうのに・・・」
そう言うとリジーは呆然と俺を見つめて、心底呆れたとでも言わんばかりに、溜め息を吐いてみせた。
少し考えて、漸く言われた意味を理解する。
「可愛が・・・・って、するわけないだろう、そんなこと! 俺は聞き込みに来たのであって、遊びに来たわけじゃない」
「わかってないねぇ、あんた。そんなんだから、いい年して独身なんだよ。あの男前の刑事さんなら、いちいち指摘されなくったって、絶対にそうしたさ」
フレッドならアザミを抱いたと言わんばかりだ。
何を根拠に、そのような妄想をしているのか知らないが、それよりも。
「放っておいてくれ! 俺が独身であることと、アザミを抱かなかったことに、一体なんの関係があるって言うんだ。そもそもお前の発言には、独身者に対する多大な差別意識が感じられるぞ。それとも俺が結婚をしていないことで、何かお前に迷惑でもかけたって言うのか?」
「アザミはきっとあんたに、自分のことを話しちゃいないだろう? だって、ベッドのあるところで二人きりになってるってのに、仕事の話しかしないような男に、自分をさらけ出せる女はいないよ。まあ、独身者全てがあんたみたいに不器用ってわけじゃないだろうから、たしかに独身云々の発言は撤回しとくよ。それでも、あの色男の刑事さんなら、そういうときにどう振る舞うべきなのか、心得ているとは思うけどね」
「要は俺の気が利かないって言いたいのかよ」
「おや、自覚はあるんだね。なら、まだ救いはあるってわけだ」
「けどな、どうしてもお前の発言は承伏しかねる。そもそもアザミは男だろ! なぜあんな格好をさせられているのかは、敢えて聞かないけどな」
「アザミはドレスの着方や髪の結い方、化粧の仕方・・・自分でちゃんとわかっていたよ。あれは初めてじゃないだろうさ」
「適当なことを言うな」
「刑事さん・・・あんた、結婚してないばかりか、女とも縁がないみたいだねぇ。なんなら、ルイーズを紹介してやるよ?」
リジーは急に哀れむような顔になり、そんなことを言い出した。
「どうしてそういう話になるんだか知らないが・・・ルイーズ? お前の友人じゃ、そいつもとんでもないじゃじゃ馬だろう、どうせ」
「料理と洗濯が得意な、気立ての良い女だよ。旦那に先立たれちまってね、息子夫婦が心配して、一緒に住もうって言ってくれてるらしいんだけど、意地張ってホワイトチャペルで花や手芸品売りながら、一人暮らしを続けているのさ。放っておけないだろう?」
「それは確かに気の毒だな。だが、ちょっと待て。その女は一体何歳なんだ?」
「たしか56か、57歳ぐらいじゃないかね」
「俺のお袋よりも年上じゃないか!」
「・・・とにかくさ、またいつでもいいから、アザミに会いに来てやってくれよ。そのときは、もう少しあの子も、打ち解けてくれるかもしんないよ」
「そうだといいんだがな」
最後に見せられた暗い表情が気になっていたが、俺とて、もう一度ちゃんと話がしたいことには違いない。
そして傷つけたのなら、そのことを謝りたい。
すると、突然掌で胴の真ん中を殴られた。
「自信持ちなよ! いざとなりゃ、ズボンに隠してる、とっておきのその大砲で、あの子を良くしてやりゃいいじゃないか! そしたら、すぐにあんたに懐いちまうよ」
「・・・・ぐはっ! お、おまえなあ・・・いきなり鳩尾殴るなよ。しかも掌底ぶち込んでくるなんて、どこでそんな訓練受けてるんだ!」
「ホワイトチャペルの娼婦を舐めるんじゃないよ。護身術ぐらい身につけてるさ。世界一物騒な街で、躰張って生きてんだよ」
「亡くなった被害者達にも、そのぐらいの心得があったら、良かったんだけどな・・・ててて。すげぇ効いた。・・・とりあえず、俺はそろそろ帰るから、あいつによろしくな」
「ああ、ちゃんと言っとくよ。刑事さんも、独り身が寂しくなったらいつでも連絡しとくれよ」
「・・・そしたらどうなるんだ」
どうせまともな回答は、返ってこないのだろうと予想し、先に階段を下りながら、何気なく聞き返す。
「もちろん、ルイーズを紹介してやるのさ。だから、愛しのフレッドにもしも振られたら、さっさと言ってくんだよ。ルイーズは老い先短いんだからさ」
確かに俺にとっては、恋愛関係を築くのが難しい年代の女で間違いないのだが、いくらなんでも老い先短いは言い過ぎだろう。
ついでに、冗談か本気か知らないが、まだフレッドと俺の関係を誤解されたままだったのだが、ここでリジーにツッコミを入れるのは、もうやめておいた。
「邪魔したな。もう仕事に戻っていいぞ」
お喋りが多すぎる彼女と、これ以上話していると、いつまでたってもきりがない。
だが、第一印象で感じたよりは、ずっと良い女なのかもしれないと、俺は自分の評価を改めた。

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