当直以外、殆ど人が残っていない署で、黙々と報告書を仕上げていると、俺よりも1時間以上遅くにアバラインが戻ってくる。
「今まで、聞き込みですか・・・」
考えてみれば、アバラインにはパブでリジーを押しつけられそうになったわけで、会ったときには一通り文句を言うつもりだった。
しかし、疲れ切ったその顔を見ると、そんな気分も綺麗に消え失せた。
「まあな・・・残念ながら、大した成果はなかったが」
前置きしつつも、アバラインは、そのハードワークと、捜査へそれなりに方向性を示すことができるだけの情報を、俺に教えてくれる。
アバラインは『テン・ベルズ』を出たあと、当初は俺と一緒に回る予定になっていた、コマーシャル・ストリートにある全てのパブと、その界隈の安宿、さらにニコルズが以前住んでいたという、オズボーン・ストリートと、フラワー&ディーン・ストリートの簡易宿泊所も尋ねてみたらしいのだが、そこから大した情報は得られなかったという。
しかし、コマーシャル・ストリートへ戻ってみると、警邏中のコマーシャル・ストリート署の巡査と会い、彼から思いがけない話を聞けたと言った。
巡査がかつてB管区にいた当時、トラファルガー広場で起きた血の日曜日事件に駆り出されたことがあり、その現場で拘束した野宿者達の中に、ニコルズがいたらしいのだ。
「巡査から、ニコルズの前夫との間に、5人の子供がいたことを聞いたから、そっちを当たってみようと思ったんだが、現住所までは知らないと言われた」
それでも諦めずに、もう暫く聞き込みを続けていたらしく、気が付けばこんな時間になってしまったのだそうだ。
ひとしきり話したあとで、アバラインは上着を脱いで、机に放り出すと、一旦流し台に消えて、お茶の準備を開始した。
躰の細さを強調するような、ストライプ模様のベストの背中。
疲労が溜まっているのであろう、その僅かに背を丸めた後ろ姿が、少しばかり艶っぽい・・・。
そう感じてしまうのは、俺も疲れていて、頭の運動能力が低下しているせいだと思い、瞼を閉じてその上を指先で軽くもみほぐした。
不意に良い香りが立ち上ってきて、目の前にカップが現れる
「あ・・・ありがとうございます」
どうやら、上司である彼に、俺の紅茶まで準備させてしまったらしい。
「で、そっちはどうだった」
アバラインは隣のデスクから椅子を引き寄せて腰を下ろす。
こちら向きの姿勢で足を組み、陶器のカップを自分の口へ運びながら、彼はじっと俺の返事を待った。
生地の幅がかなり余っている白いシャツの袖、カップの持ち手に掛けられた華奢な指、スラックスの裾から覗いている、女と変わらないような細い足首・・・どこを見ても力強い印象などまったくないというのに、10何年もこの危険なホワイトチャペルで凶悪事件と格闘し続けていた人なのだ。
「それが、その・・・」
たとえば、贅肉などというものとは縁もなさそうな腰の括れなど、後ろから俺が両腕を回せば、肘から先を簡単に交差させられるに違いない、・・・そして自分の腕の中にその躰を引き寄せて、白い項へ顔を埋めることができるだろう。
その時に頬を擽る、柔らかそうな褐色の髪はひんやりと冷たく、薔薇色に染まる首筋は逆に熱を持って、彼の躰からはきっと甘い香りが立ち上って、長い睫毛が僅かに震えて・・・。
不意に、彼の視線に気が付いて、俺は慌てて目を逸らす。
「どうした?」
欲しい。
「あ、いえ・・・」
俺は軽く頭を振った。
まったく何を考えているんだ。
それもこれも、あのリジーが妙なことを言い出すから、可笑しな気分になったに違いない。
気を引き締め、改めて頭の中を整理する。
俺はさっき何を思った・・・一瞬、とんでもない考えが、頭をよぎらなかったか?
よそう・・・今は仕事に集中するべきだ。
まして、フレッドの目の前で考えるような話ではない筈だ。
どこまで話したものかと悩みながら、俺はひとまず凡その経緯と、事件に必要な内容だけを選択することにした。
余計な部分にまで話題を広げたら、何を言い出してしまうかわからない。
「そうか。では、そのアザミという少年の証言について、裏をとる必要があるな」
話を聞き終えたアバラインは、特にこれといった感情も籠らない調子でそう俺に告げた。
「ええ。明日もう一度バックス・ロウへ行って、聞き込みをしようかと思います」
「そうしてくれ。・・・それで、あの女はどうした?」
「女・・・って、リジーのことですか」
「そういう名前なのか? 彼女と、その・・・」
アバラインは何か、口にしにくいことを言い淀んでいるように見え、俺はハッと思いだした。
そう言えば『テン・ベルズ』で彼は、娼婦であるリジーに対し、2ポンドもの金を払って、俺と二人きりにしたのだ。
「ないです、ないです! 宿に連れて行かれて、すぐにアザミを部屋に呼ばれましたから、そこから彼とさっきの話をしただけで、あの女とは何もしてないですよ! だいたい、本当に口が減らない女で、とてもそんな雰囲気には・・・」
俺はすっかり焦っており、ペラペラといらないことまで早口でまくし立て・・・。
「つまり、女とも話をしたんだな」
せっかく張った予防線を、あっさりと自分で突破していた。
「え・・・はい、まあ・・・」
ヘイゼルの瞳が放つ鋭い眼光が、俺をガッチリと捕らえて放さなくなっていた。
その目が、誤魔化しは利かないと通告している。
次の瞬間、俺は先ほどの自分が抱いたい艶めかしい期待や妄想が、愚かで厭らしいただの幻想でしかなかったことを理解した。
「どんな話をした」
間もなくベテラン刑事の隙がない尋問が開始され、結局俺は、リジーとの会話内容を洗い浚い打ち明ける羽目になった。
つまり、結婚できない原因らしい、俺の鈍感さをリジーにからかわれたことや、これは本当に知られたくなかったことなのだが、アザミを抱くべきだったといったような彼女の発言に、・・・さらにとりわけアバラインには絶対に聞かせたくなかったような事までも、何もかも包み隠さず白状させられたのだ。
そういった内容を全て聞き終わったアバラインは、思いの外厳しい顔で沈黙していた。
ヘイゼルの瞳は、俺の視線と絡み合っていたポイントから、僅かに逸らされて、眉間に寄せられた縦皺は、さらに深く刻まれ、もともとは後ろへ軽く撫でつけられていた、癖のある長めの柔らかそうな前髪も、額から掻き上げられることもなく。
「あの・・・フレッド・・・?」
名前を呼ばれて初めて、俺がまだ目の前にいたことへ気が付いた・・・とでも言うような顔をする。
俺と再び視線を絡み合わせた、その目を大きく開き、淡い色合いの瞳がくっきりと丸く見えていた。
ぼんやりとしていたことを、恥じらったのだろうか、アバラインの目元が僅かに赤く染まる。
その様子が、なんとも艶っぽい・・・たじろいでしまうほどに。
「ああ、悪い・・・その、話した内容は、それで全てなんだな」
アバラインは、念を押すように確認した。
「はい」
「他には何も? ・・・例えば住人達の会話内容や、変わった動きについては話していなかったか」
「べつに・・・・あの、何が聞きたいんです?」
そもそも、アバラインがなぜ俺に、リジーを尋問させようと思ったのか、考えてみればそこを聞いていなかった。
「いや。何も言っていないならそれでいい。質問しただけだ」
だが、アバラインはそう言うと、ふたたび目を逸らした。
何かを考え込んでいるような表情だった。
「はあ・・・」
理由があるに違いないのに、教えてくれる様子はない。
釈然としない。
「それで、・・・またその娼家へ行くのか」
「なぜです?」
目を逸らしたまま一旦カップを机へ戻して、アバラインは目頭を押さえる仕草を見せる。
疲れているのだろう。
「彼を・・・抱くべきだったと、リジーに言われたんだろう? お前は何もしなくて構わないのか」
「聞き込みに行っただけですし・・・それとも、そういうことしてくるべきでしたかね?」
そういえばリジーは、しきりにアバラインなら、絶対にアザミを抱いた筈だと言っていた。
「そんなことはない。・・・お前が必要ないと感じたのなら、それでいいんじゃないか」
漸く視線が俺に戻される。
表情が少しだけ、和らいで見えた・・・どことなく、安心をしているような。
気のせいかもしれないが。
そして俺は、肝心なことを思い出した。
「そうだ、よく考えたら、金払ってもらってんですよね!? ・・・結局何もしなかったわけですし、取り返してきた方がいいですかね」
「それは難しいだろう。何もしなかったのは、お前の勝手な判断だ」
アバラインはクスクスと笑った。
そういう顔をすると、結構可愛い。
「でも、フレッドはそれでいいんですか?」
「金を払ったことも俺の勝手だ・・・俺はあの女から話を聞き出して、それでいてなおかつ、あの女から逃げ出すには、ああするしかないと考えた・・・それだけだしな。確かに少々高くはついたが」
「少々どころじゃありませんよ! ・・・っていうか、やっぱりフレッドは、俺に押し付けて逃げていたんですか?」
今度は悪戯っぽい表情で、上目遣いに笑って見せた・・・・やばいぐらいに可愛い。
キスしてしまいたいぐらいだ。
「ああいうのは、ちょっと苦手だからな。悪かったなジョージ」
「そうなんすか・・・なんかちょっと意外ですね」
「意外?」
「ええ、女なんて適当にあしらってそうだと思ってました」
すっかりアバラインの雰囲気が和らいでいたため、彼の追求はこれで終わりだと思い込んでいた。
だから、こんな冗談も俺の口から飛び出したのだが。
「それはそれで、酷い言われかただな。・・・ところで」
際どい発言まで口にして、もしもそこを追求されたら、逃げ切る自信がなかった。
それだけに、彼が聞き流してくれたのだと都合良く判断して、珍しい笑顔まで見せられてすっかり油断していたのだ。
俺は本当に馬鹿だった。
「はい」
時刻はとっくに、2時を回っており、もういい加減に帰ろうかと立ち上がり、上着の袖へ腕を通しながら、少し間抜けな声で俺は返事をしたと思う。
アバラインの声もリラックスしているように、俺には聞こえていた・・・、考えてみれば恐ろしい人だ。
「俺がお前を振ったら、お前はその、お前のお袋さんよりも年上のルイーズと、本当に結婚する気なのか」
耳を疑って、アバラインを凝視した。
何を言われたのか、最初は意味がわからず、よくよく考えてから・・・。
「しませんよ、するわけないでしょう・・・っていうか、なんでそんな話を、今更・・・」
血流が活発になり、首から上が真っ赤になっていく自分の躰を、俺はどうすることもできないでいた。
冷静に考えれば、ただの冗談なのだから、適当に誤魔化せばいいというのに、その程度の余裕すらなかった。
ルイーズの件ではない。
その前の条件節が問題なのだ。
「いや・・・たった今知ったばかりだから、確かめただけだったんだが。・・・というか、俺がなぜお前を振らないといけないんだ」
よりにもよって、アバラインもその部分を追求し始めていた。
彼の声は相変わらずリラックスしていたものの、特に俺をからかっているような雰囲気でもない。
「ですから、それはその、成り行きでそういう話になっただけで・・・もう、いいでしょう?」
不意打ちにこんな質問をするなんて、どういうつもりなのだ・・・。
「よくはないだろう。だって俺はお前にまだ告白されていないんだが、・・・この状況で、どうして俺がお前を振れるんだ? そもそも、お前は・・・俺を好きなのか?」
ヘイゼルの瞳がまっすぐに俺を捕らえて、その表情はどこか夢見がちに見えてしまい・・・まったく、なんて残酷な人だと思う。
「知りませんよ! もう帰ります」
質が悪すぎる・・・あの瞳は反則だ。
おまけに彼の頬まで、いくらか染まっているように見えてしまった・・・俺の脳が異常信号を発し始めている。
もう帰って寝ろということだろう。
「思わせぶりな話を聞かされた挙げ句に、肝心な部分はお預けだとは、なんだか弄ばれた気分だ」
どっちがだと言いたかったが、ぐっと堪えた。
今は俺の分が悪すぎる。
「お疲れさまです、フレッド」
背を向けたまま上司に挨拶をした。
これ以上二人でいたら、何を口走ってしまうかわかったもんじゃない。
・・・いや、口走るだけで済めばまだ良い方だ。
「ああ、お疲れ様。ジョージ・・・・お前が結婚できない理由が、俺にもなんとなくわかったよ」
そんな言葉がはっきりと背中から聞こえていたが、意味を深く考えるだけの余裕が、このときの俺にあるわけがなかった。

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