翌朝、早めに署へ出ると、アバラインの筆跡で俺の机にメモが残されていた。
当直明けの職員へ聞いてみると、朝6時には既にその紙が置いてあったらしい。
どうやらニコルズの遺族を探しに行ったらしいのだが、そうなると一旦家へ帰ったのかどうかも怪しい。
昼には戻るつもりらしく、それまでの間、俺にはバックス・ロウで聞きこみを実施するようにと指示があった。
昨日からそのつもりでいたので、当初の予定通りに現場へ向かう。
「そのつもりでは、いたんだがなあ・・・」
ニコルズの遺体が見つかったのは、厩舎の門の前。
真向かいはだだっ広い石灰置き場で、その隣の建物は『エセックス・ワーフ』という看板を出している。
他には肥料工場、羊毛工場、仕立屋、聖職者の家に、満杯の貸し間長屋が何軒か、それと空き家かあるいは空き店舗。
「何回同じ事を聞きに来るつもりなんだい、いい加減にしとくれよ」
目の前でピシャリと閉められた扉の前に立ち、俺はそれこそ何度目か判らない溜息を長く吐いた。
仕立屋の前から日の高いバックス・ロウの通りを振り返る。
嫌がられるのも当然なのだ。
この通りは昨日、一昨日と、捜査員が死ぬほど聞きこみを行ったばかりであり、3週間前のマーサ・タブラムの事件、その3か月前のエマ・スミスの事件のときにも来ている。
恐らく今ではホワイトチャペルの家と言う家、店と言う店のうち、刑事が聞き込みをしなかったところなど、空き家以外にあるわけがない。
だが、誰も物音ひとつ聞いていないし、見ていないというのは、妙ではないか。
もちろん、叫び声や喧嘩の声も、通りを歩く街娼と男の人影も、バックス・ロウに限らず、ホワイトチャペルでは珍しいものではないのだろうから、敢えて気付かなかったのだと言われれば、それで諦めるしかない。
しかし、まるで型にでも嵌めたように「何も見ていないし、聞いていない」と言われてしまうと、はい、そうですかとは引き下がれない。
少なくとも、アザミはあれだけ詳しく見ていたし、それを話してくれたのだ。
だから、絶対に街娼と男がいた筈で、ここで喧嘩をしていた筈なのだ。
アザミの話が、本当なら・・・・。
「嘘だとは、思いたくないよな・・・」
それとも、俺が過度な期待をするあまりに、アザミの証言にある矛盾を見落としているのだろうか。
いや、そんな筈はない。
もう一度バックス・ロウを見る。
あの夜、オールド・モンタギュー救貧院の人々が、汚れを洗い流して、事件が起こる前と同じように、いや、恐らくそれ以上に綺麗になっている舗道の敷石。
これ以上ここにいても、何も見つかりはしないような気がして、俺は一旦バックス・ロウを出た。
不意にどこからともなく視線を感じて、振り返る。
ベイカーズ・ロウ側の通りの入り口近くに2階建ての建物があり、扉の上には看板が掛かっている。
『トッドの理髪店』。
ただし今はトッドもいなくなっているのだろうか、営業をしている様子はなく、窓にカーテンも掛かっていなかった。
壁にはもう1枚看板が嵌めこまれており、そこには剃刀を持った眼鏡のオジサンの、コミカルな絵が大きく描いてあって、おそらく彼がトッドなのだろうと俺は思った。
「誰に見られているのかと思えば・・・尋問中のフレッドよりも眼光が鋭いぜ」
俺は、近所にロベット夫人が経営するミートパイ屋がないことを確認してから、バックス・ロウへ背を向けて、オールド・モンタギュー・ストリートを目指した。
「金貨持って来たかい?」
「あるわけないだろう」
すでに真昼の高さに上った初秋の太陽は、強い日差しで煉瓦の建物を照らしていた。
『マダム・マギーの家』は、わりと始業時刻が早いらしく、こんな時間帯でも働いている人が多くいる。
出入りしているクリーニング業者へ洗濯物を預ける中年女性や、掃除中の少女達、厨房で昼食の支度をしている賑やかな声などが、開け放した玄関や窓からよく聞こえていた。
2階の窓から顔を覗かせているリジーは、羽飾りの付いたボンネットではなく、スカーフで髪を押さえ、化粧っ気のほとんどない、年相応の顔で雑巾を片手に憎まれ口を聞いている。
どうやら硝子を磨いていたところ、建物の前で思案している俺を見つけて、声をかけてきたようだった。
昨夜は女王とアレクサンドラ妃の間ぐらいの年齢かと思ったが、こうして見るともっと若い。
案外俺と変わらない年なのかもしれない。
最初からこのぐらいの薄化粧にしておいてくれたら、昨夜は彼女を相手にと考えなかったこともないのだが。
ひとまず、アザミに会いに来たということをリジーに告げる。
「半ソブリン」
「ふざけるな」
自分が一瞬でもリジーに好感を抱いたことを、即時に後悔した。
この女は、所詮金に目がくらんでいる娼婦なのだ。
冗談じゃない。
「もう、だいぶ日が高いねえ」
不意にリジーが空を見上げて言った。
「だから何だ」
「そろそろ裏庭で、シーツを洗い終わる頃じゃないかと思ってね。うちは仕事柄、毎日洗濯が大変なんだよ。パーキーも今日は、1ヶ月ぶりの休みで、手伝いに来てくんないみたいだしね。なんだか今日は、やけに忙しいんだよ」
「パブのツケを払わされるうえに、1ヶ月も休みを貰えないのか。少しパーキーに酷く当たりすぎだろう。それで、アザミは中にいるのか? すまないが、彼を呼んでくれ」
どういう雇用契約をしているのかは知らないが、パーキーという人物が気の毒で仕方がなかった。
「ねえ、刑事さん悪いけど、代わりにシーツ干しといてくんないかい?」
こめかみで毛細血管が、何カ所かブチ切れる音が聞こえる。
「いい加減にしないと、お前を公務執行妨害でしょっぴくぞ」
「会いたいんだろう、アザミに。だったらつべこべ言わず、言う通りにした方がいいよ。玄関を入って、まっすぐ行った突き当たりの扉から出てみな」
そう言うと、リジーは再び窓を拭き始めた。
つまり、アザミは裏庭にいるということだ。
「そうか・・・ありがとうな、リジー」
彼女は掃除の手を再び止めると、目を丸くして、俺をまじまじと見下ろした。
数秒ほどそのまま沈黙する。
「バ、バカじゃないのかい。あんたの口から礼なんて、気味悪いからやめておくれよ・・・!」
そして、徐に上擦った声でそう言って、窓をピシャリと閉じると、部屋の奥へ引っ込んでしまった。
「へえ・・・」
意外と可愛いところもあるようだ。
言われたとおりに建物へ入り、昼間でさえも薄暗い廊下を真っ直ぐに進む。
左右の何カ所かに同じような扉が不規則に並び、右側にあるいずれかの扉は地下への階段になっていて、昨夜はリジーにそこから別の棟へと連れて行かれた筈だった。
窓一つない狭い通路は、僅かな照明だけが足を進める上での頼りであり、扉の奥に広がる空間も、屋外へ近づいている感覚も、ここにいる限りはまったく感じ取ることができない。
途中で不安になりつつ、漸く突き当たりまでやって来る。
そこも同じような雰囲気の扉で、これで合っているのだろうかと疑問を抱いたが、ノブを引いてみると、途端に隙間から眩しい外光が廊下へ差し込み、広々とした空の下へ出て来たことがわかった。
つくづく、よくわからない建物である。
裏庭の方が建物の南側へ作られているらしく、芝生が敷き詰められたその場所は、かなり居心地の良さそうな空間だ。
敷地の境界にあたるらしき、木塀の近くに作られた、日辺りの良い花壇には、青々としたアスターが陽光を浴びて大量に花開いている。
私道らしい狭路に面した小さな門前も、秋の訪れを早くも感じさせる薄の群生が、若い穂を垂れていた。
反対側を振り返ると、一見したところ黒髪の少女に見える、ほっそりとした立ち姿が、ロープにシーツを通していた。
「刑事さん・・・」
「これはまた、えらい重労働みたいだな」
濡れて重くなった生地の端を持ち、大きな洗濯物を一緒に広げてやる。
庭に何本か張り巡らしたロープには、既に10枚以上のシーツが干されていたが、足元におかれた大きな籐の籠には、まだてんこ盛りに湿った布が入っている。
「どうということはないですよ、僕は男ですから」
ピンでシーツの端を留めながら、彼はにっこりと笑った。
爽やかな晩夏というべきか、あるいは初秋の涼しい風が薄の穂を静かに揺らし、パタパタと音を立ててシーツがたなびいた。
このぶんだと、今日は洗濯物がよく乾くことだろう。
アザミの仕事が一段落つくのを待ってから、話を聞きたいと申し出る。
しかし、空になった籠を持ち上げた彼は、これから掃除を手伝わないとなの駄目だと、申し訳なさそうに告げ、あっさりと館内へ戻ってしまった。
これでは、何をしに来たことかわからない。
仕方がないので俺も、一旦館内へ入り、オーナーであるマダム・マギーを探し出して直接交渉した。
その結果、半ソブリンを支払って、アザミの拘束に成功・・・・いや、これは成功したことになるのか、少々疑問だ。
とにかくアザミを館から連れ出した俺は、早速バックス・ロウへ引き返した。