バックス・ロウはブレイディ・ストリートからベイカーズ・ロウまで、ホワイトチャペル・ロードと並行しながら、ほぼ東西に伸びている、約300メートル程度の裏通りだ。
ニコルズの遺体が見つかったのは、ブレイディ・ストリート側に近い、厩舎の門前にある側溝で、アザミが男女の揉め事を目撃した位置は、反対側の入り口近く・・・つまりベイカーズ・ロウ側だ。
彼はそこからオールド・モンタギュー救貧院へ帰るために、バックス・ロウの前を通り過ぎようとした辺りで声を聞いて立ち止まり、男女が言い争う様子を暫く見ていたらしかった。
「女性は仕立屋の扉の前辺りに、男性は空き家の前に立っていました」
アザミはバックス・ロウに建っている建物を指さしながら、細かく手を動かして説明した。
顔もまっすぐにそちらへ向けられて、僅かに褐色の瞳だけを動かし、自分が見ていた男女の影を、そこに思い描きながら話している・・・、俺にはそう見える。
嘘を言っている者の挙動ではないだろう。
「空き家とは?」
記憶に間違いがなければ、バックス・ロウに空き家、あるいは空き店舗が3軒あった。
ひとつは仕立屋の隣、もうひとつは通りを挟んだ真向かいで、最後の一軒は、ブレイディ・ストリート側にある。
「ああ、すいません・・・仕立屋の隣に建っている、2階建ての建物のことです。もともとは理髪店が入っていたんですけれど、この1年ぐらいは空き家になっているので。・・・たぶんですが、男の人は、おそらく仕立屋との境界線辺りにいたんじゃないかと思います」
アザミは暗かったのでと、若干記憶が曖昧な理由を説明しながら、立ち位置の説明を補足した。
どうやら、『トッドの理髪店』の看板を出している、空き店舗のことを、言っているらしかった。
「君はここから二人を見ていたんだよね」
「はい。といっても、ほんの数秒程度のことですが」
「他に目撃者はいなかった?」
「たぶん。・・・でも、すごく暗かったので、いてもわからなかったとは思います」
「なるほど」
喧嘩をしている光景に出くわし、自分でトラブルを解消できそうにもなく、野次馬が他に居ないような場合は、とばっちりを食らう前にさっさと立ち去るべきだろう。
「あまり酷いようなら、一応お巡りさんを呼ぼうかと思ったのですが、どうもただの痴話喧嘩のように感じられたもので、そのまま立ち去りました」
賢明な対処である。
しかし、アザミの目撃情報が正しければ、それが単なる痴話喧嘩で済まなかったことになるのだが、そのとき彼にそれが予測できなかったとしても、仕方がないだろう。
「どんな声が聞こえていた?」
「罵声です・・・かなり口汚い。・・・その、男を性的に貶めるような類の」
アザミは気不味そうな顔をして、やや顔を赤くした。
「なるほど、無理には聞きださないでおこう。男の方は?」
「声はしましたが、言葉が聞きとれるほどではありませんでした。興奮していたのは一方的に女の人のほうで、男性の方は冷静だったと思います」
「どういう風に二人は立っていた? ・・・ああ、直接再現してもらおう。男が立っていたのは、この辺り?」
そう言ってアザミをバックス・ロウへ連れて行き、俺は仕立屋と空き家の境界線に立った。
「はい、ちょうど刑事さんが立っているような感じだったと思います。で、女の人はこういう体勢で、今にも掴みかかるような感じで、オーバー・アクション気味に手を振りまわしながら、怒鳴り散らしていて・・・」
「やって見せてくれる?」
前のめりになって説明するアザミに実演を要求すると、素直に両手を上下に何回か振りながら、説明を続けた。
冷静な顔と前傾姿勢、そしてオーバー・アクションの取り合わせが不釣り合いで、少し滑稽だ。
何事だろうかと、仕立屋が窓際にやってきて硝子越しに観察をし始めたが、構わずアザミは再現に徹してくれた。
真面目な子である。
「そして男性が両手首を掴んで女の人を、壁際へ押し付けたように見えたので・・・け、刑事さんっ・・・!?」
「こういう感じかな?」
俺は聞いた通りを想像しながら、細い手首を強く掴む。
そして華奢なアザミの方へ、自分の上半身を覆い被せるようにして、彼の背中を煉瓦塀へ押し付けると、ぐっと顔を近づけて小さな顔を覗きこんだ。
「・・・はい」
アザミは丸っこい目を更に見開いて俺を見上げている。
顔は真っ赤になっていたが、抵抗もせず、これはあくまで演技なのだからと、必死に自分へ言い聞かせているようにも見えた。
仕立屋の店主は、それこそ男女の痴話喧嘩か、カップルがイチャついているだけだと思ったらしく、既に窓の傍から消えている。
通行人の目も同じような感じだ。
ということは、これはやはり、揉め事というよりも、寧ろ男女の戯れに見えるということだろう。
「それで?」
アザミを押さえ付けたまま、さらに状況を聞いてみる。
しかし彼は赤くなったまま、とうとう俯いた。
少しの沈黙が続く。
額の生え際まで朱に染まり、伏せられた濃い睫の隙間から、褐色の瞳が潤んでキラキラと光っている。
手首の力は、完全に抜けていた。
このまま口説いたら、どのぐらいで落ちるのだろうか・・・などという、不謹慎な考えが頭を過ぎった。
困っているような、迷っているような数秒間を挟んだのちに、アザミは再び口を開く。
「あの・・・二人が重なるように見えて、女の人が急に黙ったので・・・その・・・けっ・・・刑事さん・・・」
「なるほど・・・キスをしているように思ったと」
俺はアザミに、さらに顔を接近させながら、低い声で確認した。
アザミは長い睫毛を震わせて、顔全体を紅潮させ、艶のある赤い口唇が、薄く開かれそこから浅い呼吸を繰り返していた。
こうして近くで見ると、昨日リジーが言っていた通りで、確かにうっすらとだが化粧をしていることがわかる。
それが女のように手慣れているらしいということも。
なぜアザミは女の恰好をしているのか、知りたいと思った。
「ねえ、男が立っていたのはこの位置として、元々、女が立っていたのはどの辺りだったっけ・・・?」
キスせんばかりに顔を接近させたまま、アザミに質問してみる。
アザミは一瞬だけ目を開いて俺を見たが、俺の顔が近づいたままであることに気が付くと、すぐに視線を下ろした。
一瞬だけ、互いの鼻がぶつかり合う。
アザミはこれで、かなり動揺した筈だ。
「ですから・・・仕立屋の・・・入り口の前辺りです」
正解。
「男は太った中年って言っていたよね」
「ち、違います・・・あの、年齢はよくわかりませんが、太ってはいないです。その・・・陰になっていたので、顔がよく・・・姿も・・・ごめんなさい」
これも正解。
「身長は女より、20センチぐらい高いんだったっけ」
「そ・・・それはちょっと。女の人より少し高いぐらいでしたので・・・そこまで高くはないと思います」
全問正解。
俺はそろそろ、アザミをセクハラから解放してやることにした。
動揺しきった精神状態でさえ、まったく証言に揺らぎがないとなると、彼の目撃証言は少なくとも嘘ではなく、ある程度信用に足るものだと判断していいだろう。
となると、この界隈の連中が嘘を吐いている?
しかも、集団で・・・。
「んなバカな」
「あの・・・刑事さん?」
アザミがきょとんとした可愛らしい顔で、俺を見上げている。
まだ頬に赤みが差したままだ。
艶やかな黒い髪に、昨日と同じようなリボンを付けて、今日は紺色のワンピースに、編上げの黒いシューズを履いている。
どこからどう見ても少女だ。
なぜこんな恰好をしている・・・それともさせられている?
俺がまじまじと見ているせいか、またアザミの頬は赤く染まっていき、睫毛を震わせながら視線を彷徨わせ始めた。
そういえば俺は、半ソブリンを支払って、アザミを買っていたのだと思い出した。
昨日の2ポンド金貨の件もある・・・もっとも、あれは俺が支払ったわけではないが。
「そうか・・・俺は君を自由に出来るんだった」
厭らしさ満点である、大人の笑みを貼り付けて、俺は再びアザミへ詰め寄った。
「あ・・・あのっ・・・」
肩を震わせながら俯いて、アザミは自分の爪先辺りに視線を下ろすが、あくまでそこから逃げようとはしない。
買われた立場だということを、彼もちゃんと承知しているのであろう。
アザミの肩へ手を掛ける。
ビクリとした反応が返って来るが、その手が振り払われることはない。
「さて、これから君をどうするかな」
「・・・・・・・」
言いながら掌を胸へ下ろし、脇腹を擽るように撫でてみる。
可哀相なぐらいに、躰が固い。
極度の緊張が、触れた先からしっかりと伝わって来た。
俺はその手を下ろして掌同士を触れ合わせると、小さな彼の手を握りしめる。
「じゃあ、行こうか」
「刑事さん・・・?」
アザミを連れてバックス・ロウから出ていき、俺はホワイトチャペル・ロードを目指した。

 10

欧州モノ:「切り裂きジャック」モノへ戻る