「すっかり遅くなってしまって、悪かったな」
バックス・ロウからアザミを連れて署へ戻ったのが、午後1時過ぎ。
そこからアザミの協力を得て調書を作成し、続いて女と男の似顔絵を描かせた。
女の方は、これでニコルズだと確定しても良いぐらいだった。
似顔絵描きは、顔が入れられないのに、意味がないと最初は渋っていたが、描かせてみると、遺留品を見ていない筈のアザミは、ニコルズが身に付けていた服装を、かなりの線で再現させた。
アルスターコートのボタンの大きさや、シルエット、スカートの丈、一番興奮したのは、ブーツの踵に打たれていた金具で、これは決定打に近いほどの特徴だった。
帽子のシルエットも、ほぼ同じ物で間違いなかった。
逆に男の方は、相変わらず正体不明の領域を脱することはなかったが、とりあえず労働者らしいことが、これにて判明したと言っていい。
ホワイトチャペル署を出て、オールド・モンタギュー・ストリートの方向へ歩き始める。
時間はすでに夕方になっていた。
歩きながら、何かが物足りないと感じたのでよく考えてみると、昼食をまだ食べていなかった。
俺は構わないとしても、アザミに申し訳ない。
「あの・・・刑事さん、僕、そろそろ戻らないといけないのですが・・・」
「ああ、もう5時近いもんな。メシ食って行く時間ぐらいはあるか?」
レストランでゆっくりしている余裕はないだろうから、パブで何かを食べて行こう。
そう思って、適当に窓硝子の向こう側を覗いてみたが、このどの店も混んでいるように見えた。
「そのぐらいなら・・・ただ、そうすると、その・・・する時間が・・・」
「ん? 何だって・・・悪い、こっち歩いていいか?」
ホワイトチャペル・ロードの店よりは、ハンバリー・ストリートまで行った方が、もう少し空いているかもしれない。
アザミを促し、再びブレイディ・ストリートを通過して、バックス・ロウへ入る。
「はい、構いませんけど・・・その、さっき刑事さんは、僕を・・・その・・・」
「俺が君にどうしたって・・・」
バックス・ロウを出る直前、再び俺は嫌な視線を感じた。
立ち止って振り返る。
西日に照らしだされたバックス・ロウ。
街灯の明かりがポツポツと点り始めていたが、この曲がり角だけは殆ど明かりがない状態であることに、改めて気が付いた。
照明と言えば、仕立屋の入り口に小さな角灯が一箇所あるきり。
この灯りで、アザミはニコルズらしき女を見たのだろうが、確かにそれは扉の前を照らしているだけで、隣の空き家との境界線までは届きそうにない。
2階の窓付近にも1箇所ランプが掛かっていたが、壊れているのか、それとも理髪店が個人的に取り付けた物で、今は空き家になっているせいだろうか、明かりが点いていなかった。
俺は空き家の窓を見上げる。
相変わらずそこに人影は見えないが、あの窓で間違いない。
「刑事さん・・・・?」
「アザミにひとつ聞きたい事がある」
「はい・・・何ですか?」
「君の傍にいる親しい人々・・・たとえば、君の友人や家族、恋人でもいいのだが、彼らが個人的に君と会う場合、やはりマダム・マギーへ半ソブリンを支払う必要はあるのだろうか」
「まさか・・・ありえません」
俺はほっとしてアザミへ視線を戻した。
「それなら良かった。本当に申し訳ないんだが、この先は一人で帰ってもらって良いかい? その代わり、近いうちに君を食事に誘いたい・・・その、こんな時間まで君を引っ張り回したお詫びの印に。君の・・・友人として」
「一人で帰るのはもちろん構わないのですが・・・ええっと、友人として、・・・ですか?」
「ダメかな」
さすがにこれは図々しかっただろうか。
アザミの表情は微妙な変化をした。
ほんの数秒の間に脳をフル回転させて、俺は考えられる限りのことに思いを巡らす。
俺は32歳でアザミは17歳・・・2倍近い年齢差で、友達はさすがに寒かっただろうか。
それに埋め合わせって、一体何だ・・・・?
アザミは『マダム・マギーの家』の従業員として、俺に付き合ってくれたのではなかったか。
そもそも娼婦でもないのに、無茶を言ってきた客の俺が、店に金を払ってしまったから、断ることも出来ずに付き合ってくれただけだ。
挙げ句に飯抜きになってしまい、それでも漸くここで俺から解放される筈なのに、後日また付き合ってほしいなどと言われても、鬱陶しいだけではないだろうか。
それも金を払うというならまだしも、仕事でもないのになぜ中年の男と、休日かプライベートで飯を付き合わないといけないというのだ。
一体、どちらにとっての埋め合わせだ?
完全に、俺の為に決まっているじゃないか。
「ええっと・・・・それって、僕と友達になってくれるっていう意味・・・ですよね」
その声は間違っても喜びに弾んでいる調子ではなく、だからといって、面倒くさいとか、嫌がられているような様子でもなく、どこか恐る恐るといった感じに尋ねられていた。
実に微妙な響きだった。
「ああ・・・そのつもりだったんだけど・・・ええっと・・・気持ち悪かったら、別に・・・」
自信がなくなってきて、ネガティヴな気分になる。
「嬉しいです」
「考えたら、俺じゃ年上すぎるし・・・えっ、今なんて・・・」
アザミは口元に右手を置いて、恥じらうような仕草で俺を見上げていた。
実に可憐だった。
「楽しみにしています。約束・・・してくれますか?」
そう言って、アザミはすっと俺の胸の辺りの高さへ右の拳をさしだしてきた。
「もちろん・・・だが、これは?」
よく見ると、小指だけが軽く折り曲げられて、少し浮いていた。
「ユビキリ・・・日本の習慣・・・だそうです。昔、母によくさせられたって、父が言っていたもので」
「そうか・・・君のお母さんは日本人だと言っていたな。こうかい?」
同じように右手を差し出してみると、アザミの細く小さな小指が、俺の物に絡まって来た。
それからアザミはよくわからない歌詞・・・おそらく日本語なのだろうと思うが、童謡のような節をつけて、短い歌を聞かせてくれた。
「それじゃあ刑事さん、さようなら。今日は楽しかったです」
アザミは笑顔で手を振ったあと、スカートを翻してベイカーズ・ロウを歩いて行った。
「ユビキリか・・・」
なんとなく甘酸っぱい気分にさせられるのは、俺に下心があるせいだろう。
それでも久しぶりに悪くないような、ふわふわとした心持ちにさせられた。
すぐに見えなくなったアザミの可憐な後ろ姿を見送った俺は、気を引き締めてもう一度バックス・ロウと対峙する。
「オーケー、待ってろよ。・・・そんなに俺が気になるなら、こっちから会いに行ってやるさ」
空き家の窓を睨みつけ、俺はその建物へ向かった。
11
欧州モノ:「切り裂きジャック」モノへ戻る