正面玄関は案の定、鍵が締まっており、バトラーズ・コートと書いてある、近くの狭い通路から裏手へ回ってみる。
10メートルほどの距離を歩いて、幾つかの建物が面した広場に出て、開きっぱなしになっている木製の小さな門から泥濘の多い庭へ入った。
「これは靴が台無しになるな」
アバラインが嫌がる顔を思い浮かべながら、暫し建物と睨めっこを続けた。
硝子が割れた幾つかの窓に、2階のベランダ、一応閉めてある扉。
進入経路になりそうな場所は、ぱっと見ただけで3通りあったが、とりあえず、素直に扉へ手をかけた。
「やっぱりね」
鍵が壊れていた。
ということは、やはり俺が感じた熱視線は、気のせいや、地縛霊の悪戯などではなかったのだろう。
屋内は荒れ放題に荒れていた。
アザミの話では、1年前までここでトッドが理髪店を経営していたということだったが、俺の目には、ざっと10年も不動産の手入れをサボっているようにしか、見えなかった。
壁に貼り付けた大きな鏡が3つある。
おそらく経営者がいた当時のまま残されているようだが、それらは所々がひび割れて、汚れや曇りで本来の役目が果たせる部分は多くなかった。
額に落ちている黒い前髪を、一応後ろへ撫でつけて、髭が目立ってきた顎を指先でなぞる。
まあ、夕方はいつもこんなものだ。
客を座らせる椅子、そしてケープや、鋏、タオル、剃刀、櫛といったような商売道具、あるいはそれらを収納する用具入れのたぐいは、住人が出て行く際に撤去されたか、あるいは盗まれたかのどちらかで、見当たらない。
俺は椅子があったであろう、足下を見下ろし、ざらついた床面を靴の裏で軽く蹴った。
「・・・なるほど、トッドが得意の髭剃りで、客をウトウトとさせている間に、この床が回転して、客が地下室へ落とされて、ロベット夫人の店でミートパイにされちまうんだな」
・・・などということが、あるわけはなく、板に付いている汚れを見て確信する。
たった今、俺の靴から飛び散った、湿り気のある泥の塊。
そして、辺り一面に残されている足跡の、赤みがかった粘土質の付着物は、まるで同じ土の質・・・、これはバトラーズ・コートへ面した中庭の泥濘から持ち込まれたものだ。
その足跡は実に様々で、男のものもあれば女の物もあり、古く消えかかったものも、この1時間以内につけられたような物もある。
理髪店は1年前に閉店したというが、この店内には頻繁に多くの人々が出入りしているのだ。
・・・何のために?
俺はもう一度出入り口へ戻り、通路を渡って階段を上がる。
明かり取り一つない、狭く真っ暗なそこは、慎重に足を運ばないと足を踏み外しそうであり、店舗と同じように泥だらけだった。
靴底を下ろすたびに、ざらついた砂利が木材と擦れ合う音を、辺りに響かせる。
階段を上り始めるまでは、確かに2階に人がいるような気配を、俺は感じることが出来た。
しかし、今は物音ひとつ聞こえなくなっている。
こちらの足音が聞こえて、どうやらすっかり警戒されているらしい。
狭い踊り場に到着する。
階下と同じで2階には一部屋しかなく、扉は明け放れたままだ。
「こんにちは」
一応挨拶をしてから部屋に入ると、薄暗い外光が照らし出すそこを住処としているらしき者達の何人かが、俺に目を合わせてきた。
部屋の大きさは、下の店舗と全く同じで、天井はやや低く、カーペットや壁紙、カーテン、照明器具の類いは一切ない。
他に家具らしきものといえば、デザインの異なる椅子が何脚かと、木箱が3つ、樽が1つ。
木箱は大きさが全部異なるが、全てにスピッタルフィールズ青果市場の名前が書いてある。
樽はどうやらトルーマンズ・ビールの物らしく、ひときわ大きな樽を取り囲むように、木箱が裏返しに置いてあり、樽の上にはジンジャー・エールの空き瓶と、ハムの切れ端が載っていた。
近づいてみると、その足元に、パン屑と林檎の芯が落ちているのがわかる。
どうやら誰かがここで食事をしていたらしいが、この界隈の住人にしては、それほど悪くはないメニューだろう。
椅子には擦り切れたカーペットかカーテンを上から掛けてあり、木箱などとともに、各自の住居スペースを区切っているらしき、仕切りに使われていた。
住人の殆どはそれらの生活空間とともに窓の近くに集まっており、二手に分かれて壁際で蹲っている。
人数は6名で全員男だ。
年齢は見たところ、30代から50代までだろう。
全員とも着古した衣類を幾枚も重ねており、汚れた髪と顔をしている。
入り口から見て真向かいの壁には、ふたつの窓があり、その向こうはバックス・ロウだ。
俺が感じた視線が正しいとすれば、向かって左側の窓から見られていたことになる。
「警察の者だが、少し話を聞かせてもらえないだろうか」
とりあえず窓辺に座っていた、ダニーという名前の、30歳ぐらいの男に声をかけて、事件当時の状況を聞いてみることにした。
アザミの話の通りだと、ニコルズと労働者風の男はこの窓の真下で揉めていたことになる。
彼らがいつからここを住処としているのかはわからないが、結構前から住み着いているように見える。
それなら、一人ぐらい何か気づいていても良さそうなのだが。
「何も見ちゃいないし、聞いてもいないよ」
「この窓の真下で、男と女が揉めていた筈なんだが・・・」
「知らないね」
何も見ていない、何も聞いていない・・・・この界隈の住人と同じである。
俺はやれやれと溜め息を吐いた。
ふと、入り口側の壁際に積み上げてある、スピッタルフィールズ青果市場の、真新しい木箱に気が付いた。
そちらの中にはトマトや胡瓜、ジャガイモといった新鮮な野菜がぎっしりと詰まっている。
野菜の隣にはトルーマンズ・ビールの木箱が置いてあり、そこには半ダースほどのジンジャー・エールと、別の箱には2ダース分の黒ビールが入っていた。
「おい、あの野菜やビールはどうした」
もう一度ダニーに尋ねる。
「貰ったんだよ」
「いい加減なことを言うな。誰から貰ったというんだ」
「誰だって構わないだろ、それを刑事さんに伝える義務があるっていうのかい」
ダニーは馬鹿にしたような目で鼻を鳴らした。
思わず俺がダニーの胸倉を掴み上げると、後ろから俺に対する非難の声が一斉にあがった。
そしてもっとも年長である、ローランドという金髪の男が、ダニーの襟首を掴んでいる俺の拳を解いてこう言った。
「あんた達警察は、こうやって俺たちホワイトチャペルの住民を、犯罪者扱いして当たり前のように暴力を振るうが、俺たちの仲間が誰かに暴行されたり、殺されたりしても、まともに捜査もしないじゃないか。この野菜や酒にしたって、ダニーや俺たちの誰かが、盗んできたっていう証拠がどこかにあるのか? そもそもスピッタルフィールズ青果市場やトルーマンズ・ビールから被害届は出てるのかい、熱血刑事さん?」
「それは・・・確かに、出ていない・・・と思う」
よもや浮浪者である彼らから、このような警察批判を受けるとは思ってもおらず、それが正論であるだけに俺は言葉に窮していた。
どう考えても、これは完全に俺が悪い。
「だったら疑った俺たちや、あんたが暴行を働いたダニーに謝罪しろとまでは言わないから・・・どうせ警察はみんなプライドが高いんだ、謝って貰ったって口先だけのことだろうしな。それより、さっさとここから出て行ってくれないか。これ以上いてもらっちゃ、目障りだ」
そう言うとローランドは、彼の居住区域らしい、扉際の一角に腰を下ろし、ボロボロのコートの懐から、新品の煙草を取り出して、マッチを擦った。
「・・・あの、ダニー、俺が悪かった」
「謝んなくていいって、ローランドが言っただろ・・・ったく、これだから刑事は嫌なんだよ」
ダニーも自分のスペースらしい、窓際の壁に背を向けて胡座を掻くと、そこから俺を気不味そうに見上げていた。
「みなさんも、すいませんでした・・・その、お邪魔しました」
ひとまず謝罪して、俺は『トッドの理髪店』から退散することにした。
入り口まで来たところで、もう一度部屋を振り返る。
彼らは最初と同じように、それまで自分がしていたことに戻ったり、俺を目で追っていたりした。
箱に詰まったままの野菜や酒、ローランドが吸っていた新品の煙草・・・・釈然としない。
『これだから刑事は嫌なんだよ』
ダニーが言ったその言葉を、俺は最近誰かに聞いていた・・・一体、どこで、誰の口から聞いていたのだろうか。
だが、警察が嫌いな市民は多いし、ローランドが言っていた話は、情けないことだが事実である。
事件発生率が高いイーストエンドでは、警察は常に人手不足であり、生活水準が低い為に住民同士のトラブルも多い。
盗難や事故から暴力沙汰まで内容は様々で、その殆どは住民が引き起こしているのだ。
だからといって、証拠もないのに浮浪者を犯罪者扱いして構わないという道理にはならない・・・・。
考え事をしながら薄暗く細い階段を下りていた俺は、向こうからやってくる影・・・それも上から下まで、真っ黒な塊にまったく気づかず、真正面からぶつかってしまった。
「きゃっ・・・」
「うわ・・・っとと、大丈夫か!?」
最後の2、3段を下りようとしていたところで、小さな悲鳴に気付いて前を見ると、女の浮浪者が、足を踏み外し、後ろ向きに倒れそうになっていた。
どうやら彼女も、下を見ながら昇ろうとしていたらしい、
俺は咄嗟に手を貸して、危ないところで抱き留めてやる。
黒い帽子の下から現れた、亜麻色の長い髪、緑色の瞳、・・・アイルランド系なのだろうか、色白の肌。
黒いワンピースはポケットが破れて用を足しておらず、ブーツは爪先に穴が開いて、汚れた親指が飛び出している。
髪はボサついて、半分以上が縺れ合っており、ソバカスが多い頬は汚れていたが、顔を見る限りなかなかの美人だ。
恐らく年齢は、まだ20代前半だろう。
「ちょ・・・・ちょっと、あんた、放してくれないかい・・・?」
「ああ・・・そうだな。悪かった」
彼女は汚れた頬をうっすらと染めて、俺から離れると、横を通り過ぎて2階へ行こうとした。
咄嗟にその腕を掴んで止める。
「な、何するんだいっ・・・」
「ちょっと君に、聞きたいことがあるんだが」
女は頬を染めた顔に、明らかな警戒心を浮かべて俺を見てきた。
「あんた・・・一体誰だなんだよ」
こんなとき、アバラインなら一体どうするだろうかと俺は考え、肘に賭けていた手を放し、もう一方の手を下から掬い上げるように添えて、自分なりに極上の笑みを浮かべて彼女を熱っぽく見つめる。
そして、まるでダンスでも申し込むような口調で。
「マダム、少しだけお時間を頂けませんか」

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