浮浪者とはいえ、女は女である。
間もなく俺は彼女を裏庭へ連れ出すことに成功した。
最初に身分を明かすと、案の定彼女はさらに警戒心を強くした。
だから俺は、すぐに条件を提示した。
「情報をくれれば、今夜君にベッドぐらいは提供してやれる」
「ちょ、ちょっと待った・・・その、ベッドって・・・つまり、その・・・あんたと・・・」
意外なことに女は、再び顔を赤らめて、気不味そうに緑色の瞳を半分伏せて、俺から目を逸らしてきた。
反応から察するに、どうやらあまり、性経験はないようだ。
となると、十代なのかもしれない。
髪を整え、顔の汚れを落として、新しい衣類に身を包むだけで、十分に魅力的な女になると思うのだが、ひとまず余計な手出しは慎むべきだろう。
情報収集のために、たとえ浮浪者とは言え、下手をすると十代の一般女性を安値で買い叩いたとあっては、警察の信用失墜どころの話ではない。
「安心していいよ、君に手を出しはしないから。そうだな、とりあえず俺に5ペンスで情報を売ってくれるっていうのはどうだろう。夕べ君はここにいた?」
実際に5ペンス硬貨を見せながら尋ねると、女は途端に目を輝かせた。
俺と寝るのは気が進まないが、この界隈にある、男も女も一緒くたに放り込まれるような最低ランクの安宿で、シングル・ベッドを一泊しか確保できない金額である、5ペンスなら、大歓迎ということらしい。
笑顔を保ってはいたが、少々傷ついた。
「上で寝ていたよ。何も聞いちゃいないし、見ちゃいない。約束だから5ペンスおくれ」
俺は言われたとおりに5ペンスを渡してやった。
ここまでは予想通り。
だが、この女は使える。
「実は8月31日の深夜3時頃、この裏のバックス・ロウの入り口で、娼婦と男が揉めているところを目撃したという証言があるんだ」
そう言って、俺はアザミから聞いた男と女の特徴を告げて、彼女へ本当に覚えはないかと聞きなおした。
「知らないよ、寝ていたからね」
彼女はあっさりとそう答えた。
そう、言い張る以上はどうしようもない。
次に俺は再びスラックスのポケットから、今度は5シリングを出して女に見せた。
女は緑色の瞳が零れ落ちるかと思うほど目を見開いて、視線を硬貨に釘付けにした。
「寝ていたんじゃ仕方ないよね。実は、もしもそのことについて、何か教えてくれるなら、この5シリングをあげようと思っていたんだけど、仕方がない・・・。俺はもう帰るとするよ。君も戻ってくれて構わない」
そう言うと5シリングを目の前で固く握りしめ、女に背を向けて裏庭から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと刑事さん・・・!」
後ろから、すぐに呼び止められる。
「どうかしましたか、マダム?」
「ああ・・・そうだよ、そうだった。うっかり忘れていたよ!」
「何を?」
「あの日の深夜3時頃、そんな連中がいたかもしれない」
「どんな様子だった?」
俺は何のために手帳を取り出しながら、さらに話を聞いた。
「言ったら、本当に5シリングくれるんだよね?」
単刀直入に彼女も確認してくる。
「もちろんですよ、マダム。男はどんな感じだった?」
「だから、その子の言った通りさ。背は中くらいで、太ってもいない、どこにでもいるような男だよ。女を買おうとしたんだよ。ねえ、教えたんだから5シリングおくれよ」
「マダム、あなたの名前は?」
俺は手帳を閉じ、再びスラックスのポケットから5シリングを取り出しながら聞いた。
「あたしは、ジニーだよ」
次にジニーの目の前へ見せつけるように硬貨を掲げる。
「それではジニー、もう少し頑張って思い出してほしい。男はどんな服を着て、どんな声だった?」
「そんなの、よく覚えていないよ。何時だと思っているのさ」
俺は目の前で硬貨を握りしめると、ポケットへ戻しながらジニーへ背を向ける。
「残念だが、それでは5シリングはやれない。さようなら、ジニー」
「ちょっと待ってよ、刑事さん! 今、思い出すから・・・そうだ! あれはユダヤ人だよ、間違いない。きっと、ハンバリー・ストリートあたりにいる、靴職人だよ」
「それは本当か?」
「間違いないさ」
俺は再び手帳を取り出すと、ジニーの方を向いた。
「その靴職人の名前は?」
「トーマスだよ」
「結婚はしてる?」
「ああ、女房と子供が3人いるよ」
「大男だった?」
「そうさ、2メートルもある大男で、すごい怪力の持ち主なんだよ。ポリーの首を一捻りで折ってしまったんだ、あたしは窓から見ていたよ」
「さっきは、身長は中ぐらいと言った」
「あ、・・・ああ、そうだ、背は中くらいさ」
結局、俺は何も書かずに手帳を懐へ戻し、ジニーに背を向けた。
「ありがとうジニー、協力に感謝する」
「待っておくれ、刑事さん! 思い出したよ、男は市場の運搬人夫だ!」
「もう戻っていいよ、ジニー」
俺の腕に縋り付いて止めようとしてきた、ジニーの躰を押し返す。
華奢な躰なのに、意外に大きな乳房を、若い彼女は遠慮なく、30代の独身男の背中に押しつけていた。
これほど無防備で大丈夫なのだろうかと心配になる。
そういえば、彼女がここに住んでいるということは、あの2階の連中と一緒に住んでいるということになってしまうのだ・・・・。
不意にまた、視線を感じて戸口を振り返る・・・気のせいか。
「本当なんだよ、今度は間違いないから聞いておくれ」
ジニーが必死に訴えてきた。
そして、その男がハンチングを被っていたと、彼女は言った。
「ハンチング? そんなものは誰だって被っているじゃないか」
「ハンチング自体はね。けど運搬人夫は頭に重い荷物を載せて運ぶだろう? だから若いのに禿げちまっているのが多いんだよ。この辺りにいる、ハンチングを被った若い男って言ったら、たいていは市場の運搬人夫に決まってるさ。それもドックにあるビリングスゲート・マーケットに違いないよ。魚を捌くための刃物でポリーをやったんだよ。今度は間違いないさ」
「ハンチングか・・・」
男は陰になっていて、よく見えなかったとアザミは言った。
あるいは、目深に被っていたハンチングの鍔で顔がほぼ隠されていたために、余計に見えなかったのではないだろうか。
だが、窓の上から見ていたジニーには、それがはっきりと見えていたのだ。
「ねえ、刑事さん・・・」
ジニーが掌を出して待っている。
どこを漁ってきたのか知れない細い指先が、細かい傷と泥で汚れていた。
「本当に間違いない?」
「賭けてもいいさ!」
俺は観念して、再びポケットから5シリング硬貨を取り出し、ジニーに渡してやった。
「ありがとう刑事さん! 頑張ってあの切り裂き魔を、早く捕まえておくれよ」
「もちろんそのつもりだ・・・ちょっと待って、ジニー」
嬉しそうに笑って、硬貨を握りしめたまま、階段を上がっていこうしていたジニーを再び呼び止める。
「なんだい」
「いや・・・その、他の連中には、気をつけるんだぞ」
声を落として忠告すると。
「ああ・・・、わかってるさ。ありがとうね」
少し戸惑ったように緑色の瞳が揺れた。
しかしジニーは照れくさそうに笑ってそう言うと、やはり階段を静かに上がっていった。
「・・・仕方ないか」
これ以上は余計なお節介だろう。
だが、ジニーとて男ばかりのこの空き家に住み着いている以上、それなりの危険性は認識している筈である。
だからこそベッド代と言った瞬間に、あれほど喜んだのだ。
正直に言ってジニーの話がどこまで信憑性があるのかもわからず、半信半疑といったところだし、ビリングスゲート・マーケットに至っては、当てにもならないが、あの金で彼女が何日かの間は、身の危険もなく、安心して熟睡できる夜が過ごせるのなら、それでいいだろうという気になっていた。