バックス・ロウの空き家を出て、コマーシャル・ストリートへ向かい、その界隈のパブやスピッタルフィールズ・マーケットを当たった俺は、意外なことにジニーの証言に合う男が見つかって驚いた。
「それならミラーズ・コートのジョーのことじゃないかい? 相手が娼婦だったかどうか覚えてないが、あの晩ホワイトチャペル駅の前で女と一緒にいたから、メアリー・ジェーンに言いつけてやるぞって冷やかしてやったのを覚えてるよ」
ドーセット・ストリートとコマーシャル・ストリートの角に建っているパブ、『ブリタニア』へ飲みに来ていた男は、真っ赤な顔をしてビール臭い息を吐きながら、のんびりとそう言った。
「メアリー・ジェーンっていうのは、誰なんだ?」
「メアリー・ジェーン・ケリーだよ。娼婦だ」
カウンターの奥で煙草を吸っていた男が、口を挟んでくる。
これまでに何度か、聞き込みに来たときに顔を合わせているマスターとは違う男だが、彼も従業員なのだろう。
「メアリー・アン・ニコルズではなく、メアリー・ジェーン・ケリー?」
また、新しいメアリーだ。
「ジョーの女さ。街娼をやってるが、最近は道に立ってるのを見かけないな・・・若くて美人だが、フランス帰りだとか自慢が多くて、鼻につく女だよ。自分のこともマリーって呼んでくれだとさ。イカれてんじゃねえか?」
酔っ払いの男は吐き捨てるように言った。
この男はケンと呼ばれていただろうか・・・労働者風だが、運搬人夫のような力仕事ができる体格には見えない。
「街娼なのか・・・」
「ケンは一度メアリーに振られてるんだよ」
後ろのテーブルから、髭面の男が口を挟んできた。
「そうじゃねえよ、だから声をかけてきたのはメアリーの方で、俺は朝が早かったから・・・」
「早い男は嫌だって言われたんだろう?」
言い訳を始めたケンを、髭面がからかい続ける。
一緒のテーブルに付いていた女達が、確かに早い男は嫌だと囃し立て、ケンはさらに真っ赤な顔になって誤解だと反論を続けた。
彼女達は恐らく街娼だろう。
憐れだと思いつつも、似たような会話を最近どこかでした覚えがあることに気づき、だが、それをどこで交わしたのか俺は思い出せなかった。
これ以上は、話が聞きだせそうにないだろうかと諦めて、席を立とうとしたころ。
「ジョーを探しているなら、ここよりも、『ホーン・オブ・プレンティ』へ行った方が早いよ」
カウンターの奥の従業員が無愛想に教えてくれた。
「『ホーン・オブ・プレンティ』?」
聞いたことがない店だった。
「ドーセット・ストリートのパブだよ。この界隈の連中なら、大概あそこにも出入りしている。うちはビールしか許可されていないが、あそこならジンも飲めるからね」
従業員から新しい店を教えてもらった俺は、言われたとおりにドーセット・ストリートを西へ進む。
『ブリタニア』のちょうど反対側にある、この通りへの入り口に、『ホーン・オブ・プレンティ』は建っていた。
従業員へ聞くと、確かにミラーズ・コートのジョーという男はこの店へよく来ると言っていたが、このときは店にいなかった。
「ジョーはもう、寝ちまってるんじゃないか? あいつはスピッタルフィールズ青果市場で働いてるから、こんな時間に起きちゃいないだろ」
窓際でオイルサーディンを摘みながらロンドン・ドライ・ジンを飲んでいる男が教えてくれた。
壁に掛かっていた時計を見ると、7時を回っている。
寝るにはいくらなんでも、早すぎる気がするが、改めて時間を知ると、不思議なことに腹が減ってきた。
「ビリングスゲート・マーケットじゃないのか? こんな時間に寝ている大人はいないと思うんだが」
「冗談言っちゃいけないぜ、刑事さんは市場ってところがどんなところか、わかっちゃいないだろう。朝5時からの仕事に就くには、4時には起きなきゃなんねえ。臨時雇用なら朝の内に解放されるが、たしかジョーは稼ぎがいいから、正規雇用の筈だ。だとすると過酷な労働が10時間も続く。そんな仕事をこなすには、8時間は睡眠をとらないといけない。こんな時間にパブで飲んでるわけないさ」
「稼ぎがいいのか?」
「週に3ポンドは稼いでるって言っていたよ。羨ましい話だぜ」
なるほど・・・このあたりの安宿が、シングル・ベッドで一晩4ペンス、ダブルで8ペンス。
ジョーは女と暮らしているから、ベッド代が8ペンスだとして、週に4シリングと8ペンスを払ったとしても、相当金が余る計算になる。
「住まいはミラーズ・コートと聞いているが・・・」
コマーシャル・ストリート側から入って、数軒先の狭い入り口から入った通りに、確かにそう書いてあった。
付近の住民によると、そこにも何軒が安宿が並んでいるということだった。
「マッカーシーの長屋さ。その前はブリック・レーンだか、ジョージ・ストリートだかに住んでいたって言ってたかな・・・ずっとあのアイルランド女と一緒だった筈だよ。いつもこの辺りのパブで飲んだくれてる。旦那が早朝から重労働で稼いでる金でな」
例のメアリー・ジェーンのことだろう。
どうやら、あまり評判の良い女ではないようだった。
「女はアイルランド人なのか? さっきはフランス帰りと聞いてきたが・・・」
「本人はそう言ってるがね。街娼の言うことなんてアテになんないだろ」
「メアリー・ジェーンはイギリス人さ。アイルランド系ってだけのことだよ。あっちの女は色白で美人が多いんだよ、なあ刑事さん?」
いつのまにか隣のテーブル席に座っていた、太った黒髪の男が口を挟んできた。
「ああ、そうだな。ビリングスゲート・マーケットじゃなくてスピッタルフィールズ青果市場なのか?」
さらに、ベッドの中でも情熱的だのなんだのと、話題が変な方向へ行きそうになったので、適当に相鎚を打って、話を戻す。
そういえばアバラインもアイルランド系だと言っていた。
「ああ、そうさ。仕事を貰うために4時には並ばないといけないと言っていたから、間違いないよ」
ロンドン・ドライ・ジンの男が言った。
「並ぶ? 正規雇用だったんじゃないのか」
話が怪しくなってきた。
「正規雇用に決まってるじゃないか、3ポンドも貰ってるんだぜ?」
「ジョーはビリングスゲート・マーケットだろ?」
再び太った黒髪の男が口を挟む。
その後は、スピッタルフィールズ青果市場だ、いや、そうじゃないという議論に突入したため、このあたりが限界だと諦めて、俺は店を出ることにした。
再びコマーシャル・ストリートへ戻り、『ブリタニア』の角を曲がって、一旦スピッタルフィールズ青果市場へ行ってみるが、この時間に誰もいる筈はなく、今度はコマーシャル・ストリートを横断して『テン・ベルズ』へ入ってみた。
「い・・・」
条件反射で挨拶をしようとしていたマスターが、俺の顔を見て言葉をすぐに引っ込めると、盛大な溜め息を吐いていた。
「こんにちは、マスター」
それでもすぐに紅茶の準備に取りかかってくれた彼に、俺は妙な親近感を覚えてしまう。
書き入れ時の店内は非常に混雑しており、そろそろ空腹が限界だった俺は、適当にここで食事を済ませようかとメニューへ目をやった。
そのときである。
「ねえ、ジョー。メアリー知らないかい?」
通りから飛び込んできた金髪の若い女が、壁際の席に腰掛けている男へ話しかけた。
男は色白で中肉中背、年齢は30歳ぐらい。
労働者風で、臙脂色のハンチングを被っている。
女はおそらく娼婦だろう。
「はい、お待ちどう」
フィッシュ・アンド・チップスとともに、マーマレードを添えたスコーンが二つ載っている皿が、カウンターに現れる。
「マスター、このスコーンは?」
「紅茶に揚げ物は合わないだろう。いいから食べな」
どうやらサービスみたいだった。
「ねえ、このスコーンってひょっとしてマスターが作ったの?」
「・・・文句があるなら残しとけばいいだろうが、まったく」
そう言い残すとマスターは、後ろを向いてスコーンが並んでいる籠にふたを被せて、棚へしまってしまう。
残念ながら作りたてではなさそうだが、手作りで間違いないらしい・・・・マスターの印象がどんどんと変わっていく。
「ねえ、マスター」
「うるさいね、無理に食べなくてもいいからっ・・・」
「いやいや、スコーンの話じゃなくてさ、あの壁際のジョーって男のことだけど・・・」
その後、ほんのりと耳を赤くしている、意外と可愛いマスターから、ジョーの話を幾らか聞き出した。
名前はジョウゼフ・バーネットと言って、年齢は29歳。
ミラーズ・コートにメアリー・ジェーンという女と一緒に住んでいて、彼女もしょっちゅう店に来ているということだった。
例のジョーで間違いなさそうだ。
話しかけてきた女はジュリアと言って、よくメアリー・ジェーンと吊るんで飲み歩いている街娼らしい。
「ろくでもない女だよ」
マスターは煙草を吸いながら言った。
「メアリー・ジェーンが?」
これまで、あまりメアリー・ジェーンの評判が良くなかったことを思い出して、そう聞いてみる。
「メアリー・ジェーンにしろジュリアにしろ、街娼がってことさ。あの連中はたいてい酒を飲んで大騒ぎするし、客引きするだろ。するとしょっちゅう他の客とトラブルになるんだよ。だからと言って、こっちは、街娼を理由に追い出すわけにもいかないし、困った連中さ。金を落としてくれるかぎりは、客だから、彼女達を追い出してちゃ、うちも商売にならないしね・・・なんとかならんもんかね」
悩みどころというわけらしかった。
ジュリアをさっさと追い返してしまったバーネットは、すぐにまた一人で飲んでいた。
俺は彼に近づき、直接話を聞くことにした。
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