「すみません、隣、空いてますか?」
「え・・・ああ、どうぞ」
話しかけるとバーネットは青い瞳をきょとんとさせて、戸惑いつつも、とくに嫌がる様子もなく俺に椅子を勧めてくれる。
だが、店内を見回し、混雑してはいるが、他に空いている席が幾つかないわけでもなかったため、壁を向いて首を捻っていた。
「何度かこの店には来ているんだけど、あまりお見かけしませんね。・・・気づいてないだけかな、ここ騒いでいる街娼が多いし」
「普段は違う店によく行ってるけど、ここにも時々来るので、多分お互いに気づいていないだけでしょう。残念ながら、こちらも男を熱心に観察する趣味はないですから」
そう言うとバーネットは笑った。
よく見ると、なかなかハンサムな男のようだ。
さきほどのジュリアという女も、メアリー・ジェーンを探している振りをして、本当は彼を誘いたかったんじゃないだろうか。
「さっき若い女を追い返してたよね・・・、ほら金髪の。ひょっとして振っちゃったの? 結構可愛い子だったのに」
聞くと、バーネットは眉間を寄せて、切れ長の目元に、苦々しい皺を刻んだ。
「そんなんじゃないよ。彼女は人を探して、ここに来ただけだ。あいつは僕のことなんて、興味もないと思いますよ」
「そういえば、メアリーとか言っていたっけ・・・。でも本当にそれだけなのかな。あんた、なかなか二枚目だと思うけど」
「他の女にそう言われたら、悪い気はしないですけど、残念ながら刑事さんが相手じゃね・・・・話が聞きたいんでしょう。下手な芝居はもういいですから、本題に入ってくれないですか・・・そろそろ帰らないといけないので。朝が早いんですよ」
とっくに正体がばれていた。
まあ、あれだけあちこちで聞き込みしていたら、当然だろう。
「そういうことなら、単刀直入に聞かせて貰おう。8月31日の深夜に、あんたらしい男をホワイトチャペル駅周辺で見かけたって言っている男がいるんだ。あの晩のことを聞かせてほしい」
「ええ、あの辺にいましたよ」
驚いたことにバーネットはすぐに証言を認めた。
「何をしていたんだ」
「・・・人を探していたんです」
バーネットは少し憂鬱な目をしてそう答えた。
「深夜に女を連れてか」
「彼女がいないことに気が付いたのが、2時半ぐらいだったんですよ」
そう言うとバーネットは、半分だけ残っていた手元のビールを飲み干し、その夜の足取りを説明した。
彼はいつものように、8時過ぎにはベッドに入っていた。
その夜、珍しく同棲相手であるメアリー・ジェーンが部屋にいたので、安心して眠りに就いたらしい。
ところが深夜の2時半頃、尿意を覚えて目が覚めてみると、部屋には彼一人しかおらず、メアリー・ジェーンとともに彼女の帽子や外套まで消えていた。
「また男と遊びにいったのかと思うと、とても寝ていられなくて・・・彼女の仕事のことで、僕たちはもうこれまでに、何度喧嘩をしたかわかりません。仕事なんて言っても、要するに売春です。僕は不幸な彼女がこれまで経験してきたことを、全部受け入れるつもりで、彼女を選びました。このイーストエンドで二人分の生活費を稼ぐのは、本当に大変ですが、それでも必死に働いています。そしてちょっとした贅沢も・・・そりゃあ、刑事さんと比べたら、どうってことはないでしょうけど、それでも週に一度は肉を食べさせてやり、月に一度はミュージック・ホールへ連れて行ってやるぐらいのことは、させてやっています。小さなものですが、部屋には花や絵を飾ったり、ときどきは新しい服やブーツを買ってやったり・・・彼女が喜ぶ顔が見られるなら、そのために一日に10時間も12時間も働くことぐらい、どうってことないと、僕はそう思っているんです。それなのに、どうして彼女はあんなやつと・・・」
「つまり・・・あんたの女は、男のところに行ったってことか」
どうやら、夜中に浮気相手のところへ行ってしまったらしかった。
「はい、そうです・・・」
バーネットは力なく項垂れると、ため息を吐いた。
なんだか憐れな男のようだった。
「失礼だが、・・・あんたの女についても、ちょくちょく話を聞いて来たんだが、正直に言って、そこまでする値打ちのある女だとは、ちょっと・・・・」
美人だが、酒癖が悪く、自慢が多い・・・あまり良い評判ではない。
おまけに、深夜にベッドを抜け出して、別の男のところへ遊びに行くとなると、どんな男にとっても、将来を誓うべき女性にはとても思えない。
「刑事さんには関係のないことでしょう」
拗ねたような顔で言われた。
「ああ、いやそうなのだが・・・」
友達ならこちらも、目を覚ませと説得に入るとことろだが、確かに俺には関係のない話だった。
「メアリーは、本当ならこんなところにいるような女じゃないんですよ。ちゃんと学校に行っていたし、16歳のときに炭鉱夫と結婚していて、ところがすぐに事故で旦那に先立たれたんです。その後暫くは従姉妹と一緒に住んでいたらしいんですが、この従姉妹が売春婦で彼女にあの仕事を教えてしまったんですよ。メアリーの深酒が始まったのもその時期です。でも根は真面目な女なんですよ、酒さえ入らなきゃ・・・。すいません、刑事さんビールを追加注文していいですか」
「ああ、どうぞ」
そこからバーネットは俺を相手に、溜まっていた愚痴を洗い浚い話す気になったらしく、結局店から出たのは1時間も後のことだった。
「じゃあ、まあ気をつけて帰れよ。仕事に遅れないように、注意しろよ」
「はい、刑事さんもお仕事頑張って・・・とと・・・すいません、大丈夫ですか?」
バーネットはふらついた足取りでコマーシャル・ストリートを横断しようとして、向こうから歩いてきた警邏中の巡査にぶつかりそうになっていた。
巡査はバーネットを拘束しようかどうか少しの間悩んでいたようだが、家がすぐ近所だとわかると、彼をそのまま帰してやることにしたようだった。
「大丈夫かよ・・・」
メアリーが他の男のところへ行ってしまうのは、バーネットの頼りなさが原因ではないのだろうか・・・などと、話を聞き始めて20分ぐらいで、俺は確信していた。
だが、それを指摘したろころで、そう簡単に直せるものでもないだろうという気がしたので、残りの40分は、ひたすら聞き役に徹していた。
少なくとも、悪い男ではないようだ。
結局あの夜、ホワイトチャペル駅の前を歩いていたバーネットが、娼婦に声をかけられて、それをあしらっているところを、知り合いに目撃されて冷やかされたという経緯だったようだ。
その後バーネットは、ビショップスゲイトやタワーヒルのあたりまで、メアリー・ジェーン・ケリーを探して歩き、見つけることが出来ず、漸く明け方に、家へ戻っている。
念のために、アリバイを証言をしてくれる相手はいないのかと聞いてみたが、探し回るのに必死だったので、誰と会ったかよく覚えていないと、言われてしまった。

 



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