署へ戻った頃には10時を回っていた。
「ああ、お疲れ様ですフレッド」
机に向かって、幾つかの公的書類へ目を通しているアバラインに、俺は声をかけると、彼の手元にカップを置いていないことを確認して、真っ先に流しへ向かった。
昨日は上司である彼にお茶を淹れさせてしまったが、本来なら俺がそうするべきだ。
「今まで聞き込みだったのか」
「はい。・・・ちょっと気になる男がいたので、そいつから話を聞いていたら、こんな時間になってしまって」
俺は紅茶を淹れながら、今日一日の成果を彼に報告した。
最初にバックス・ロウで話を聞いた後に、もう一度アザミに会ったこと。
その後、空き家の2階が浮浪者のたまり場になっていることを発見し、そこでジニーから漸くアザミの話を裏付ける証言がとれたこと。
そしてバーネットと会って、今まで話を聞いていたこと。
「そうか・・・ということは、今のところその男の、犯行時刻のアリバイはないということでいいんだな」
話を聞き終えたアバラインは、冷静な声で開口一番にそう言った。
「それは、そうなりますが・・・」
俺は茶を注いだカップを運びながら、まじまじとアバラインを見つめる。
「何だ、そういう話をしていたんじゃなかったのか・・・ああ、ありがとう」
バーネットを完全に容疑者から外すつもりだった俺は、アバラインの解釈に戸惑っていた。
書類を机に置いて、白いカップに指を添え、ヘイゼルの瞳が俺を見つめ返す。
途端に、どういうわけか夕べの妄想を思い出し、焦りそうになって俺は視線を逸らすと自分のカップを持って、隣の椅子を引いた。
「あの・・・ですね、俺が見る限りにおいてバーネットという男は、とてもそんな犯行が出来るような、度胸のあるやつには見えませんでしたよ。もっと卑屈で、ウジウジとしていて、貢いでいる女に裏切られてるのに、はっきりと怒鳴ってやることも、ましてや自分から女を捨てることも出来ず、夜中じゅう女を探し回っているような情けない男です。そういう野郎が、あんな大胆な殺人を・・・」
「お前の感想は聞いていない。バーネットにアリバイはない、それでいいんだな」
「・・・・っ! はい、そうです・・・アバライン警部補」
カチンと来ていた。
それからアバラインに、さらに幾つかの事実関係を確認され、俺は自分で得た限りの情報を、上司である彼へ報告した。
こちらも、ことさらに淡々と。
俺が間違っているのはわかっていたし、彼に指摘されるまで、それに気づかなかったことも確かだ。
バーネットの演技に騙されていない保証など、どこにもないし、彼にアリバイがない以上、やっと見つけられた重要参考人であることに変わりはない。
そう、やっと見つけられたのである。
それを俺は勝手な先入観で、進んで自分から目を反らそうとしていた。
アバラインはそこに気づかせてくれたのだ。
・・・だが、俺はつまらない意地を張り続けていた。
その後、彼はバーネットの証言を裏付ける人物や、ほかにも目撃者がいないのかを、探す必要があると言った上で、こう聞いてきた。
「その空き家に出入りしているのは、浮浪者達だけだったか?」
「仰る意味がわかりません、警部補」
不機嫌に任せて、突き放した言い方になっていた。
アバラインは少しだけ傷ついたような顔をしていたが、いい気味だと俺は思った。
彼は努めて冷静に、質問をかみ砕いて続けた。
「空き家にあったという、ビールや野菜・・・それらが盗まれたものでない以上、彼らはちゃんとしたルートから手に入れていることになる。ダニーは貰ったものだと言ったんだろう。それなら今考えられる一番の可能性は、誰かがその空き家へ、それらの食料品や飲料を持ち込み、彼らを味方につけて、俺たちに証言をがしないように吹聴しているということじゃないのか?」
「それ・・・は・・・」
目から鱗が落ちるとは、このことだった。
「あるいは、その男は空き家の浮浪者だけではなく、バックス・ロウ・・・いや、ホワイトチャペル全体の住民達を、あるいはパブに出入りしている娼婦達を、手懐けようとしているのかもしれないな」
「まさか、ラスク・・・!」
俺は咄嗟に『テン・ベルズ』で俺たちに、挑発的な態度をとっていた男を思い出し、その名前を出したが、アバラインはけして驚きはしなかった。
「わからん。・・・俺もラスクは怪しいと思ったが、仮にそうだとしても目的がさっぱり不明だ。それに今の警察に対して、鬱憤が溜まっているのは、何もラスクばかりではない。だが、浮浪者を支援して味方に付ける財力があり、警察と住民達に対立軸を作り出して、街全体への影響力を手にするだけのフットワークやコネクションがあるという意味では、建築家のジョージ・ラスクは、十分に可能性が高い存在だ」
「ったく・・・鬱陶しい野郎ですね」
「それでも影響されていない浮浪者・・・あるいは、お前の魅力で、まんまと手の内に転がり落ちて、貴重な情報を提供してくれた女がいたんだろう?」
皮肉るようにアバラインが言ってきたため、俺は慌てた。
「ち、違いますよ・・・! あれは、フレッドならこういうときどうするだろうか、って考えたら、女相手には、胡散臭いぐらいに優しく振る舞うのが一番かなと思ったから・・・あっ」
言ってから、呼び方がうっかりファーストネームに戻っていることに、自分で気づき、咄嗟に口を噤んでしまった。
考えてみれば、子供っぽい反抗をしていたものである。
「女には胡散臭いぐらいに優しい、か・・・、お前には俺がそんな風に見えているのか・・・酷いな」
「・・・・・・」
ふて腐れるように言いつつも、アバラインの表情は、すっかりいつも俺が見慣れているような、リラックスをした柔らかいものに戻っていた。
こうした彼の寛いでいる表情について、俺は特別な感情を掻き立てられずにはいられない。
なぜなら彼は、ほかの警官連中といるときには、尋問中と大して変わらないような厳しい顔か、あるいは無表情でいるのに、俺と二人になったときにだけ、こんな顔をしょっちゅう見せてくれるからだ・・・そしてこの表情が俺はとても好きなのだ。
その表情の優しさは、けして上辺だけのものではない、彼本来の性質から滲み出ているものだと、知っているから。
俺がくだらない意地を押し通して、さらにそれにも失敗をしたことに、気づいているくせに、アバラインはそれを茶化さずに、すべて聞き流してくれた・・・・。
こんな細かい気遣いをとってみても、アバラインという男のさりげない優しさというものが、よくわかる。
・・・あるいは俺が張った意地など、彼にとってはまともに付き合う値打ちもないから、軽く無視されていただけなのかもしれないが。
「何にしろ、よくそこまで今日一日で調べてきたな・・・お疲れ様、ジョージ」
アバラインはそう言って、にっこり笑ってみせた。
ヘイゼルの瞳には、俺しか映っていない。
「いえ・・・そんな。俺なんか、見落としだらけなのに・・・」
これからも、映してほしくはない・・・その優しい瞳には、俺以外・・・。
「そんなことはない。お前の行動力は、本当に凄いよ・・・ときどき、ハラハラさせられるが」
「俺がですか!?」
ハラハラすると言われるほどの原因には、ちょっと心当たりがなかった。
もちろん、刑事だから仕事をしていれば、少々危ないところへ突っ込んでいく局面もあるが、アバラインと組んだのは、あくまで今年の4月からで、とくにそういった危険な場面を思い出せない。
現状では、地道な聞き込みが殆どの筈だった。
俺が以前に関わった事件について、誰かから聞かされたのだろうか。
だが、それを言ったらアバラインだって同じだと思うのだが・・・。
「自覚がないんだな・・・まあ、いい。それなら聞き流してくれ。・・・さて、ひとまず今日はこのぐらいにして、もうお互い終わりにしないか? 俺は食事がまだだから、もしもお前もこれからなら、一緒にどうだろう」
「あ、いいっすね」
そう言うと俺はカップを置いて立ち上がり、机に投げ出していた上着を取り上げた。
「ただし、席を立つのは、報告書を全部書き終えてからにしてくれないか。俺も手伝ってやるから」
「マジですか・・・これ全部書いてたら、朝になってしまいますよ」
「それなら俺も、喜んで朝までお前に付き合う・・・本当に・・・いつでもな。それから、ジョージ・・・」
「はい・・・?」
なぜかアバラインは、そこで言葉を一旦切っていた。
再び椅子に座り直して、ペンを手に取っていた俺は、続きの文句が聞こえてこないので、隣の席を振り返った。
アバラインは俺の視線に気づくと、僅かに頬を染めて自分の書類に目を落とした。
「明日のことだが、さっそくバーネットの職場へ行ってみてくれないか」
色白の肌、弧を描く長い睫、薔薇色に染まっている頬、撫でつけられた額の上から、一筋だけ目元へ落ちている、柔らかそうな褐色の髪。

あっちの女は色白で美人が多いんだよ、なあ刑事さん?

『ホーン・オブ・プレンティ』で聞き込み中の俺に声をかけてきた、肥満の男の言葉を、思い出していた。
その後男は、ベッドの中でも情熱的で、あそこの具合も良いのが多い・・・などという、下品な話を、もう一人の男と繰り広げていた気がする。
「まあ、それもいいかもな・・・」
ふとフレッドが目を上げる。
ヘイゼルの瞳が不満そうに俺を見ていた。
「なんだか、気のない返事だな」
「え・・・あ、いや・・・その」
「バーネットの職場については、特定できたのか?」
アバラインはすっかり上司の顔で話を続けた。
「はい、本人に聞いたところによると、ビリングスゲート・マーケットで合っているようです」
「それで裏がとれたら、話は早い。市場なら朝は早い筈だし、仮にニコルズ殺害の犯行時刻にアリバイがなくても、その日の本人の様子が聞けるだけで、十分参考になる。あるいはタブラムやスミス殺害の時間帯についてアリバイが見つかれば、少なくともその2件についてバーネットを容疑者から除外できるだろう。本人の勤怠や、言動、人間関係、何でも良いから聞き出せればありがたい・・・いいな」
「はい」
最後の一言が気遣わしげだった。
アバラインに対してつまらない意地を張っていたことを、漸く恥じた。
俺のはっきりとした返事を聞くと、アバラインの表情は、少し安心したように見えた。
「・・・それと、ジョージ」
ふたたびそこで、アバラインは言葉を切る。
「はい?」
俺は応答をして、続きを待つが、暫くアバラインは書類へ目を落としたまま沈黙を保った。
少しだけ首を伸ばして、俺も横から彼の手元を覗き込んでみる。
そういえばアバラインは、本日、ニコルズの5人いる子供たちを訪ね歩いていたはずだ。
昼に戻ると言っていたわりに、結局帰ってきたのは6時過ぎだったらしいのだが、その話をまったく聞けていない。
見ている書類は『ベイコン&カンパニー雇用契約書』という表題であり、その下は『ランベス救貧院支給用品』という見出しが見えていた。
「・・・っ!」
不意に息を呑むような、掠れた声が聞こえ視線を上げると、アバラインが目を見開いて俺を見ており、次の瞬間に椅子をガタリと鳴らして仰け反りながら、書類を裏返しにされた。
「あ・・・、すいません勝手に・・・」
極秘書類だったのだろうか。
彼の扱い方は、そういう雰囲気でもなかったのだが。
「いや・・・構わん、ちょっと驚いただけで」
耳の先が赤かった。
「あの、さっき何か言いかけてましたよね」
「そうだったな・・・だが、大した話ではない。とりあえず、さっさとその報告書を仕上げてしまってくれ。・・・これ、淹れ直すぞ」
そう言ってアバラインは書類を机に残したまま立ち上がり、自分と俺のカップを持って席を離れようとする。
「あ・・・すいません」
また、目を合わせようとしなかった。
確実に何かを隠されている。
先ほどの書類と関係があるのだろうか。
だが、彼はあくまで本庁の人間だ。
俺が何でも首を突っ込んで良いというわけではない、・・・・それはわかっているのだが。
「結局、あの少年と・・・」
不意にアバラインが言った。
質問がよく聞き取れなかった。
「何か言いました?」
振り向くと、アバラインはカップを持ったまま、まだ自分の席の近くにいた。
聞き取れなかったのではなくて、言いかけていた途中だったのかもしれない。
「いや・・・なんでもない」
だが、そう言うと彼はカップを持って、流し台へ向かってしまった。
「はあ・・・」
呆然とその背中を見つめる。
あの少年と・・・・何が言いたかったのだろうか。
少年というのはアザミのことで間違いないと思うのだが。
その後、1時間ほどで、どうにか報告書を書き上げた俺は、アバラインと共に帰宅準備をしていた。
そこへ制服警官のディレク巡査が飛び込んできた。
「殺人事件です! ウェントワース・ストリート20番地で、街娼らしき女の死体が発見されました、急いでください!」
他の警官達とともに部屋を飛び出そうとする。
「ジョージは、ミラーズ・コートだ!」
「え・・・、ああ、はい!」
ディレク巡査とともに馬車に乗り、ウェントワース・ストリートへ急行するアバラインを見送ると、俺は一人でミラーズ・コートを目指した。



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